こんにちは。
本日、ご紹介するのは『分裂から天下統一へ』の第1章-第1項、「将軍家分裂と室町外交の終焉」です。
勘合貿易をめぐる大内氏と細川氏の争いは「1523年、寧波の乱」によって最悪の形で幕切れするわけですが、これ、今の常識で考えますと「トンでもない」事件です。
まずは、大内氏と細川氏の争いを中心に見て行きたいと思います。
(勘合貿易をめぐる大内氏と細川氏)
明との貿易は、足利義教の時代に「勘合貿易」として復活しました(1433~)。
これは貿易船が日本から明へ赴くのみの、一方向的な関係でした。
※「勘合」とは明から日本に送られた貿易許可証。有力守護大名や大寺社は対明貿易に参入するにあたり、貿易商人と結ぶほか、勘合を幕府から購入していた。
※1468年の勘合船の純利益を計算すると、現在の価格で10億円を超える。
1453年、大内氏の船が初参入します。
※当時、北九州に手を広げ、博多商人と深い関係を結んでいました。
大内教弘の代です。
★応仁の乱で活躍した大内政弘の父。
★1420年~1465年。
★6代将軍義教から編諱して「教弘」。
★河野通春(伊予)を助け、細川勝元と対決。陣中で病死。
【大内家】
大内教弘―政弘―義興―義隆―義長。
「応仁の乱」は政弘。
「足利義稙を擁して上洛、及び細川氏と寧波で戦った」のは義興。
「ザビエルに引見し、陶晴賢に敗れた」のが義隆。
その跡目についた大内義長は大友宗麟弟。
細川氏は立場を利用して大内氏に勘合を与えないよう画策しました。
※これにより、大内氏は1468年以降、締め出されてしまう。
以後、細川氏と結んだ堺商人の請負で勘合船が送られます。
(1476年、1483年、1493年)

ちなみに、大内氏と細川氏は応仁の乱でも激突しているけど、この勘合船貿易の妨害も一因と考えるべきでしょう。
打倒細川は義興の代も続きます。
(明応の政変と並び立つ「公方」)
★1493年の「明応の政変」。
将軍義稙は捕縛されて、細川政元が推す義澄が将軍となります。
★同じく1493年には幕府官僚の伊勢盛時が伊豆堀越の足利茶々丸(義澄の異母兄であり、初代堀越公方政知の息子)を追放しました。
(これは京都の義澄、政元の意を受けてのこととみられる。)
※この伊勢盛時こそ北条早雲。2年後には小田原城を奪取。

細川家は養子たちの争いを経て、細川高国が実権を握ります。
1508年、大内義興が足利義稙を擁して上洛した際、高国は彼らと手を結び、細川高国、大内義興、足利義稙の「トロイカ体制(三頭体制)」を成立させます。
しかし、安芸武田氏、出雲尼子氏が領内に侵攻したこと、および義稙、高国との不和が原因で、1518年、義興帰国。

同族の細川氏を出し抜くために、(本来敵である)大内氏と手を結んだのが高国という男。
(しかし、案の定、長く続かない。)
1521年、義稙は高国との不和が原因で出奔。
高国はかつて自分が将軍の座から引きずり落とした義澄の息子、義晴を将軍に立てます。
一方、義稙から細川家の家督を認められていた細川澄元は、1520年に死亡。
その息子、晴元は堺に拠点を置く義維を擁立(堺公方。義稙の養子、義晴の兄弟)し、「高国・義晴」に対抗した。

「呆れるくらいの政権争いを繰り返し」で良いです。
最終的に「細川高国・足利義晴」組から、「細川晴元・足利義晴」組に変わります。
★1531年、細川高国は細川晴元の家臣、三好元長に敗れ、自害。
★1533年、細川晴元は足利義維を見限り、義晴を将軍とみとめた。堺公方は消滅。
1514年~1563年。
名前が似ていますが、明応の政変で暗躍した「政元」ではありません。
「政元」の養子の1人、「澄元」の息子にあたります。
1531年、同じく政元の養子にあたる細川高国を討ち破ると、堺公方・足利義維を見限って将軍・義晴側につきます。(自分だけ良ければ良い。)
その後も、呆れるほど多くの政権争いをせざるを得なく、そうこうしているうちに細川家は弱体化。
家臣であった三好長慶の台頭を許す。【コチラも】
(寧波の乱)

大内船は義稙との関係により支えられていた。
しかし、関係悪化(前述)。
細川高国は将軍義晴(1521年、11歳で就任)に働きかけ、大内氏が持つ「正徳勘合」とは別の「弘治勘合」を持って寧波を目指した。
細川船は大内船に遅れて入港したが、副使の中国人が賄賂を使って先に入国手続きを行ないます。
これに怒った大内船は細川船の正使を殺害、細川船を焼く(!)。
さらに寧波で掠奪を行い、細川船副使を追って西へ向かう(!)。
その際、現地の武官らも殺害(!!)。

★この事件により明は大きな財政負担となっていた日本との貿易を断絶しました。
(♨そりゃそうだ。)
収賄に携わったものと、細川船副使の宋素卿は投獄。
※とはいえ、これで私的貿易が途絶えたわけではなく(後述)、大内氏が独占しました。
★冊封体制は機能不全となり、その秩序からはずれた海上勢力が主役となる時代が来ました。
(大内氏滅亡と勘合貿易の途絶)
★日明国交断絶後も、細川氏と大内氏はそれぞれ独自に貿易再開を模索した。
結果的に、義興の跡継ぎである大内義隆が将軍義晴から遣明船経営の承認をとりつけた。
これにより日明貿易は大内氏の独占となる。

京都を凌ぐ都を作ったといっても過言ではない。
★しかし、1551年、陶隆房謀反で大内氏の独占は終わる。
このあと、大友宗麟の弟が大内義長として陶の傀儡となった。
しかし、毛利に敗れて自害。室町時代を代表する名門・大内氏は滅亡する。
そして、日明の正式な外交・貿易は断絶する。

そして、「大内氏」という壁がなくなることで、大友氏など西国大名たちは倭寇と結びついての交易に乗り出す。
【大内氏滅亡でトルレスらは九州へ!『バテレンの世紀』コチラも】
大内氏略年表
1363 | 大内弘世、直冬と南朝に見切りをつけて義詮に帰順 |
1399 | 大内義弘、応永の乱で足利義満に敗死 |
1453 | 遣明船に初参加 |
1461 | この頃、雪舟を匿う |
1465 | 大内教弘死亡→政弘へ |
1467 | 大内政弘、応仁の乱に参戦 |
1495 | 大内政弘死亡→義興へ |
1507 | 大内義興、足利義稙を奉じて上洛 |
1518 | 大内義興帰国。 |
1523 | 寧波の乱。大内船が細川船を燃やす。(余波で現地の官憲も殺害。) |
1528 | 大内義興死亡→義隆へ |
1543 | 尼子氏との戦で義隆が目をかけていた甥の晴持が戦死。 |
1550 | ザビエル、大内義隆に謁見 |
1551 | 陶隆房(晴賢)の謀反で大内義隆死亡。 大友宗麟の弟が陶の傀儡として当主就任。大内義長と名乗る。 |
1555 | 厳島の戦いで、毛利元就が陶隆房を破る。 |
1557 | 大内義長、毛利元就との戦に破れ自害。享年26。 |