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その3:まだまだ続く激闘編はコチラ】(~1360年)

南朝は弱体化したとはいえ、相変わらず北朝内部での争いに敗れた武将の寝返りの行き先として利用され(?)、まだまだ続く。京都を4度も支配したのは、京都が「攻めやすく守りにくい」土地であることにも起因するのであるが。ずっと戦っている武将は厭戦気分となったであろう。

南北融和論は何度も出ていたが、統一に向かうきっかけとなったと思われる1つは、1362年の山名氏、大内氏の北朝への帰順。もう1つは1383年、主戦派であった長慶天皇から和睦派であった後亀山天皇への譲位。九州では懐良親王が一時、大宰府を占領して12年間統治したが、今川了俊により奪回。しかし、その今川了俊も南九州の平定はできず。

義満にとっての脅威はもはや南朝ではなく、有力守護大名。そして、懸念としては懐良親王が明により日本国王とされていて、義満自身は「日本国王に刃向う輩」と思われてしまっていること。1390年の土岐氏の乱にはじまり、1391年の明徳の乱、1399年の応永の乱で土岐氏、山名氏、大内氏の弱体化をはかる一方、さまざまな努力で日明貿易開始。さらに天皇家簒奪も目指した??矢先で死亡。

1361~1380年

1361 康安1 正平16 懐良親王が大宰府を制圧(8月)
※7月に少弐軍を破り、大宰府へ。懐良親王は京都を離れ24年、ついに宿願を果たす。幕府は斯波氏経を九州探題に任じて、巻き返しを図る。懐良33歳。その後、12年、征西府を持続。

細川清氏罷免。
畠山国清も東国武士により罷免要求高まり、足利持氏により罷免。
細川清氏は義詮と対立して若狭へ。

南朝軍入京(4度目)
義詮が後光厳天皇を奉じて近江に逃れるが、すぐ京都を奪回。(12月)
※南朝と結んでいた仁木義長細川清氏が蜂起。楠木・石塔の軍勢とともに京都を攻撃。義詮はまたしても近江へ逃げる。そして、またしても20日後には奪還。

楠木正儀「京都を占領するだけなら(清氏でなく)私でも簡単にできます。しかし、圧倒的多数の全国の武士が幕府を支持しているので、占領しても短期間でしょう。」彼には彼なりの正義があったと思われる。愚かな上層部は戦争の事しか頭にない。

この頃、紅巾の賊が高麗に侵入。
1362   細川清氏、讃岐国で細川頼之と戦い戦死。(7月)

九州探題・斯波氏経、菊池軍と激突も敗退。(9月)
※翌年3月には周防に逃走。しかし、九州以外の南朝は弱体化しており、周防・長門の大内家は幕府に帰順、山名時氏も直冬を見限り幕府に帰順、細川清氏は1362年敗死、伊予の河野通朝も細川頼春に攻められ敗死。越中の桃井直常も斯波軍に攻められ苦境に。
1363   大内弘世(周防)、山名時氏(伯耆)が幕府に帰順
※元々は直義党であったが、権力闘争に敗れて南朝になっていた。ここで斯波高経の交渉能力が生かされた。

同年、関東でも旧直義党の上杉憲顕が鎌倉公方足利基氏の補佐役に起用。
(これでパワーバランス的には完全に幕府有利に。)
1365   九州探題に渋川義行が任じられるも九州どころか長門国にも入れず。
※当時、長門の支配権をめぐって南朝と幕府方守護大内弘世が争っていたため。義行は結局、1370年、解任。

佐々木道誉・楠木正儀で和平交渉。後村上天皇も乗り気。しかし、南北和平交渉は破談。義詮の「降参」を許すとあったのが原因。その後も交渉再開されるが、義詮死亡と後村上天皇死亡が相次ぎ白紙に。
1366   斯波高経、権力抗争に敗れ失脚。以後、執事をおかず義詮単独政権に。宥和政策は継承。
※斯波氏失脚で桃井直常が幕府に帰参。弟の直信が越中守護に。しかし、翌年、斯波氏が復帰するとふたたび南朝に寝返る。旧直義党の中でも桃井と斯波は犬猿の中であったよう。のち、斯波氏勝利。
1367 貞治6 正平22 高麗使が幕府に倭寇の鎮圧を求める。
足利義詮没(2月)38歳
※義満はまだ9歳だったが、管領細川頼之のもと、幕府は最盛期を迎える。
♨いや、最盛期は義教の時だろう、と。(「知恵泉」にて、清水克行先生。)

