~「もう一つ上の日本史」出版に伴い、勉強方法も変える必要が出たので、全面改訂突入します~

その1:鎌倉幕府編はコチラ

後醍醐天皇の人物像を知る。それでも「南朝史観」を言いますか?

後醍醐天皇がなぜ倒幕を考えたかの理由は現在の研究では「自分の息子を天皇にしたかったから」で一致している。「安藤氏の乱」(1322-28)を見逃さずに倒幕を考えるも、正中の変(1324)、元弘の変(1331)とも杜撰過ぎて(?)失敗。

しかし、運命が変わったのは1333年。何よりも足利尊氏が後醍醐方に寝返ったのが大きい。勢いも増して、あっという間に北条高時ら1000人以上が自害。もちろん、足利尊氏だけの力でそうなったのではなく、直接鎌倉を攻撃した新田義貞、最前線で戦っていた護良親王、楠木正成の功績も大きいのだが。以後、主導権争いとなる。

その後は戦争の連続。ここまで荒れたのは後醍醐天皇のメンタリティーによるとことが大きいのではないだろうか。意外とすんなりと鎌倉方に勝ったことで自身の力を過信したのか?建武の新政開始直後に側近らにより暗殺計画が浮上するなども。いずれにしても、これが中世。

<後醍醐天皇に振り回された人々>
【護良親王】→讒言が元で父・後醍醐天皇により幽閉。のち、中先代の乱(1335)のどさくさに紛れて足利直義により殺害。
【足利尊氏】→中先代の乱で敗れた弟・直義のために、東征を願い出るも、後醍醐天皇が却下。これにより尊氏は後醍醐天皇と反目することに。
【足利直義】→尊氏が後醍醐天皇におびき出されるのを阻止。
【楠木正成】→九州から戻ってくる尊氏との和睦を進言するも、後醍醐により却下。一度、比叡山に引いてからの挟撃案も却下される。湊川の戦(1336)で討死。美談にされがちであるが、補給路を断たれ、やむなく、であるとの見方。
【北畠顕家】→戦う公家。後醍醐天皇により度重なる出陣要請に疲れ果て、死を覚悟した戦の前に地方分権などを訴えた建武の親政批判を奏上。1338年、戦死。相手は高師直。(父の北畠親房が記したのが「神皇正統記」である。よくひっかけ問題で出されるので注意。)
【新田義貞】→鎌倉幕府崩壊の立役者であるが、一族でもある尊氏とは最後まで反目。北陸に活路を見出したが、藤島の戦(1338)で戦死。
【懐良親王】→後醍醐天皇の皇子。建武の新政崩壊に伴い九州へ。のちに九州で力をつけて「九州王朝」とも言えるほどに。明に「日本国王」と認められたことは足利義満の構想を厄介なものにさせた。

1321~1340年まで

1321 元享1 後宇多天皇の院政停止。後醍醐天皇の親政開始。記録所が再開。

※後醍醐が父後宇多(1324年没)の遺志に従わずに自分の子孫に皇位を継承させようとしたこともあり、南北朝時代の両統並立に繋がっていった。この頃は不仲になっていたと言われているが、1321年になぜ隠居したかはまだわかってない。)

この頃、チャガタイ=ハーン国が東西に分裂。
1322   安藤家(陸奥・出羽)の家督争い

内管領長崎高資は両方から賄賂をもらい問題を先延ばし。結局、1328年まで続く。内管領の腐敗、終戦処理の不十分さ、幕府軍の軍事力の低下が露見。

※「安東」氏とも。いずれにしても東北の名門であろう。
※貿易により、当時の十三湊(とさみなと)の栄えっぷりはすごかった。(「30の都市から読む日本史」より)
1324 正中1 正中(しょうちゅう)の変

