~「もう一つ上の日本史」出版に伴い、勉強方法も変える必要が出たので、全面改訂突入します~

☞【1523年、寧波の乱はとんでもなかった!】『分裂から天下統一へ』(村井章介、2016年、岩波新書)

分裂から天下統一へ』より。

第1章「戦国―自立する地域」の第1項、【将軍家分裂と室町外交の終焉】をpick up。

(勘合貿易をめぐる大内氏と細川氏)

★明との貿易は、足利義教の時代に「勘合貿易」として復活した(1433~)。

義満の時代が有名ですが、4代将軍義持の時代に途絶えましたね。

義持は近年、ナショナリストとして再評価される傾向が有ります。

これは貿易船が日本から明へ赴くのみの、一方向的な関係であった。

※「勘合」とは明から日本に送られた貿易許可証。有力守護大名や大寺社は対明貿易に参入するにあたり、貿易商人と結ぶほか、勘合を幕府から購入していた。

※1468年の勘合船の純利益を計算すると、現在の価格で10億円を超える。

1453年、大内氏の船が初参入

※当時、北九州に手を広げ、博多商人と深い関係を結んでいた。大内教弘の代である。

応仁の乱の前の話ですな。

※【大内家】

大内教弘―政弘―義興―義隆―義長。

「応仁の乱」は政弘

「足利義稙を擁して上洛、及び細川氏と寧波で戦った」のは義興

「ザビエルに引見し、陶晴賢に敗れた」のが義隆

その跡目についた大内義長は大友宗麟弟。

室町時代を語るうえで、大内氏は外せない。

大内政弘→義興→義隆くらいは覚えておきたい。

【大内教弘】

★応仁の乱で活躍した大内政弘の父。
★1420年~1465年。
★6代将軍義教から編諱して「教弘」。
★河野通春(伊予)を助け、細川勝元と対決。陣中で病死。

細川氏は立場を利用して大内氏に勘合を与えないよう画策した

これにより、1468年以降、締め出されてしまう

以後、細川氏と結んだ堺商人の請負で勘合船が送られる。(1476年、1483年、1493年)

「大内+博多商人」vs「細川+堺商人」という構図ですな。

ちなみに、大内氏と細川氏は応仁の乱でも激突しているけど、この勘合船貿易の妨害も一因と考えるべきでしょう。

そして、打倒細川は義興の代も続きます。

(明応の政変と並び立つ「公方」)

1493年の「明応の政変」

将軍義稙は捕縛されて、細川政元が推す義澄が将軍となる。

以後、将軍家は義稙の流れ(義稙―義維―義栄)と、義澄の流れ(義澄―義晴―義輝―義昭)に分かれる。

★同じく1493年には幕府官僚の伊勢盛時が伊豆堀越の足利茶々丸(義澄の異母兄であり、初代堀越公方政知の息子)を追放した。

これは京都の義澄、政元の意を受けてのこととみられる。

この伊勢盛時こそ北条早雲。2年後には小田原城を奪取。

伊勢氏といえば、室町幕府における名門中の名門。

それを差し引いても早雲の才覚には目を見張るものがあります。

【足利茶々丸】

★?~1498。(享年20歳前)
★足利政知(義教の四男)の息子。
★素行不良で監禁されていたが、脱獄して弟を殺して事実上の公方となっていた。(♨ダークヒーローっぽいな・・・)
父の足利政知は四男といっても義政より年上の異母兄。(形式的には義勝、義政、義視、政知の順。)鎌倉公方となるはずが、足利成氏に阻まれ伊豆どまりとなる。(「堀越公方」のはじまり。)

★細川家は養子たちの争いを経て、細川高国が実権を握る。

1508年、大内義興が足利義稙を擁して上洛した際は、彼らと手を結び、細川高国、大内義興、足利義稙の「トロイカ体制(三頭体制)」が成立する

しかし、安芸武田氏、出雲尼子氏が領内に侵攻したこと、および義稙、高国との不和が原因で、1518年、義興帰国。

歴史を見る勉強するときのポイントでもあるんだけど、「細川」といっても「一枚岩」ではない。

同族の細川氏を出し抜くために、(本来敵である)大内氏と手を結んだのが高国という男。(しかし、案の定、長く続かない。)

