~「もう一つ上の日本史」出版に伴い、勉強方法も変える必要が出たので、全面改訂突入します~

複数の書籍より年表を作成。

【主な参考資料】

水野大樹先生:「太平記の時代がすごくよくわかる本」「応仁の乱がすごくよくわかる本」、石ノ森章太郎先生「マンガ日本の歴史18~24」、亀田俊和先生「南朝の真実」、呉座勇一先生「戦争の日本中世史」、枻出版社「図解:室町幕府崩壊」、大村大次郎先生、「お金の流れで読む日本の歴史」、河合敦先生「変と乱の日本史」など。

鎌倉時代滅亡の原因は、「実はわかっていない」(呉座勇一先生)

~1300年まで

何と言っても文永の役(1274)弘安の役(1281)。この未曾有の危機に際して、幕府は直接指示を及ばす範囲を拡大することができたが、蒙古軍を撃退したところで恩賞が増えたわけではないので、御家人たちの生活は困窮した。そして、永仁の徳政令(1297)を打ち出したわけだが、これが世紀の失政。これでは誰も貨幣価値など信じまい。

そんな大変な時代ではあったのだが、その裏で四条天皇(12歳)が「自分で仕掛けた遊びの罠で転んで死ぬ」という憂き目により後嵯峨天皇が誕生。この人、後鳥羽上皇の血を引いているわけだが、この人の「わがまま」から今度は「両統迭立」問題が生じて鎌倉幕府を悩ますことに。これがのちの後醍醐天皇の倒幕運動に結びつくわけだから、史実は小説より面白い、と思うわけだ。

鎌倉新仏教も生じているが、日蓮は他とちょっと違ってズバ抜けて過激で、その一派が昭和初期に「血盟団事件」なども起こしたりするので覚えておきたい。時代としては「北条時宗」、「元寇」と同時期、と覚えておこう。8代執権「時宗」以降で覚えておくべき執権は9代執権「貞時」と14代執権「高時」で良い。(この3人は得宗家、いわゆる嫡流。義時ー泰時ー時氏ー時政ー時宗ー貞時ー高時)

霜月騒動」(1285)っていうのは「内管領・平頼綱」vs「外戚・安達泰盛」と書いたが、「御内人」vs「御家人」である。鎌倉時代当初は将軍(頼朝)とその仲間にあたる「御家人」による幕府であったととらえることができるが、そのうちに得宗家(北条家)の家臣が幅を利かせるようになってきて、ついに御家人とバトル、ということ。(もっともその平頼綱も平禅門の乱で滅ぼされてしまうのだが)

1207   専修念仏が禁止され、法然が土佐国、親鸞が越後国に配流。(2月)
★鎌倉時代に入り、栄西によって臨済宗が、道元によって曹洞宗が伝えられ、座禅により自らの悟りを開こうとする禅の精神は新たな権力者である武士や、それにつながる上層農民に拡がる。
★一方、農民たちに広く受け入れられたのは法然の浄土宗、一遍の時宗、親鸞の一向宗(浄土真宗)、法華宗(日蓮宗)。
1224   親鸞が「教行信証」を著し、一向宗(浄土真宗)を広める。
1227   道元が帰朝し、「普勧座禅義」を撰述。曹洞宗のはじまり。
1253   日蓮が安房国清澄寺で開宗、法華宗(日蓮宗)布教開始。(4月) 道元没。(8月)
1262   親鸞没。(11月)
1271   延暦寺火災。(4月) 日蓮が鎌倉幕府により佐渡に配流。(9月)
1272   覚信尼が父親鸞の墓を京大谷に建立。本願寺のはじめ。(12月)
1274 文永11 文永の役
幕府の権力者は8代将軍・時宗、内管領・平頼綱、外戚・安達泰盛ら。朝廷は後嵯峨上皇が院政をして、天皇は亀山天皇→後宇多天皇、関白・近衛基平。