後醍醐天皇の討幕計画が発覚、日野資朝らが捕縛。
後宇多天皇崩御により行動する。毎年9月の北野天満宮の北野祭ではケンカが頻発、六波羅探題が警備に当たるため手薄になるのと、この年は、ちょうど南方の大仏維貞が留守。というわけで北方の北条範貞を殺害し、日野資朝、俊基の指揮で興福寺の宗徒が宇治と勢多を固めるという計画を立てるが、土岐頼員が妻に話してしまい、その妻が六波羅探題評定衆奉行の父・斎藤利之に話してしまい、露見したというが、実際はもっと杜撰。決行日の4日前に六波羅探題が土岐頼兼(頼員一族)、多治見国長を夜襲し、圧勝。すぐ関東申次の西園寺公宗に通達、日野資朝、俊基を首謀者としてとらえる許可を受ける。日野資朝は佐渡に流されたが、主な処遇はそれくらい。幕府は当時、安藤氏の乱で手いっぱいで、幕府の追及が緩慢だったことが後醍醐天皇にとって幸いした。持明院統は量仁親王の立太子を働きかけ、大覚寺統も皇太子・邦良親王の後醍醐天皇退位を要請していたにも関わらず。
1326 嘉暦1 北条高時が出家、かわって金沢貞顕が執権となるが、北条泰家らの反発により辞す。赤松守時が執権に。持明院統の量仁親王立太子。

この年、皇太子・邦良親王が死亡。恒明親王(大覚寺統・亀山天皇の晩年の息子で後宇多天皇の弟)、邦省親王(大覚寺統・後二条天皇の息子で邦良親王の弟)、尊良親王(大覚寺統・後醍醐天皇息子)、量仁親王(持明院統・花園天皇の息子)が候補者に。両統迭立の原則により、量仁親王が立太子に後醍醐天皇は急ピッチで倒幕を進める
1327   幕府が蝦夷征討使として宇都宮高貞らを奥州へ派遣。
後醍醐天皇皇子・護良親王を天台座主とする。
→【室町時代で打線を組んだ】

※寺社に働きかける。この行動は持明院統も把握しており、乱の萌芽は芽生えていると花園上皇は記している。護良親王は比叡山で武芸に励む。
1331 元徳3 元弘1 元弘の変

後醍醐天皇の再度の討幕計画が吉田定房(側近中の側近)の密告により発覚、日野俊基、文観らが捕らえられる(5月)→6月日野資朝、俊基処刑。

※後醍醐天皇が倒幕を決意した理由ははっきりしている。後醍醐天皇は一代限りと言う制約のもと、天皇となっていたわけで、それを認めていた幕府を倒さないと自分の息子に地位や荘園を受け渡すことができなかったからである。

【後醍醐天皇が笠置寺に入る。(8月24日)→六波羅探題軍が笠置山を包囲。⇒笠置山陥落(9月28日)→後醍醐天皇逃亡→捕らえられる(10月1日)。】

※8月24日、後醍醐天皇は京都を脱出、笠置寺に入る。9月1日には六波羅探題軍は臨戦態勢。6日に総攻撃。前回と違い今回の行動は迅速であった。後醍醐天皇は各地に檄をとばしたが、頼みの比叡山、興福寺は動かず、名だたる御家人も決起しなかった。しかし、河内で楠木正成、備後で桜山四郎が挙兵

★実際に檄をとばしたのは大塔宮護良親王(1308-)この時、23歳。
★足利尊氏、27歳。父の喪中でありながら出陣要請をする幕府に反感。

北条高時が内管領長崎高資を討とうとするが失敗。(8月)

楠木正成が河内国赤坂で挙兵。(9月)

笠置山での抵抗むなしく、後醍醐天皇が捕縛。一連の事件を「元弘の変」という。 楠木正成はかなりの抵抗を見せるも、長期戦は不利とみて城に火をつけ撤退。

【持明院統、悲願の政権奪回。(9月20日)】

※9月20日、幕府の奏請により持明院統・量仁親王が践祚し、光厳天皇となる持明院統にとっては13年ぶりの政権奪回である。皇太子には大覚寺統・邦良親王の息子である康仁親王が立てられた。
1332 正慶1 元弘2 後醍醐天皇が隠岐に配流