★1521年、義稙は高国との不和が原因で出奔。

高国はかつて自分が将軍の座から引きずり落とした義澄の息子、義晴を将軍に立てる。

★一方、義稙から細川家の家督を認められていた細川澄元は、1520年に死亡。

その息子、晴元は堺に拠点を置く義維を擁立(堺公方。義稙の養子、義晴の兄弟)し、「高国・義晴」に対抗した。

このあたりはあんまり覚えなくて良いです。

「呆れるくらいの政権争いを繰り返し」で良いです。

最終的に「細川高国・足利義晴」組から、「細川晴元・足利義晴」組に変わります。

★1531年、細川高国は細川晴元の家臣、三好元長に敗れ、自害。

1533年、細川晴元は足利義維を見限り、義晴を将軍とみとめた。堺公方は消滅。

【細川晴元】

 

1514年~1563年。

名前が似ていますが、明応の政変で暗躍した「政元」ではありません。
「政元」の養子の1人、「澄元」の息子にあたります。

1531年、同じく政元の養子にあたる細川高国を討ち破ると、堺公方・足利義維を見限って将軍・義晴側につきます。(自分だけ良ければ良い。)

その後も、呆れるほど多くの政権争いをせざるを得なく、そうこうしているうちに細川家は弱体化。

家臣であった三好長慶の台頭を許す。【コチラも

(寧波の乱)

これは1523年。まだ高国政権の時代です。

大内船は義稙との関係により支えられていた

しかし、関係悪化(前述)。

細川高国は将軍義晴(1521年、11歳で就任)に働きかけ、大内氏が持つ「正徳勘合」とは別の「弘治勘合」を持って寧波を目指した。

★細川船は大内船に遅れて入港したが、副使の中国人が賄賂を使って先に入国手続きを行なう。

これに怒った大内船は細川船の正使を殺害、細川船を焼く。

さらに寧波で掠奪を行い、細川船副使を追って西へ向かう。

その際。現地の武官らも殺害!
!

ここまでやるか?っていうくらい激しい・・・。これが室町武士か・・・。

この事件により明は大きな財政負担となっていた日本との貿易を断絶した

(♨そりゃそうだ。)

収賄に携わったものと、細川船副使の宋素卿は投獄。

とはいえ、これで私的貿易が途絶えたわけではない(後述)。大内氏が独占した。

冊封体制は機能不全となり、その秩序からはずれた海上勢力が主役となる時代が来る

(大内氏滅亡と勘合貿易の途絶)

★日明国交断絶後も、細川氏と大内氏はそれぞれ独自に貿易再開を模索した。

結果的に、義興の跡継ぎである大内義隆が将軍義晴から遣明船経営の承認をとりつけた。

これにより日明貿易は大内氏の独占となる

大内義隆は家臣に下剋上された暗愚な大名というイメージがあるかも知れないが、とんでもない。

京都を凌ぐ都を作ったといっても過言ではない。

★しかし、1551年、陶隆房謀反で大内氏の独占は終わる。

このあと、大友宗麟の弟が大内義長として陶の傀儡となった。

しかし、毛利に敗れて自害。室町時代を代表する名門・大内氏は滅亡する。

そして、日明の正式な外交・貿易は断絶する。

面白いのは、公貿易が断絶たけど、私貿易は増え、交易の規模はかえって拡大したこと。

そして、「大内氏」という壁がなくなることで、大友氏など西国大名たちは倭寇と結びついての交易に乗り出す。

大内氏滅亡でトルレスらは九州へ!『バテレンの世紀』コチラも

大内氏略年表

1363大内弘世、直冬と南朝に見切りをつけて義詮に帰順
1399大内義弘、応永の乱で足利義満に敗死
1453遣明船に初参加
1461この頃、雪舟を匿う
1465大内教弘死亡→政弘へ
1467大内政弘、応仁の乱に参戦
1495大内政弘死亡→義興へ
1507大内義興、足利義稙を奉じて上洛
1518大内義興帰国。
1523寧波の乱。大内船が細川船を燃やす。(余波で現地の官憲も殺害。)
1528大内義興死亡→義隆へ
1543尼子氏との戦で義隆が目をかけていた甥の晴持が戦死。
1550ザビエル、大内義隆に謁見
1551陶隆房(晴賢)の謀反で大内義隆死亡
大友宗麟の弟が陶の傀儡として当主就任。大内義長と名乗る。
1555厳島の戦いで、毛利元就が陶隆房を破る。
1557大内義長、毛利元就との戦に破れ自害。享年26。