~「もう一つ上の日本史」出版に伴い、勉強方法も変える必要が出たので、全面改訂突入します~

その2:激闘編はコチラ】(1320-1340)

★「観応の擾乱」をチェック。

★九州は独立国のようになっていたことを知っておく。(日本は常に「1つ」であったわけではない!)

え、まだ戦うの?といった感じであろう。それも南北朝の争いならともかく、まさかの「日本史史上最大の兄弟ゲンカ」こと「観応の擾乱」が勃発(1350-1352)。しかも、直義が南朝側についたり、尊氏が南朝に降伏してみたりと、敵味方がめまぐるしく変わるので、もうワケわからなくなるであろう。ワケがわからなくなるからこうしてまとめたのであるが、それでもワケわからない。ただ、ここまで争いが続くのは、やはり恩賞問題が根本にあるのだろう。兄弟の間でも兄が尊氏派なら、弟は直義派なんていうのもザラなのだ。(♨しかし、この室町時代、戦国時代や三国志以上に面白いと思ってしまうのは僕だけだろうか…)

1354年、北畠親房死亡、1358年、足利尊氏死亡。世代交代。南朝は足利直冬、楠木正儀ら(+北朝からの寝返り)、北朝は足利義詮、そして九州では懐良親王が戦の中心に。

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1341~1360年

1341   藤氏一揆
※南朝廷臣前関白近衛経忠が同じ藤原氏である関東の小山氏、小田氏に「藤原同盟」を呼びかける。経忠は京都に戻ったものの、北朝から相手にされず、このようなことを思いついた。1343年、小山朝郷は護良親王の子、興良親王を迎え、自ら鎮守府将軍になろうとする動きを見せる。【幻の関東王朝樹立構想】である。北関東は平安時代の藤原秀郷(※平将門を討った)の子孫である武士団が強力で、中央に対しては独立意識が強かった。

この時期の「南朝分派行動」として「北畠親房vs興良親王、近衛経房、小山朝郷」があった。北朝も「高師冬vs上杉憲顕(尊氏のいとこ)」があったが、南朝も内紛していたのだ。

天龍寺船派遣。(12月)
(※博多を出港。元と交易。)
1342 康永1 興国3 室町幕府が五山十刹の制を定める。(4月)

懐良親王、ようやく薩摩に到着。(5月)

美濃国守護土岐頼遠が京都で光厳上皇の車に矢を射る。(11月)→頼遠誅殺。
(※この話は有名だが、普通の学参マンガには載っていない。やっぱり石ノ森先生の「マンガ日本の歴史」は素晴らしい!)
1343   結城親朝が足利方につく。(2月)
※北畠親房からの100通の手紙に辟易?こういうところも「マンガ日本の歴史」にはちゃんと載っている。

関・大宝城陥落。(11月)
※高師冬vs北畠親房、関宗佑。関宗佑は戦死、北畠親房は吉野に逃げる。この戦争にて関東陥落。興良親王は暦応4年ごろ小山家の方へ行っていたが、この陥落を受けてほどなく畿内へ戻った。
1345 貞和1 興国6 戦死者慰霊のために国ごとに建てられた寺塔が安国寺、利生塔と命名される。(2月)

天龍寺が完成、供養。(8月)

この頃、元では方国珍(ほうこくちん)が反乱。
1348 貞和4 正平3 河内四条畷の合戦で楠木正行兄弟戦死
後村上天皇が賀名生にうつる(1月)。
懐良親王が海賊の力を得て決起、肥後国入りすると、楠木正行(まさつら)・正時も呼応して決起。1347年、藤井寺の戦いで楠木軍勝利。(楠木正行vs和泉国守護・細川顕氏、佐々木道誉)
その後、山名時氏参戦するも、時氏は重傷を負い、またしても敗退。ついに高師直・師泰兄弟投入により楠木兄弟戦死
高師直はその勢いで吉野まで攻め込み、もぬけの殻となっていた宮殿に火をつける。後村上天皇は紀伊→賀名生へ逃亡。これを機に南朝は主戦派と和睦派に分かれる主戦派=後村上天皇、洞院実世。和睦派=楠木正儀(正行弟)、中間派=北畠親房