承久の乱における後鳥羽上皇にならい隠岐へ。そして後醍醐息子の尊良親王は土佐に、宗良親王は讃岐に、7歳の恒良親王は越中に。しかし、護良親王はみつからなかった。

日野資朝、佐渡で殺される。

護良親王が吉野で挙兵(11月)。

※12月、連動して楠木正成も挙兵。赤坂城奪還。河内国を制する。→幕府の大軍が吉野・赤坂に攻め寄せる。

護良親王】…1308-1335。建武の新政の立役者。足利尊氏に匹敵する圧倒的な武力を誇る。しかし、将軍を目指した彼と後醍醐天皇とはそもそも方針が違った。
楠木正成】…1294?~1336。出自は不明であるが、元々は得宗家の御家人として幕府に反逆するものをビシバシ倒していた凄腕の持ち主という説も。一介の悪党相手にしてはかなり大がかりな攻撃を幕府軍が仕掛けているのはそれを警戒してでは、という説も。
室町時代で打線を組んだ
1333   赤松則村が播磨で挙兵(1月)。→膨れ上がる天皇軍。伊予・播磨で天皇軍勝利。

※ほか、塩冶高貞(出雲)、土居道増、得能道綱(伊予)、菊池武時(肥後)、裕樹宗広(陸奥)、粉河寺の僧兵(紀伊)らが挙兵。護良親王は7本の矢を受け高野山へ逃走、楠木正成は千早城に立て籠もり応戦。
※伊予では守護の宇都宮貞宗を打ち破り、なおも応援に来た長門探題の北条時直をも破り、さらに村上水軍も味方につけ、瀬戸内海の制海権を握る。赤松家は山陰・山陽道を封鎖。
※赤松則村の息子が護良親王の従者という関係。

後醍醐天皇が隠岐脱出(閏2月)。

名和長年の手引きによる。隠岐国守護の佐々木清高が船上山を囲むも、出雲・伯耆の豪族が駆けつけ敗走。
※一進一退の攻防の末、3月の山崎の戦で赤松軍が六波羅軍撃破。赤松軍は山崎を抑えることで大坂からの物流をおさえる。九州では菊池武時蜂起も鎮西探題と戦い戦死。3月28日には比叡山蜂起も六波羅軍に敗れる。後醍醐天皇は公家武将・千種忠顕を山陰・山陽道に送り、そこから官軍となって入京を目指すが、六波羅軍・佐々木時信軍に敗れる。)
【名和長年】勘違いして西園寺公宗を彼の妻の前で惨殺してしまう、決して優れた人物ではない。

足利尊氏が丹波篠村で寝返る(4月29日)

※船上山へともに行軍していた名越高家が赤松軍にやられるのを見て篠村へ。5月7日、千種、赤松らにも呼びかけ、ついに出陣。
【千種忠顕】…もともと貴族であったが、素行不良で父親から勘当。後醍醐の忠臣として楠木正成、名和長年、結城親光とともに評価されるが、新政開始後、毎日酒宴。

六波羅探題滅ぶ。後醍醐天皇が光厳天皇を廃す。

※5月7日、いったん鎌倉へ移動することに。しかし同行した六波羅探題南方の北条時益は落ち武者狩りに遭い落命。伊吹山への道は既に後醍醐軍が抑えており、美濃は後醍醐についた土岐家がいたため、9日、北方の北条仲時も自害。随行していた432人も自害。これらは後醍醐側についた佐々木道誉が関わっている。

新田義貞が鎌倉へ乱入。北条高時ら東勝寺で自害、鎌倉幕府滅びる(5月)。

※5月8日、新田義貞蜂起。千早城攻撃に参加していたが、病気を理由に帰国。(これはわざと。)そこへ幕府から戦費調達を要求され激怒。わずか150騎であったが徐々に諸将が合流して5月10日には早くも入間に。紀五左衛門も尊氏の子・義詮を守りながら合流。これにより諸将もついたのであろう。小手指原、久米川で幕府軍と激突。さらに分倍河原で北条泰家軍(高時の弟)と激突。緒戦は幕府軍が勝利も、とどめをささなかったことが平家と同じ末路。大多和義勝が6000の兵を率いて参戦。しかも最初は泰家側に入っていて、先陣役として義貞軍と戦うふりをして義貞軍の見方についたため、幕府軍は態勢を立て直せないまま劣勢に。その後も一進一退の攻防が続くが、ついにこれまで功績のあった長崎高重(高資の息子)、摂津親鑑、諏訪直性(御内人)が自害すると、高時も自刃。前執権金沢貞顕、13代執権北条基時も後を追い、北条家283人、家臣870人が次々と切腹。9代将軍守邦親王は出家。148年続いた鎌倉幕府は滅亡した。