義詮死亡、後村上天皇歿で第2幕は終了か
1368 応安1 正平23 後村上天皇没。(3月)
楠木正儀、佐々木道誉が仲介を務め、幕府との和睦に前向きであったが、和睦反対派の長慶天皇が践祚。和睦の芽はつまれてしまった。これにより正儀の立場も危うくなり、1369年1月、幕府に下る。(←細川頼之の勧誘もあり。)河内・和泉という要所であり清和源氏の本拠地の守護に任命される。これにより南朝は一斉蜂起し、細川頼之は講和を目指したが、相手が聞かず、しょうがないので物量作戦に(1371年5月)。しかし、士気は上がらず。これは細川派と斯波氏の関係もあってか。
♨それにしても執事ー管領という役職は常に板挟みで、高師直にはじまり、細川頼之に至るまで常に最後は失脚あるいは敗死。(例外は仁木頼章。)のち、細川・斯波・畠山は就任を嫌がる。ちなみにこの時、細川頼之は出家して辞職するも、赤松、義満の説得で慰留。

諸国本所領に半済令施行。(応安の半済令。)(6月)

足利義満が征夷大将軍となる。(12月)

朱元璋が明を建国。金陵(南京)で即位。
1370 応安3 建徳1 明の洪武帝が倭寇の鎮圧を求めて懐良親王に遣い。(3月)
(※明は懐良親王を「日本国王」と認めた。)

この頃、ティムール帝国が興る。
1371   今川了俊が九州探題につく。(3月)

懐良親王が「日本国王」に冊封される。(12月)
この頃、『太平記』なる。

海禁令朱元璋により出される。海賊と張士誠グループ残党が結びつくことを恐れた。
1372 応安5 文中1 明の使いが博多に来着、今川了俊(48歳)に勾留。翌年入京。(5月)

足利義満、島津氏久が明に遣いを送るが、洪武帝によって退けられる。(6月)

九州探題・今川了俊により大宰府陥落

南朝は肥後へ撤退。(8月)

後円融天皇即位。(12月)
1373   幕府軍が優勢で長慶天皇吉野へ撤退。四条隆俊以下、多くの南朝兵討ち取られる。(8月)
1375 永和1 天授1 今川了俊が肥後国水島において少弐冬資を殺害する。(水島の陣。)(8月)
※宴会に誘って殺す。「九州三人(少弐・島津・大友)面目を失う」と言い残し、間に入っていた島津家が了俊から離反した。島外勢力への対抗意識をもろに受け、ここから九州平定は頓挫
1376   宝福寺住持・圭庭用が懐良親王の名義で入明。(4月)
1377   今川了俊、大内義弘の協力を得て肥後国に入り、菊池家を攻撃。(8月)
※菊池家は壊滅的な打撃。翌年には大内、大友、吉川、毛利らの大軍を率いてじわじわと南朝を追い込む。南朝は八代まで撤退。

陸奥国伊達政宗(独眼竜ではない)が留守持家と一揆契約。(10月)
1378   この年、今川了俊が高麗に派兵し、倭寇を討伐する。

橋本正督が南朝方として紀伊で挙兵。紀伊守護細川業秀は諸大名が非協力的なこともあって大敗、淡路に撤退。これに激怒した義満は紀伊守護を山名義理に、和泉守護を楠木正儀から山名氏清に。山名家は旧直義党であり、斯波派であり、細川氏の政敵。俄然、やる気を出して本気で戦い圧勝。

この頃、ローマ教会の大分裂が始まる。
1379 康暦1 天授5 鎌倉公方足利氏満が関東管領上杉憲春の諌死で謀反を断念。(3月)(※幕府に叛逆を企てる。)

康暦(こうりゃく)の政変。(閏4月)
管領細川頼之が失脚、代わって斯波義将(30歳)が管領となる。幕府に居場所がなくなった楠木正儀は1382年、南朝に復党
(※細川派…佐々木、土岐、赤松。斯波派…山名、大内、上杉。南禅寺住職も反頼之派の春屋妙葩に。)
1380   この年、懐良親王および足利義満の使いが明に遣わされるが、退けられる。 北小路室町に室町弟完成。