「アンゴルモア」が面白い:コチラ
1275 建治1 鎌倉幕府の奏請で後深草上皇(持明院統)皇子・煕仁親王が立太子に。両統迭立の前触れ。
(※そもそもはその親の後嵯峨天皇が全ての元凶。1272年に崩御したが、生前、後深草天皇、亀山天皇(=後醍醐祖父)という2人の息子を天皇にすべく、後深草天皇から亀山天皇に無理やり譲位させた。さらに、亀山天皇を跡継ぎにしようとしたのか、その皇太子に亀山天皇の息子、のちの後宇多天皇を指名。怒った後深草上皇が幕府に働きかけることで後宇多天皇の立太子にのちの伏見天皇が就く。後嵯峨88⇒後深草89⇒亀山90⇒後宇多91⇒伏見92⇒後伏見93⇒後二条94⇒花園95)
★【後嵯峨天皇:88代天皇】承久の乱以後、皇位継承に関しては鎌倉幕府の承認が必要とされるのが慣例であった。1242年、四条天皇(※)の死去に際し、幕府は有力候補であった忠成王の即位を拒絶し、ダークホースの邦仁王(後嵯峨)を即位させた。このため後嵯峨は以後の皇位継承に際しても幕府の内諾を得てから決定した。
(※)【四条天皇】…驚かそうと思ったら自分がすっころんで頭を打って死んだ12歳男子。ただ、それの死が後嵯峨天皇を生み、後醍醐天皇を生んだわけだ。
この頃、マルコ=ポーロがフビライに謁見。
1281 応永4 応永の役
幕府は九州警護のために守護を北条一族に代えたこと、外敵襲来であったために勝っても物質的に得るものがなかった点などから、御家人たちに不満。さらに寺社貴族が所有する荘園に従属する人々を軍事動員する権利、荘園からの年貢米を兵粮米として徴収する権利まで出し、朝廷からも不満。
1282   日蓮が日昭ら本弟子(六老僧)を定める。日蓮武蔵国池上で没。(10月)
1285   霜月騒動。内管領・平頼綱vs外戚・安達泰盛。
1287 弘安10 煕仁親王、伏見天皇(持明院統)として翌年即位。後深草上皇が院政開始。(持明院統後深草天皇の第2皇子が大覚寺統の後宇多天皇のあとを受けて即位。第92代天皇となる。)
1288   この年、後醍醐天皇生誕
1289 正応2 維康親王が鎌倉追放。久明親王が第8代鎌倉幕府将軍となる。
(第6代:1252年~宗尊親王、第7代:1266年~惟康親王、第8代:1289年~久明親王、第9代:1308年~1333年、守邦親王)(維康⇒久明らとなったのには亀山上皇が幕府から警戒されていた関係もある。持明院統にとって有利な展開に。)
1290   後深草上皇が出家、伏見天皇が親政開始。浅原為頼が伏見天皇(持明院統)暗殺を企て禁中に乱入するが失敗、自害する。(※動機は不明であるが持明院統・大覚寺統の争いが影響しているのではないかと言われる。亀山法皇が黒幕ではないかという説。亀山法皇は西園寺実兼との不和に加え、霜月騒動(1285)で失脚した安達泰盛と親しかったことや、「新制」に対し熱心であった態度が東国のみならず全国へ実効支配を広げようとする得宗勢力の不審を呼んだのではないかとする説が有力となっている)
1293 永仁1 平禅門の乱。平頼綱(内管領)・助宗父子が執権貞時に滅ぼされる。
★この前、鎌倉一帯を大地震が襲い、死者2万人以上出た。霜月騒動(※内管領・平頼綱vs外戚・安達泰盛)から8年、その後の専制に貞時が頼綱の嫡子宗綱の讒言を利用し討伐に踏み切った。宗綱は弟の飯沼宗助が寵愛されることに不満で、父頼綱が助宗を将軍にしようとしていると讒言した。事件後、宗綱も佐渡に流された。平頼綱の後は、1293-長崎光綱、1303-平宗綱、1305-長崎高綱(円基)、1316-長崎高資。1322-安藤氏の乱
1294   京都大火。(1月)
日像が入京、法華宗布教を開始。(4月)(※一向宗が主として農村に普及したのに対して、法華宗は町衆の心をとらえた。)
★日像により初めて法華宗の寺が建つ(妙顕寺)。後醍醐天皇も推す。比叡山は嫌悪感をもつ。
幕府が引付を復活。(10月)
1297   永仁の徳政令
幕府が御家人の所領取戻し、越訴禁止などを定める。(※①越訴の禁止、②所領の質入れ、売買禁止。すでにしたものは持ち主に返却、③債務不履行の裁判は受け付けない=借金の返済をしなくても罪にならない)
1298   幕府が前年の徳政令を一部撤回。越訴の制を復活。
後伏見天皇(持明院統)即位(第93代)、伏見上皇が院政を開始。(※今度は大覚寺統が幕府に訴えた。幕府は煩わしいため、両統迭立、順番に皇位を継ぐという原則を打ち出した。この時はまだ貞時政権下であることに着目(権力絶頂時)。いわゆる「文法の和談」は1317年。)
この頃、「東方見聞録」成る。