後醍醐天皇が京都へ。
建武の新政はじまる
個別安堵法公布(6月)。

※九州勢(少弐家・島津家・大友家など)はほぼみな討幕軍に寝返る。鎮西探題赤橋守時弟・北条英時自刃。京都では足利尊氏が中心となって治安の回復、論功行賞に努める。持明院統は即位もなかったことになり、領土も安堵。護良親王は尊氏を警戒し、京都には入らず信貴山で精兵を募る。のち征夷大将軍を条件に入京。
★定説では公家に優しく、武家に厳しいとあるが、実は粛清されたのは皇族や公家に圧倒的に多い。むしろ尊氏などは莫大な恩賞をもらっている。問題は徳のないものに与えたことであったり、「荘園・国衙領=公家・寺社、地頭職=武家」という図式を崩したこと、タイミング悪く大内裏建築の増税をしたこと、僧や女官、無能な貴族に政治への口出しをさせたこと、金遣いが荒いことなど。もっとも恩賞を速やかに与えられなかったことが最大の原因か??
【個別安堵法】すべての所領の領有権を綸旨で再確認する。これは武士の慣習:知行年紀法を無視するものであった。世襲を認めず。

この頃、記録所再開。諸国平均安堵法公布(7月)。

雑訴決断所設置(9月)。

【諸国平均安堵法】個別安堵法廃止。現在の知行の所領を安堵。雑訴決断所には尊氏は高師直を奉行として送り込む。

北畠親房、顕家が後醍醐皇子・義良親王を奉じ、陸奥国に下向(10月)。
※のちの後村上天皇。奥州将軍府設立。

足利直義、後醍醐皇子・成良親王を奉じ、鎌倉へ下向(12月)。

※直義が補佐役に。関東は足利家のものに
石黒先生のゴロ本にもここは出ているぞ。【コチラ

★鎌倉幕府が倒れた、と言っても、北条家が倒れたのであって、武家社会そのものが倒れたわけではなかった。全国の農地の多くは武家が占有しており、武家の力が決して衰えているわけではなかった。見方によっては単なる後継者争い、と言える。
1334 建武1 恒良親王が立太子。

「乾坤通宝(かんこんつうほう)」鋳造。
※内裏修復とともに計画倒れ。

二条河原の落書き。(8月)
「この頃都にはやるもの 夜討ち 強盗 にせ綸旨」)
♨この後にはつづきがある。読んでみると面白い。【史料集へ

護良親王、謀反の疑いで鎌倉へ護送。(10月)
※尊氏もまた護良親王を警戒していた。6月、尊氏は護良親王が帝位を奪おうとしていると阿野廉子に讒訴。阿野廉子は義良親王に継がせたかったため、渡りに船とばかりに10月、護良親王は捕らえられ、鎌倉に護送。「尊氏より主上の仕打ちが憎い」倒幕の立役者とも言われる護良親王の失脚は側近の意見に左右され、朝令暮改で事が進んでいく建武政権の弱点を露呈。(っていうか、このまま後醍醐政権が続いていたら北朝鮮と同じだった…。)
1335   中先代の乱北条時行が足利直義攻略(7月)。
【後醍醐天皇殺害計画】天皇側近萬里小路藤房は諫言するも聞き入れられず出家遁走。冷遇されていた持明院統・関東申次(※一族は承久の乱で活躍)だった西園寺公宗は実は北条泰家を匿っており、1335年6月、後醍醐殺害を実行しようとするも事前に漏れてしまい捕らえられてしまう。しかし泰家は逃走。西園寺と連絡をとっていた諏訪頼重が高時の遺児・北条時行を奉じて7月14日、信濃で挙兵。碓氷峠を越えて、上野国へ。鎌倉府軍と対決も、時行軍大勝。直義義兄の渋川義季、一族の岩松経家自刃。直義も直接戦場へ向かうも大敗。25日には時行軍が鎌倉を占拠。直義は三河へ。護良親王は相手に担がれると危険であったため殺害。