1381~1400年

1381   日什が会津より上洛。(6月)
1382   楠木正儀が再び南朝に寝返るも、和泉国守護・山名氏清に大敗。(閏1月)
※南朝は紀伊などで局地的に勝つことはあったが、大勢には影響せず。正儀の敗退で再び和睦論が高まる。この後、正儀が表舞台に立つことはない。

後円融天皇(義満とは従兄弟)が譲位。後小松天皇践祚。
(※二条良基フィクサー?)
1383 永徳3 興和 足利義満が源氏長者に。(1月)

後円融上皇が正室三条厳子に重傷を負わせたうえに、按察局(あぜちのつぼね)と義満の密通を疑い按察局出家。さらに自殺未遂騒動。(2月)

義満が准三后となる。(6月)

長慶天皇が譲位し、弟の後亀山天皇が即位。(12月)
※主戦派→和睦派。これにより南朝の軍事行動は減った。というより、それをするほどの体力もなかった。義満の脅威は南朝ではなく有力守護大名であった

九州では懐良親王死亡
1385   義満、諸国遊覧で権威誇示。 宗良親王歿。中部地方で南朝の拠点構築を目指すも30年間放浪、何の功績もなし。吉野で没する。75歳。
1386   赤松円心4男、3男則祐弟の氏範、南朝として奮戦していたが戦死。
※ちなみに、護良親王・北畠親房・赤松則祐の関係に着目すると、護良親王の妻が北畠親房の妹の可能性が高く、親房にとっては義弟(あるいは従兄弟)。赤松則祐は元々護良の従者。護良の武芸の相手。赤松家と北畠家は護良を通じて結びついているのと、同じ村上源氏。もっとも赤松家は出身がはっきりしていない。のちの、嘉吉の乱で赤松教康は伊勢国司北畠教具を頼って伊勢に逃れていることから、関係はここまで続いている。もっとも、北畠氏は教康を自害させているが。
1390 明徳1 元中7 土岐氏の乱
土岐康行が美濃で幕府に討伐される。(12月)
※美濃、尾張、伊勢を治めていた。後継者の康行に美濃・伊勢を、弟の満貞に尾張を与えて内紛させる。実際、この3年後に対決。康行討伐に。
→【日本史でるとこ攻略法
1391   日什、義満に訴状。
明徳の乱山名氏清が幕府に討伐され、一族の八か国の守護職が没収。(12月)
※噂を流して氏清(丹波・和泉守護・48歳)、満幸(丹後・出雲守護)に時煕を攻めさせておいてからの、時煕支持。山名氏清は京都に攻め入り、義満軍と対決。和平案もあったが、将軍直属の奉公衆の活躍もあり、山名氏清戦死、満幸逃亡。山名には但馬(時煕)、伯耆(氏幸・時煕弟)、因幡(氏家・時煕叔父)のみに。和泉・紀伊は大内義弘に恩賞として渡す。ここで南朝と大内が接することになり南北和平交渉が推進。
※さらにこの年、九州探題・今川了俊(67歳)が肥後八代を攻め、古麓城陥落。九州南朝はついに降伏。また四国に逼塞していた細川頼之幕政復帰。頼之は和睦論者であり、和睦が急速に進む。翌年、頼之は死去するがその後は和泉・紀伊国守護の大内義弘(36歳)が中心となり和睦交渉。
1392   南北朝合一
後亀山天皇が帰京、諸国の儀により神器を北朝に返還。(閏10月) ※1336年に後醍醐天皇が吉野に移って以来、56年ぶりに収束。この時の条件は①三種の神器を北朝の後小松天皇に渡す、②皇位は交代、③国衙領は南朝、長講堂は北朝、であったが、幕府主導で北朝は知らされておらず反故にされる。というか北朝は北朝で分裂問題をはらんでいてそれどころではなかった。

李成桂が朝鮮建国。
1393 明徳4 後円融天皇没。(4月)
1394 応永1 足利義満、将軍職を義持に譲り、太政大臣となる。(12月)
1395   足利義満(38歳)が太政大臣を辞し、出家する。(6月)