♨和睦派であったため楠木正儀は戦前の歴史上では「なかった」ことにされたり。

★懐良親王は菊池武光のもとに身を寄せるる。
1349   足利直冬が中国探題となる。(4月)

四条河原の勧進田楽で桟敷が崩れ、多数の死傷者がでる。(6月)
※尊氏はかろうじて無傷。ただ以降、田楽どころではなくなる。直義は田楽は政務の妨げになるとして好んでいなかった。

足利直義と高師直が対立
足利尊氏が高師直の執事職を罷免。(閏6月)
足利直義はそもそも関東の武士団を統率していたが、師直は足利の家臣に過ぎず、新たに勢力を拡大するには荘園侵略を是認するなどしなくてはいけなかった。法や秩序を重んじる直義と対立。師直は武家の聖地・武蔵国守護も兼ねていた。高一族は三河、和泉、石見、伊賀、伊勢、尾張、若狭、越後、備中、備後、土佐も掌握。師直「天皇など木や金の像でもいいではないか」直義は決して武家寄りの裁判ではなかった。その分、寺社の支持は大。

師直が直義を襲撃
尊氏が直義執事の上杉重能・畠山直宗を配流、殺害。(8月)
※直義が尊氏邸に逃げ込むも包囲。尊氏は直義を罷免し、義詮に後を継がせる。最初から尊氏と師直はグルではなかったかという噂も飛び交う。

足利基氏(尊氏次子)が鎌倉公方となる
尊氏が直冬を追討。(9月)
直義から備後~周防までの西国統治を任されていた直冬討伐を決定。直冬は四国経由で九州・肥後の河尻幸俊のもとへ。のち、九州探題の一色家と対立していた筑前国守護・少弐頼尚と結んで勢力拡大。
(♨直冬、ってちょっと可哀想なんだよね…。尊氏の実子でありながら、扱いは家臣と同列。やがて直義の養子に。)

直義出家。(12月)
1350 観応1 正平5 高師泰が足利直冬追討のため京を出発。(6月)

直冬が九州で挙兵。(9月)

足利尊氏・直義兄弟間で抗争開始=観応の擾乱。(10月)
※直冬挙兵に際して足利尊氏みずからが、高師直を連れて出陣。この2日前に直義は京都を脱出して大和国へ。南朝に和議を申し入れると言う奇策を用いて挙兵。観応の擾乱勃発。備前まで進軍していた尊氏は12月29日、慌てて帰国。

直義が南朝に和議を申し入れる。(11月)
※洞院実世は直義殺害を訴えるも親房の意見が通る。→12月に成立。

倭寇の記述。(高麗史)
1351   直義軍が京都を制圧(1月)
※15日、直義派の桃井直常(越中)が入京し、京都を守っていた足利義詮を追い出す。関東では上杉能憲、憲顕が挙兵し鎌倉府執事の高師冬を鎌倉から追い出す。師冬は甲斐まで逃げるも、追撃され自害。奥州では直義派の吉良貞家が挙兵し、奥州管領・畠山国氏とその父・高国を攻め滅ぼした。(※畠山国清は直義派で紀伊)京都では桃井軍に続いて石塔頼房軍が入京、尊氏・義詮が京都奪還をはかるも義詮は再び破れて播磨へ逃走。

高師直・師泰殺害
直義方の上杉能憲によって摂津国で殺害される。(2月)
※8日に、上杉能憲が関東の兵を率いて入京。斯波高経(越前)山名時氏(丹波)も直義派として畿内を固める。17日、尊氏・義詮・師直で東進するも摂津・打出浜の戦い石塔軍に大敗を喫し、ついに和議を申し入れる。師直兄弟は出家させるという条件であったが、26日、師直一門は引き上げる途中で誅殺、直義は義詮の後見役という形で政務に復帰した。⇒第1次は終結。これは直義政権到来を意味する
直義は南北和睦を目指すが、北畠親房はことごとくこれを跳ね返す。これに業を煮やしたのが南朝の楠木正儀、という顛末である。

