~「もう一つ上の日本史」出版に伴い、勉強方法も変える必要が出たので、全面改訂突入します~

その4:南北朝合一編はコチラ】(~1420年)

4代将軍・義持(~1428)、6代将軍・義教(~1441)、8代将軍義政(1443~)のそれぞれの時代に起きたことをまとめよう!

short summary

4代将軍:足利義持

室町時代の中では平和な時代を築いたという点で、評価される。

日明貿易をとりやめ、日本が明の臣下となることを拒否したため、「ナショナリストの鑑」としても扱われる。

この時代、元号としては珍しく「応永」が35年も続いた。

明との関係変化で生じた「対外的な不安」に対して、「国内の安定を目指した」ためと考えると良い。

「応永の外寇(1419)」、「応永の大飢饉(1420)」など、「応永」と名のつくものは基本的に義持時代のことである。

問題はアルコール。

息子の義量は5代将軍となるも19歳の若さでアルコール性肝不全(?)で死亡。

飢饉に備えて出した「禁酒令」も、自身が大酒飲みであり、あまり効果なし。

死に際では次期将軍について尋ねられると、「どうせお前らが決めるんだろ」と投げやり。

もっとも、これは当時が「衆議の時代」であったことを物語る。

結局、「くじ」により6代将軍には弟の義教が天台座主から還俗して就任。

新時代の幕開けとなる。

「ハト派の重鎮」畠山満家が生きていた時代は足利義教もまだ抑えが聞いていたが、彼の死(1433年)により独裁色を強める。永享の山門騒動(1433-1435)、世阿弥の佐渡流し(1434)、各大名の遺領への介入、関東永享の乱(1438)などなど。これらは「強い幕府」を目指した結果でもあるのだが、「嘉吉の変」(1441)という日本史史上で最も劇画チックともいえる謀略により「犬死」してしまうのだ。ここが1つのターニング・ポイント。

その後、短命に終わった義勝を経て、8代将軍に足利義政が就任。「銀閣寺」、「風流人」のイメージが強いが、就任初期はいろいろと政治に首を突っ込んでいた。(そして余計に混乱を招いていた。)中央では細川氏と畠山氏の争い、関東は応仁の乱どころではない広範囲での戦乱。土一揆も頻発。義政ひとりの責任ではないが、もはや出口の見えない状態に陥った。

1421~1440年

1423   足利義持が将軍職を義量に譲る。(3月)
1425   足利義量19歳で没。(2月)
♨アルコールが原因というのは有名な話。若い頃から無茶無茶飲んでいたんだろう。
1426   京で大火。(1月)

近江国・坂本の馬借が京に乱入。(6月)
1427   所領召し上げに抗して播磨国に下国した赤松満祐に対し足利義持が追討を命じる。(10月)

義持が赤松満祐を赦免。(11月)
1428 正長1 足利義持没。くじ引きにより弟の天台座主義円が還俗し、将軍職後継者に。(1月)
義持治世20年間は大きな戦乱もなく、室町の中でも比較的安定していた

【足利義教】6代将軍。この時代が将軍権力絶頂。ただ、独走しすぎた?「万人恐怖」で有名。食事がまずい、と料理人を殺したり。
足利持氏】4代目鎌倉公方。永享の乱で敗死。子の成氏は享徳の乱をおこし、のちに古河に本拠地を移す。古河公方と呼ばれる。)

<宿老会議>三管四識のうち年長で有力な守護大名を宿老と呼び、宿老会議にて重要事項を決定していた。この時期、黒衣の宰相・三宝院満済が座長。ほか宿老会議メンバーは斯波義淳(越前、尾張、遠江守護、32歳)、細川持元(摂津、丹波、讃岐守護、30歳)、管領畠山満家(河内、紀伊、伊勢、越中守護、57歳)、畠山満則(能登守護、56歳)、山名時煕(但馬、備後、安芸守護、62歳)。