足利尊氏が時行を破り鎌倉を奪還(8月)。
※尊氏は征夷大将軍となって鎌倉奪還を申し出たが、後醍醐天皇に断られ、征夷大将軍には鎌倉府にいた成良親王に。8月2日、尊氏は500騎で出陣も、徐々に膨れて3万に。時行軍も3万で対決。17度の対決すべてで尊氏が勝利し、鎌倉奪還。諏訪頼重は自害。

尊氏が建武政権への離反を明確に(10月)。
※尊氏は京都の許可を得ずに恩賞を与える。一族の斯波家長は陸奥に派遣し、奥州将軍府に対抗。後醍醐天皇は中院具光を派遣し恩賞は綸旨に依るようにということと、帰京を命じられたので向かおうとしたが、これは罠だと直義に止められる。新田義貞討伐の御教書を発する。11月26日、後醍醐天皇は尊氏・直義の官位を取り上げ、討伐の綸旨を発する一方、北畠顕家に出陣要請し、顕家は22日に出陣。12月12日、尊氏は義貞軍と激突(竹之下の戦い)。尊氏が陣中で功のあった武将に次々と恩賞を与えた【元弘没収地返付令:建武政権で没収された所領は元に戻す】ことで佐々木道誉、大友貞載、塩冶高貞含む、義貞軍の主力が寝返り、尊氏勝利。義貞は尾張で尊氏を迎え撃とうとするが、西国でも直義の御教書に呼応するものが増えたため、後醍醐天皇の命により帰京。12月近江に侵攻した尊氏は軍を2つに分けて、勢多で直義・師直軍vs名和長年・結城親光軍、宇治で尊氏軍vs楠木正成軍。ここで山陽道から東進してきた四国の細川定禅vs脇屋義助(義貞弟)で、細川勝利となり突破口が開かれ背後をとられる可能性のある正成は陣を引き払い京都へ、後醍醐天皇は比叡山に逃亡、1月11日に尊氏京都制圧。しかし、その2日後に北畠顕家が後醍醐天皇と合流。反撃へ。)

この頃、元が科挙を中止する。
1336 建武3 基元1 新田義貞・北畠顕家が足利尊氏軍を破り入京。(1月)
1月16日、新田義貞が細川定禅を打ち破り、27日、尊氏は丹波へ逃走。天皇軍は追撃。

尊氏が九州へ敗走。(2月)
建武の新政で冷遇された大内弘行が尊氏を助け、尊氏は弘行の軍船にのって、2月12日、神戸から海路で西へ。九州は妻の家族がおり、地盤を持っていた途中、室津会議。持明院統に僧・賢俊を送り、院宣を手にすることに。これは赤松円心の功績

多々良浜の戦い
※天皇方の菊池家が尊氏討伐へ。筑前国少弐貞経は軍を尊氏に預けており、結果、自刃し大宰府陥落。いよいよ九州を2つに分けての多々良浜の戦い。尊氏軍には島津・大友・宇都宮・千葉家、天皇軍には菊池・阿蘇・松浦・秋月・星野・蒲池・神田家。圧倒的な戦力差があり、一時、自害も決意するが少弐貞経の子、頼尚は「九州勢は烏合の衆だから果敢に攻め込めば必ず内応者が出る」と進言。実際にその通りになり、尊氏軍勝利。後醍醐天皇は新田軍を九州に向けさせるが、赤松家により足止め。

顕家が義良親王を奉じ陸奥国へ。(3月)