直義、義詮と対立し政務を辞す。(7月)
※義詮は鎌倉公方を14年務めた自負から直義の指図は受けたくないとし、決裂。直義は政務を辞す。

直義が京都を脱出し北陸・斯波高経のいる越前金崎城へ(8月)
第2幕開始
結局、直義は恩賞問題を解決することができなかった。政治家としてはこの時点で死んでいた。ようやく授かった子が夭逝したのもあっただろう、全く覇気が感じられない。
※春に尊氏派の佐々木道誉、赤松貞範(円心の息子、満祐の兄)、細川頼春は政務を放棄して領国へ帰る。7月28日、尊氏は近江へ去った道誉、30日に義詮は播磨の赤松討伐に出陣したが、これは直義を挟撃することが明白であり、直義は8月1日、越前へ脱出。越前では近隣武将も集まり、その勢いは京を圧する。京に尊氏、越前に直義、吉野に北畠親房と天下は三分(ついでに言うと、九州も三分)。→尊氏は南朝との和議を画策

菊池武光が懐良親王を奉じて蜂起。(9月)
※幕府方の城を次々と攻め落とす。この頃の九州は直冬派(少弐)・懐良派(菊池)・尊氏派(一色・島津)と天下三分

南朝が尊氏・義詮に直義追討を命じる。(10月)

正平一統。(11月)
南朝と北朝の間で一時的な和議が成立。北朝の崇光天皇と皇太弟直仁親王を廃す。
※尊氏が京都を離れると南朝に攻撃される恐れがあったため南朝と和睦。北朝が行った任官はすべて否定され、分裂前の1336年に戻る。北朝の公家は少なからず南朝へ。4日、直義討伐を号令し出陣。直義は15日鎌倉到着、尊氏も最初から鎌倉を目指す。北陸は直義派、東海道は尊氏派。尊氏は基本的に難しいことは苦手なので、特にあんまり考えもせず南朝の元号を用いている。)

この頃、元で紅巾の乱。(1351~1366)
1352 文和1 正平7 足利尊氏が直義と和解し、鎌倉へ。(1月)
※さった山の戦い、足柄山の戦い、早川尻の戦いで直義軍は連敗、講和へ。

直義が鎌倉で毒殺(?)される。(2月26日)→観応の擾乱終結。※直義死亡のその日、後村上天皇は賀名生を出て山城・八幡へ。各地の南朝軍も蜂起。ただ、毒殺かどうかは定かではない。

南朝が和議を破り、京都に侵攻(閏2月)
※直義殺害により関東の南朝軍が軍事活動開始。15日、上野国で新田義貞の子、新田義興ら新田一族が挙兵。16日には武蔵国に入る。尊氏ら幕府軍は一度、撤退したため、18日、新田軍が鎌倉占拠。後醍醐息子の宗良親王は当時、諸国を放浪していたが、信濃国諏訪家の助力を得て蜂起し、碓氷峠まで進出。奥州の北畠顕信も白河を越えて常陸に。京都では19日、北畠親房が後村上天皇を奉じて山城国八幡まで進み、楠木正成息子の正儀を大将として20日、京都に突入。まさか南朝軍が攻めてくるとは思わなかった義詮は敗北。このとき、北朝の光厳上皇、光明上皇、崇光上皇、直仁親王が南朝に捕らえられる(→八幡に拉致)正平一統は半年もたたずに崩壊。関東では尊氏軍と新田軍が激突、新田軍が勝利。さらに義興の弟・新田義宗と宗良親王が合流し、武蔵国小手指原まで進出。この時は尊氏が完勝。3月12日、鎌倉も尊氏が取り戻す。

延暦寺衆徒が法華宗弾圧。(2月)

八幡の戦いで幕府軍が圧勝(3月)
※義詮は近江で軍勢を整え、3月11日、佐々木道誉、土岐頼康、細川顕氏、赤松則祐ら有力武将を率いて京都へ。南朝の北畠顕能軍を破って京都を回復。顕能は八幡まで撤退、義詮は追撃し、山名師義も合流し、籠城戦。新田義宗(越後)、吉良満貞(三河)、宗良親王らが駆けつけようとするが、到着前に北畠顕能は後村上天皇を奉じて八幡を離れ、顕能が幕府軍と戦っているうち後村上天皇は賀名生へ。