【畠山満家】ハト派の重鎮。彼の存命中は義教のストッパーに。
★義満が右大将拝賀をした際に、一色家は諸大名の先頭であった。しかし、6代将軍義教の際の先頭には畠山持国が決まった。これに腹を立て仮病したことを問題視した義教は山名時煕、畠山満家に相談し、討伐を試みる畠山満家は赦免を主張。赤松満祐の時もそうであった。義教は不満であったが、満家は他の大名も取り込み穏便な処分に(1430年)。
★畠山満家は義満が築いた戦後レジームの信奉者。鎌倉公方足利持氏謀反の噂の際も、穏便に解決を図る。(1431年)
★同年の九州での大内家の家督相続の際もそう。地方で少々反抗があっても幕府の屋台骨までは及ばないと言う認識があった。遠国放任策である。むしろ不用意に首を突っ込む方が危険であると。
1433年、畠山満家62歳で死亡。南北朝内乱を経験した最後の世代だったハト派重鎮の死は義教が強硬路線に舵を切るきっかけとなる

称光天皇没。後花園天皇践祚。(7月)
※後小松上皇(52歳)は義持時代の鬱憤を晴らすかのように反抗的に。

後花園天皇(10歳)の即位に抗して南朝の流れを汲む伊勢国司北畠満雅が小倉宮を奉じて挙兵。(8月)

正長の土一揆(9月)
伊勢はじめ京畿内諸国の土民が徳政令の発布を求めて蜂起
日本開闢以来土民蜂起これが初めて也。「大乗院日記目録」以後、毎年のようにどこかで一揆。発端は「馬借」と呼ばれる運送業者。その後、土倉への借金帳消し運動に幕府は酒屋・土倉からの税金を経済基盤にしていたが、これは同時に酒屋・土倉を使用する民衆の負担につながっていた。⇒そこで日明貿易に活路を求めた。
→【日本史でるとこ攻略法】一揆の順番
→【日本史史料問題


この年、飢饉、疫病で死者多数

播磨国で国一揆がおこる。(11月)
1429 永享1 丹波国で土一揆がおこる。(2月)

足利義教が征夷大将軍となる。(3月)
※山門の衆徒の反抗や大和でも国人一揆。幕府と比叡山の山門騒動は泥沼化。1435年、根本中堂が炎上。

琉球王国成立(※中山、山南、山北という三勢力がやがて中山の尚巴志を中心に統合。)【琉球の歴史:コチラも
1431   京で大洪水。(5月)

大内盛見が筑前国萩原で少弐満貞と戦い敗死。以後、大内氏と少弐氏の対立状態続く。(6月)

★義教は盛見を助けたかったが、他の大名が反対。結果、見殺しに。義教がまだ支配が及んでいなかったことを象徴。

京畿内で大飢饉。(7月)
1432   遣明船が再開される。(8月)
※大和国で衆徒間の抗争が越智氏と箸尾氏の対立に発展。大和永享の乱。1440年に幕府の介入により両氏の当主が殺害される。

将軍義教が鎌倉公方足利持氏に対する示威のため、義満の先例に倣い富士遊覧と称し駿河国へ赴き今川範政(67歳)を引見。(9月)

この年、上杉憲実(23歳)が足利学校を再興する。中世唯一の総合大学。

管領は細川持之が継ぐ。(10月)
1433   一条兼良邸の前での闘鶏に怒り、義教が京都中の鶏を追い払い、一条兼良を処罰。(6月)

永享の山門騒動。山門の僧が幕府近習と争い強訴。(7月)

御花園天皇が飛鳥井雅世に「新続古今和歌集」撰進を下名。(8月)

畠山満家没。(9月)

後小松天皇歿。諒闇が籤で決められる。(10月)

斯波義淳没。(12月)(※遺領に対して義教介入。)

<この時期、湯起請などの前時代的なものもあったが、宿老会議などでわかるように「衆議を尽くす」というのが時代の特徴であった。>
1434   世阿弥、義教の怒りを買い佐渡へ流される。(5月)

延暦寺衆徒が日吉神輿を奉じて入京、強訴。(10月)