今川了俊の九州探題を解任。(8月)
※筑後・肥前・肥後の守護から駿河半国へ。後任にはし渋川義行息子。
1398   足利義満が北山弟(鹿苑寺・金閣)に移る。
(※前年完成。幕府の政庁は室町弟から北山弟に移る。)
1399   この春、鎌倉公方足利満兼が弟の満直・満貞を奥羽に派遣。(篠川公方・稲村公方)
相国寺大塔供養が行われる。(9月)

応永の乱
幕府が堺城を攻略し、倒幕の挙兵をした大内義弘が敗死する。(12月)
※鎌倉公方満兼…今川了俊の仲立ちで連合を組むが義弘戦死で京には入れず。了俊だけ処罰。山名時清(丹波)、土岐詮直(美濃)、京極秀満(近江)、南朝の残党らに呼びかけ挙兵。朝鮮ともパイプ。これには義満自ら出陣。
★この戦いで斯波氏は尾張国守護・遠江も兼任。斯波氏は在京していたため、守護代として織田家(!)。(⇒応仁の乱で朝倉家が増長したことにより、斯波家は越前でも尾張でも勢力を失い、守護代の織田家が台頭。一方、遠江では今川家が斯波氏に所領を取り上げられることになり、応仁の乱でも対立。斯波義廉が西軍に就いたため、今川義忠は東軍へ。もっとも、遠江では国人があちこちで勢力をふるっており、なかなか遠江は統一されず。のち、今川氏親が北条早雲の力を得て統一に向かう。

この頃、イギリスでランカスター朝が起こる。
1400   信濃国に守護として入部した小笠原長秀が村上満信・大文字一揆によって追却される。(大塔合戦)(9月)

1401~1420年

1401   足利義満が祖阿・肥富を明に遣わし、明との国交開始。当時は建文帝。(5月)
1402   世阿弥が『風姿花伝』を著す。(4月)
足利義満が明使を北山弟に引見。(9月)
明で永楽帝即位。(靖難の役)
1404   義満が明より「日本国王」の称号を与えられ、明との勘合貿易が開始される。(5月)
安芸国守護山名満氏に対し、国人33名が一揆。(9月)
1406   後小松天皇の生母・通陽門院厳子没。義満の2番目の正室・日野康子(死亡した前正室・日の業子の姪)を准母・准后とする。(12月)(※これにより義満は准父、つまり上皇、院となる。)
1408   足利義嗣が親王に準じて内裏で元服。(4月)
※3月8日から後小松天皇を招いて21日間遊宴。4月25日、元服も直後の27日、義満倒れる。51歳。 【義満についてはコチラも

足利義満没
太政法皇の宣下が行われるが斯波義将の進言で将軍義持が辞退。(5月)

京で暴風雨。(8月)
陸奥国で五郡一揆が結ばれる。(2月)        
1410   嵯峨に住んでいた後亀山法皇は両統迭立を守らない幕府へ抗議のため、吉野に出奔。2年後、伊勢国司北畠満雅挙兵も、幕府は全盛期で全く影響なし。その後も後亀山系統(小倉宮)を中心に後南朝は何度か蜂起したり三種の神器を盗んだりする。
1411   義持が明使の入京を許さず対明通交を中絶。(1432再開)(9月)
1413   法華宗妙本寺が延暦寺衆徒、犬神人(つるめそ)により破却。(6月)
1416   上杉禅秀の乱
前関東管領上杉氏憲が鎌倉を攻め、鎌倉公方足利持氏追放。翌年鎮圧。(10月)

この年、尚巴志が琉球山北王繫安知を滅ぼす。
1418   将軍義持が上杉禅秀の乱に連座したとして実弟の足利義嗣を誅殺。(1月)
1419 応永26 応永の外寇
朝鮮の兵が対馬に来襲、九州探題渋川義俊らが撃退。(6月)

当時、明に臣従政策をとっていた義満から、ナショナリズム義持に代わり、永楽帝から脅迫を受けていた。この裏には明があるのではないかと足利義持は感ずる

この頃、ボスミアでフス戦争。
1420   応永の大飢饉
一休宗純27歳は悟りに、世阿弥元清は執筆を精力的に。雪舟は生誕。朝鮮国の使いが来日、帰国後『老松堂日本行録』を著す。(10月)
→【大飢饉、室町社会を襲う

その5:応仁の乱前夜編へつづく

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