光厳・光明・崇光の三上皇、直仁親王を賀名生へ移す。(6月)
南朝に連れ去られたままであった。もちろん三種の神器もない。これは軍事力ではどうしようもない問題。これにより南朝正統史観というのが存在する。のち1357年、持明院統も崇光上皇系と後光厳天皇系で分裂することに。ちなみに現在の宮家は崇光上皇系。

近江・美濃・尾張三国で初めての半済令が実施される。(7月)

北朝の弥仁親王(後光厳天皇)が践祚。(北朝の再建)(8月)
※すでに出家していた光厳上皇の皇子・弥仁王を担ぎ出すことに。光厳上皇の母、西園寺寧子に強要して17日、院宣を得る。北朝4代目の後光厳天皇誕生。親王宣下もなく、三種の神器もなく、先帝の宣命もない、このような異例づくしの践祚を行ったのは彼だけ。

足利直冬が尊氏軍に敗れ、南朝に帰順。(11月)
※12月直冬が南朝に下り、備前、美作で勢力を募る。伯耆の山名時氏、越中の桃井直常・越前の斯波高経は直冬を盟主とした。

【後醍醐天皇の皇子たち(実際はもっともっといる。)】
護良親王(1308-1335)…尊氏の計略により鎌倉で幽閉、のち殺害。母は民部卿三位。亀山院も彼女との間に子を設けている。
★尊良親王(1311-1337)…金崎城で自刃。母は二条為子。
★世良親王(1312-1330)
★宗良親王(1312-1385)…文人気質であるがこの時期の総大将。母二条為子。
★恒良親王(1325-1338)…金崎城落城後、捕らえられのち毒殺?母は阿野廉子。
★成良親王(1326-1344)…鎌倉将軍府出身。後醍醐天皇投降時、尊氏により皇太子になるも、後醍醐吉野逃亡により廃される。母は阿野廉子。
義良親王(後村上天皇)(1328-1368)…奥州将軍府→天皇に。母は阿野廉子。
懐良親王(1329-1383)…九州平定。母は藤原為道女
1353   西国の南朝軍が決起。(1月)
※1月九州探題一色範氏が筑前国守護少弐頼尚を攻撃。両者とも幕府方。頼尚は南朝方の菊池武光と組んで蜂起。筑前国針摺原で少弐・菊池連合軍が勝利。九州地方は南朝勢力が強まった

山名時氏が南朝に鞍替えし、南朝が京都を制圧。(6月)
※9日、楠木正儀・石塔頼房らが男山八幡から、山名時氏が西山から京都に突入。時氏は前年の八幡合戦の恩賞に不満が合ったこと、領地問題で佐々木道誉と対立したことから南朝方に鞍替えした。義詮は比叡山に逃れようとしたが、比叡山は争いに巻き込まれることを拒否して入山を許さず。そのため、義詮は後光厳天皇を奉じて美濃国垂井まで落ち延びる。

義詮、京都奪回。(7月)
※すぐさま軍勢を立て直し奪回。26日、時氏は但馬に、正儀は河内に帰る。
1354   北畠親房、62歳で死去。南朝は直冬に反幕府の主導権を渡す
1355 文和4 正平10 南朝軍が京都回復(3度目)。(1月)
※12月に足利直冬、山名時氏、北陸からは桃井直常、斯波氏頼(高経の子)が京都に進軍。義詮はこの時、播磨へ直冬討伐に出ており京都は手薄。尊氏はいったん京都を捨て、後光厳天皇を奉じて近江国武佐寺に逃れた。1月、直冬、時氏が京都を占領。斯波高経が合流。高経は足利一門であるが、観応の擾乱で直義派についたため満足のいく恩賞が得られず直冬と組んだ。

文和東寺合戦。尊氏・義詮が京都奪回。(3月)
※近江から尊氏、播磨から引き返した義詮の挟撃。直冬は東寺に陣取り、時氏は鳥羽に、南朝軍が八幡山麓に布陣し義詮軍と対峙。結局、尊氏が勝利し、直冬は八幡方面へ逃走。南朝の京都制圧も2ヶ月に終わる。南朝軍は多くの兵を失う。さらに戦うかを占いしたところ、直冬では勝てないとのこと。直冬派は分解。なお後光厳天皇は義詮を全く信用しておらず、尊氏に上洛を要請した。
♨「マンガ日本の歴史」の名シーンの1つでもある。