~1320年まで

日本史的には、この時期は、もう無茶苦茶「生臭い」時代。結局、誰が天皇になるか、っていうんですったもんだしている間に、もっとも天皇にならない方が良かった(?)人がなってしまった。あんまり細かいことは覚えなくても良いが、石ノ森先生のマンガくらいは読んでイメージを付けておけば良い。

1320年代からは「生臭い」どころか、はっきり「不穏」な時期に入るが、それはまた次の項で。

1301 正安3 後二条天皇(大覚寺統)即位(94代)、後宇多上皇(91代)が院政開始。

♨家系図について知りたければ、他書を読むか自分で書くことをオススメする。ポイントとしては、後嵯峨天皇の息子は【後深草天皇】(89代)と【亀山天皇】(90代)と鎌倉幕府第6代将軍となった【宗尊親王】であることと、後深草天皇の孫が教養深い【花園天皇】(95代)で、亀山天皇の孫が花園天皇と同じく宋学を学んでいたはずだけどどうもそれが自己流であった【後醍醐天皇】(96代)。
♨亀山天皇に関しては蒙古襲来の時にお祈りをしたことが有名であるが、この時は既に上皇。当時の天皇は8歳の【後宇多天皇】(91代)。
♨石黒先生のゴロ、「ごうかくすれば寿命は長い、カメラ大学8年間」はこの時代のことだ。(【コチラ】)
♨学参マンガは数あれど、このあたりのことはやっぱり石ノ森先生の「マンガ日本の歴史」じゃないと載っていないんだなぁ。

この年、執権北条貞時は出家し、執権は女婿の師時に譲ったが、実権は握ったまま。

※1311年、41歳で死亡⇒息子・高時わずか9歳。

★【大覚寺統内部の皇位継承争い】後二条天皇の息子が邦良親王。しかし、病弱で早逝。花園天皇の皇太子としては、邦良親王の息子である木寺宮康仁親王がなる。しかし、建武新政で廃位され、息子の恒良親王が皇太子に。康仁親王は親王の位まで取り上げられ、「康仁王」となる。ほか亀山法皇の晩年の子、恒明親王、邦良親王の弟の邦良親王もライバルとなっていた。また大覚寺門跡でも後醍醐派の弟・性円法親王、反後醍醐派の亀山皇子・寛尊法親王が。むしろ持明院統への方が配慮されている。(まあ、話すと長いんだけど、要は持明院統と大覚寺統の争いだけでなく、大覚寺統の中でも争いがあった、ということ。でもって、後醍醐天皇なんかは、まず天皇にはなれない生まれだった、ということ)【わかりやすい水野先生の書籍はコチラ。
1302 乾元1 幕府の調停により、室町院領が持明院統・大覚寺統に折半される。

※後宇多上皇が宗尊親王娘の瑞子を子にして相続していた室町院領を横領。持明院統が幕府に訴え、幕府の調停により折半に。なお、皇室領のうち、長講堂領は持明院統、八条院領は大覚寺統が管轄下にあった。両派の対立の原因に莫大な皇室領(荘園)の存在があった。
後醍醐天皇母忠子、亀山法皇に近づき、親王宣下を受ける。尊治14歳の時。(♨ちょっと、やらしい)
1305 嘉元3 連署(執権に次ぐNo.2)北条時村が北条宗方に暗殺される。北条宗宣が宗方を討伐。

<鎌倉幕府の政治体制>
【評定】…最高決裁会議。執権、連署、評定衆からなる。しかし、5代時頼以降くらいからは執権の力が増大し、評定は形骸化。得宗専制政治は8代時頼、9代貞時で完成したが、リーダー不在となると弱体化。
【執権】…侍所、政所も兼ねる。将軍の補佐。
【連署】…北条家が独占。執権の補佐。
【評定衆】…11人が任命。

【侍所】…御家人の統率、軍事・警察を担当。
【政所】…財政、文書作成を担当。
【問注所】…訴訟、裁判処理を担当。
【六波羅探題】…朝廷の監視、西国の統治。北方と南方がある。承久の乱を経て設置。
【長門探題】
【鎮西探題】…九州の御家人の統率、軍事・警察を担当。元寇以降に設置。
【奥州総奉行】
【守護】
【地頭】
【引付衆】…評定衆の補佐。裁判の公正と迅速化。平禅門の乱ののち、貞時が廃止。