湊川の戦足利尊氏が楠木正成を破る(5月)。
※尊氏軍は陸路に直義、海路は尊氏を配置し東へ。京都での軍議で楠木正成は後醍醐天皇を比叡山に移し、尊氏を入京させ、新田軍と楠木軍で挟撃する案を提案するも後醍醐に退けられる。尊氏は義貞の背後を攻撃しておびき出し、孤立した正成を集中攻撃し、正成ついに自刃。義貞も生田森で戦うも戦力差が歴然で京都へ退却。

千種忠顕戦死。
尊氏、光厳天皇を奉じて入京。
名和長年没。(6月)
※尊氏入京、後醍醐天皇比叡山に脱出。
→佐々木道誉が尊氏方について比叡山への補給路を断つ
→北畠顕家に使者
義貞軍が京都奪回を試みるも尊氏勝利。
義貞は坂本へ撤退。名和長年討死。

光厳上皇の院政開始(8月)

後醍醐和睦(10月10日)

籠城戦に疲れて容易に和睦→光厳天皇の弟、光明天皇に譲位(11月2日)
※ただ実は三種の神器は恒良親王に渡して越前に逃していたという。皇太子は後醍醐皇子・成良親王(鎌倉将軍府出身で、尊氏が養育した親王であるが翌年の南朝成立により廃位される。本来は後醍醐天皇にとっても成良親王が成立することは有利なことでもあったのだが、天皇親政原理主義的な後醍醐天皇はそれをよしとしなかった。三種の神器に至っては、この時点で「北朝に渡したもの」、「自分が今もっているもの」、「北陸の恒良親王」がもっているもの、と3つ存在することになる。 8月に和睦が決定していたが、新田義貞はこれに猛抗議。しょうがなく、三種の神器とともに恒良を新田義貞に与えることで、彼をなだめていた。

新田義貞が恒良・尊良両親王を奉じ越前国へ。(10月)
※三種の神器も手にしており、本人たちにとっては【幻の北陸王朝】でもある。9日に出発し、13日には金ヶ崎城に入った。嫡男義顕を越後に、弟の脇屋義助を越前国杣山城の瓜生氏のもとへ遣わすも、尊氏も信濃の市河氏、越後の和田氏に手を味方につけ、高師泰を総大将として攻撃。籠城戦になる。

尊氏が建武式目を制定。室町幕府の成立(11月)
※三種の神器を受け取ってから5日後。幕府を鎌倉におかないことを明言しているが義貞が後醍醐の恒良・尊良の2人の皇子を連れて越前に逃亡しており、いずれまた京都に攻め入ることは明白であったため京都を離れることが出来なかった。)
※もっとも、尊氏は建武の新政を全否定したわけではなく、雑訴決断所など、むしろ踏襲したものも多い。そして何より尊氏は恩賞を多くもらった後醍醐天皇に基本的に悪意をもっておらず、「高氏」ではなく「尊氏」を名乗り続ける。

後醍醐天皇吉野へ。南北朝の対立開始(12月)
※後醍醐天皇は伊勢に控えていた北畠親房の協力で京都脱出、吉野へ(21日)。尊氏は少しも驚かず、むしろ遠国ではなかったことに安堵したという。
1337 建武4 延元2 霊山城(陸奥国)の戦(1月)

金崎城落城。尊良親王・新田義顕戦死(3月)。
※2月16日、杣山城の瓜生氏と脇屋義助が援軍として駆けつけ、高師泰の背後をつくが敗退。城内の兵粮不足が深刻化。25日、義貞、義助らとともに物資調達のために杣山城へ向かうが、その隙に3月6日、師泰軍総攻撃。新田義顕戦死、尊良親王自害。恒良親王は捕縛され京都へ。

後醍醐の度重なる要請により北畠顕家、義良親王(のちの後村上天皇)を奉じて、父・親房、結城宗広、南部師行、伊達行朝らとともに霊山を出て上洛の途に。途中、新田義貞の子の義興、中先代の乱の後、諸国に潜入していた北条時行(!)らも加わる。