九州探題・一色家が九州を離脱。(10月)(※菊池一族は博多の一色範氏・直氏父子を破り、一色家は九州を離脱し長門国へ逃走。豊前国守護宇都宮家、豊後国守護大友家もつくなど、九州は南朝優位。)
1356 延文1 正平11 越前守護・斯波高経が足利方につく。(1月)

二条良基が「菟玖波集」。(3月)
1358 延文3 正平13 天龍寺焼失。(1月)

足利尊氏死亡。(4月)
※1か月前に九州征伐に出向く準備をしたが、すでに病魔に侵されており、義詮に諌められた。享年52歳。この約100日後に義満生誕。母紀良子。

足利義詮が征夷大将軍となる。(12月)
※執事は仁木頼章(引退)→細川清氏(足利一門)。文和2年の戦で義詮のしんがりを務める戦功。後光厳天皇を鎧の上から背負って近江国塩津で山越え。ともかく勇猛タカ派。1359年の畿南の南朝追討には細川清氏と関東の畠山国清(基氏を補佐)しか、やる気出さず。2人は盟友。

1354年北畠親房死亡、1358年足利尊氏死亡で世代交代。
1359 延文4 正平14 懐良親王・菊池武光が筑後川の戦いで少弐頼尚を破る。(8月)
※一色家の離脱があったが、九州南朝も一枚岩ではなかった。少弐はすぐに幕府に鞍替え、大友家も宇都宮家も同調。これに対して南朝軍は、春には大友氏時を攻めたが城は落とせず。7月に少弐を攻め、8月、少弐側は頼尚の子、忠資が戦死するなど敗北。菊池側のダメージも大きく追撃できず。

細川清氏、鎌倉の執事・畠山国清を上京させ、南朝殲滅を計画。(10月)
※12月に自ら兵を率いて出陣。幕府軍の圧勝。後村上天皇を攻め、1360年3月、金剛寺を焼く。この時、南朝内で謀反。延文5年4月、護良親王皇子の陸良親王が担がれる。陸良は一時、赤松家に匿われていたが決裂。赤松家に敗れ吉野へ。興良親王と同一説もある。いずれにしても、南朝にいたが謀反をおこし、後村上天皇の行宮などを焼き払ったが、前関白二条師基に敗北し播磨へ帰る。

★【仁木義長失脚】義詮ー清氏の政策の目玉が畿南の南朝追討であったが、名将の誉れが高い仁木頼章弟の仁木義長越後守は西宮で傍観(義長と細川はライバル)。清氏、国清、土岐頼康らは金策も尽き南朝を攻めきれず撤退。南朝方の楠木正成3男の正儀、および和田正武が蜂起すると、細川、畠山、土岐が義詮の命を待たずに出陣、天王寺に向かうがこれは偽装で、実は仁木義長を討つためであった。義長は将軍御所の警備と称して義詮の身柄を確保するが佐々木道誉の手引きで義詮は御所を脱出。義長は不利を悟り、京都を脱出、やがて南朝方に転ずる。(♨またこのパターンかい…
★【畠山邦清失脚】畠山国清は東国武士を連れて尊氏の再来をイメージしたのであろうが、南朝は滅ぼせず、勢力争いにうつつを抜かし、義詮も一時的に危機に陥れたために、信頼を失う。そのうえ、無断帰国した東国武士たちの所領を没収。1361年、京都で清氏が失脚した後、東国武士の要求により、足利基氏(22歳)は畠山国清を罷免。国清は国元の伊豆へ帰るが、東国武士に討伐例が出され、半年後、降伏。その後は南山城や奈良を放浪して死んだと言われる。
★【細川清氏失脚】佐々木道誉の讒言により、1361年9月、義詮の怒りを買って失脚。やはり南朝に転ずる。一時京都を制圧するも奪回され、翌1362年に地盤である四国へ下るも、7月に讃岐国で従兄弟の細川頼之と戦い戦死。
★武闘派一同が失脚。力だけではどうにもならない。新執事にはハト派の斯波氏。(直義党であったが。)
※斯波義将(13歳)がなるが、実際は父の高経。越前国が基盤であった。戦争では連戦連敗だが、調停能力に優れる。

その4:南北朝統一編へ

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