※【歴代執権】①時政②義時③泰時④経時⑤時頼⑥長時⑦政村⑧時宗⑨貞時⑩師時⑪宗宣⑫煕時⑬基時⑭高時(最後の得宗)⑮貞顕⑯守時(最後の執権、足利尊氏の義兄)②③④⑤⑧⑨⑭を得宗家(嫡流)と呼ぶ。
1308 延慶1 中原政連が前執権北条貞時に「諫草」を提出。
後二条天皇若くして没し、尊治親王(後醍醐天皇)が立太子となる花園天皇(持明院統)即位

「諌草」…出家してからの貞時は政治から離れてしまったので再登板願いたい、という話であるが、結局、これは貞時の手には渡らなかったよう。その26年後、中原政連の子、紀親連が新田義貞挙兵の引き金を引く…。
※後醍醐天皇の母・忠子は下級公卿の出身であったが、義父・亀山法皇に近づき1302年、後醍醐天皇の親王宣下を勝ち取った。もっとも異母兄の後二条天皇には邦良親王(1300-)という皇子がいて、祖父にあたる後宇多上皇の寵愛もあり、後二条天皇の次の天皇になる予定であったが、1308年に後二条天皇が23歳で死亡したことで、花園天皇の立太子に誰が就くかが問題となった。ここで、亀山法皇は晩年にできた子供(恒明親王1303-)に皇位を継がせたかったが、それをすると後宇多上皇の家系には戻ってこないということでこれを後宇多上皇はそれを避けたかったが。しかし、法皇の違勅を反故にしてまで8歳の邦良親王(病弱)が就くと持明院統に隙ができるので、中継ぎとして尊治が親王におさまった。

亀山の息子が後宇多(&恒明baby)で、後宇多の息子が後二条(長男)と後醍醐(尊治:次男)

亀山法皇「3年前に尊治のことも天皇にするって言ったけど、晩年にできた息子(恒明)に皇位を継がせてやってくれ…バタッ」(1305年)

後宇多上皇「そしたら、その弟(恒明)の方にいっちまうじゃねぇか、それだけは嫌だ。」

後二条天皇「父上、僕、23歳だけど死んじゃいました…」(1308年)

後宇多上皇「じゃあ、立太子を誰にすんねん。孫の邦良(後二条の息子)はまだ8歳だし、親父の遺言に逆らって選ぶことで、持明院統に何言われるかわからん…。しょうがないので、尊治を中継ぎとして(持明院統)⇒尊治(後醍醐)⇒(持明院統)⇒かわいい孫の邦良でいこう!」

尊治「父は公武一和とか言っているが、醍醐、村上の時代に誰が政治を行っていたか。フッ。っていうか、邦良、邪魔。それを認める幕府も邪魔。

花園天皇「なんか、大覚寺統がもめているようですが、とりあえず、次、私でいいんですね。」

(※この年、久明親王が鎌倉でのいざこざを避け将軍を辞す。子の守邦親王が8歳で将軍に。)
この頃、元で白蓮教社が禁じられる。
1311 北条貞時、41歳で死亡⇒息子・高時はわずか9歳。権力闘争、内部腐敗が横行することに。
1315 正和4 兵庫関を悪党約100人が襲撃。この年、幕府が守護地頭に悪党追補を命ずる。
1316   北条高時が12歳で執権に。1326年に出家。1330年、内管領長崎高資を討つ計画もしたが、事前に漏れてしまう。

(※少し後の話になるが、そういうことがあっても、最後、2人は共に戦い死んでいくのだ。)
1317 文保1 文保の和談。両統迭立が定められる。

※1317年、伏見上皇死去も影響。しかし、近年、学会では両統迭立は合意されていなかったという見方が主流。結果的には邦良親王が早逝し、(1326年)量仁親王が立太子となったことで、両統迭立となるが、後醍醐天皇は10年以上も天皇に居座り続けている
1318   後醍醐天皇(大覚寺統)即位。(第96代
邦良親王(後伏見天皇皇子)立太子。
後醍醐は30歳にして践祚したが、当時としては異例の遅さであった。

※亀山天皇(90代)…践祚10歳、退位24歳
※後宇多天皇(91代)…践祚7歳、退位19歳
※伏見天皇(92代)…践祚22歳、退位33歳
※後伏見天皇(93代)…践祚10歳、退位12歳
※後二条天皇(94代)…践祚15歳、退位23歳(崩御)
※花園天皇(95代)…践祚11歳、退位20歳

その2:激闘編へ

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