鎮守府将軍・北畠顕家が鎌倉を制圧。(12月)
※義詮は相模国三浦へ逃走。28日。
1338 暦応1 延元3 青野原(のちの関ヶ原)の戦いで幕府軍が敗退(1月)
※北畠顕家、1月2日には早くも出陣。20日には青野原の戦いで土岐頼遠ら幕府軍を破る。尊氏は顕家と新田の合流を防ぐため近江に佐々木道誉・高師泰を待機させたため、顕家は伊勢を目指す。鎌倉は顕家が鎌倉を離れた隙に義詮奪還。

新田義貞、越前国で斯波高経軍と対峙。(2月)
※上洛要請があったが、越前での戦が一進一退であり、こちらを優先。70以上の城を手にしたとも。

般若坂の戦いで幕府軍勝利、顕家は河内で再起。(3月)
※伊勢では守護・畠山高国を破るも、般若坂の戦で桃井直常に敗退。顕家は義良親王を吉野に送り、自身は河内へ。3月8日、天王寺に現れ和泉国守護・細川顕氏を破り、15日には摂津国渡部で北朝軍と戦う。尊氏はすぐさま高師直率いる大軍を差し向ける。

恒良親王毒殺。(4月)
※顕家上洛による南朝勢力の巻き返しを恐れた。

北畠顕家が新政批判の奏上文を後醍醐天皇に提出
※地方分権の訴えなど。

北畠顕家が和泉国石津で高師直に敗れ、戦死。(5月)
※海上ルートも抑えられ、22日、ついに戦死。弟の顕信は男山に拠って抵抗をつづけるも、師直に攻められ陥落、吉野へ逃げる。

高師直が石清水八幡宮を焼く(7月)

新田義貞、藤島で戦死
南朝が北畠顕信を鎮守府将軍とし、1340年赴任。(閏7月)
※義貞、斯波方に総攻撃。しかし、寝返った平泉寺の抵抗強く難航。50騎だけで藤島城偵察に向かう途中、300騎の斯波軍に遭遇し、激突、戦死。その後、義助が軍を率い、黒丸城を落とすなどするも、高師春、土岐頼遠、佐々木氏頼、塩冶高貞らが送り込まれ、義助は1341年、美濃へ。)

足利尊氏が北朝より征夷大将軍に任ぜられる。(8月)
※侍所と恩賞方を尊氏、行政権を直義。軍事部門の責任者に高師直。のち、足利義詮は設置された鎌倉府に送られ、関東管領上杉憲顕(尊氏のいとこ)、高師冬(師直のいとこ)が補佐。北畠親房征伐が目的。

海路東上中の北畠親房らが遭難
※北畠顕信・義良親王は伊勢国に戻り、宗良親王は遠江国(これは予定通り。中部地方の掌握目的。)親房は常陸国へ至る。

懐良親王が九州へ下向。(9月)
※弱体化した南朝を立て直そうと、後醍醐が画策するも赴任ならず。親房には恩賞を与える権利がなかったため、書状を書きまくったが効果薄。幕府は関東での活動に対して師直の養子・高師冬を派遣、関東執事に任命。高師冬vs北畠親房。
1339   南朝が懐良親王(11歳)を征西将軍に任命。(6月)
※伊予国忽那家のもとで約3年滞在する

後醍醐天皇没。(8月)
※禅僧・夢窓疎石の勧めもあり、尊氏、天龍寺創建を決意。この地は後嵯峨法皇と亀山法皇が院の御所としたところであった。天龍寺造設を機に幕府の公の寺として禅宗寺院の五山体制が整備された。→1342年。

南朝の義良親王(11歳)が後村上天皇として即位。(10月)
この年、北畠親房が『神皇正統記』を著す。

この頃、英仏百年戦争が始まる。
1340 暦応3 興国1 幕府が延暦寺衆徒の訴えにより佐々木道誉・秀綱父子を配流。(10月)

北畠親房を攻撃。
※1341年の小田城の攻防では親房が高師冬軍を破ったが、小田城の損害も多く、小田治久は尊氏側に寝返る。

その3:まだまだ続く激闘編へ

室町時代で打線を組んだ

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