コジモ=デ=メディチがフィレンツェ市政を掌握。
1435   永享の山門騒動終結
幕府の延暦寺使節僧金輪院ら殺害に怒り衆徒らが総寺院・根本中堂を自焼。(2月)
♨当時の延暦寺は「僧兵」を有した武装集団…ということだけど、僧兵のもっとも手っ取り早いイメージは武蔵坊弁慶。

三宝院満済没。(6月)

山名時煕没。(7月)
※遺領に対して義教介入。申請の長男ではなく次男に。有力者の死亡で義教を止めるものはおらず。
1438   永享の乱
関東管領上杉憲実と不和になった鎌倉公方足利持氏に対し、幕府が「治罰の綸旨」を奉じ征討の兵を発する。(8月)

★っていうか、これは義教が仕組んでいる。(※持氏の関東独立の夢、潰える。)

フェララ・フィレンツェ公会議が開かれる。
1439   足利持氏が鎌倉永安寺で、その子義久が相模国報国寺で自害。(2月)

「鍋かぶりの上人」日親が義教に越訴。(5月)
1440   結城合戦。(3月)
結城氏朝が足利持氏の遺児春王丸・安王丸をかついで挙兵。→隠居していた上杉憲実が復帰。弟の清方が総大将となり結城氏攻略。これにて関東における上杉氏が実権を握り、義教政権は安定するはずだった。

足利義教が一色義貫(若狭、丹後、三河守護)、土岐持頼(伊勢半国守護)を大和国の陣中で誅殺。(3月)
※大和国国人一揆に際し。武田信栄に命じる。所領は没収。将軍職をくじ引きで争った大覚寺義昭も日向で自害。

1441~1460年

1441 嘉吉1 結城城が陥落し、結城氏朝・持朝が敗死、春王丸、安王丸は捕らえられた後、惨殺。結城合戦の終結。(4月)

嘉吉の乱
赤松満祐、教康が将軍義教を暗殺し、播磨国へ下向。(6月)
※次の標的は赤松家と言われていた。当時、戦勝パーティーが連日行われていたし、まさかこうなるとは義教も思っていなかったであろう。同じく参加していた細川持之、山名持豊はかろうじて逃げ切る。山名煕貴、京極高数らは死亡。

嘉吉の土一揆
近江、畿内で徳政令を求める土一揆がおこる。数万人規模。(8-9月)※赤松討伐の隙をつく。京の七口の最重要拠点・粟田口を守るのは山城国守護京極持清。しかし、彼だけでは支えきれず。土倉から賄賂をもらった管領細川持之は弾圧を主張も、ライバルの河内守護・畠山持国(44歳)は強硬に反対。ちなみに一揆上層部は地侍クラスであった。一連の強訴を通じて1人の処分者も出さなかったことが最大の特色。)
【細川持之】…この騒動で己の指導力を痛感して畠山持国に管領を渡す。嘉吉2年に細川持之が没すると嫡子の細川勝元が後を継ぐが、13歳であったため、叔父の持賢が後見。
畠山持国】…剛直な性格で知られる剛腕政治家。やや気分屋。
幕政は細川vs畠山、各守護家でも細川派vs畠山派に

山名持豊ら幕府軍が播磨国で赤松満祐を討伐する。(9月)
幕府が一国平均の徳政令を発布する。(9月)
※徳政令に至る経過が室町時代の社会構造をよく示す。土民ー土倉衆ー宿老ー山門という各集団の衆議の積み上げが徳政令に結果する<衆議の構造>である。そもそも、義持ですらくじで将軍を選ぶほどである。
1443   7代将軍足利義勝没。(7月)
後南朝が蜂起、神璽を吉野に持ち去る。(9月)
1447   山城国西岡の土一揆が京に侵入する。(7月)
1448   畠山持国は将軍の許可を得たうえで実子の義就を後継に決めた。翌年、持国は管領に就任するとともに、山城国守護も兼任し、河内国、越中国、紀伊国、大和半国も守護に君臨。
1449 宝徳1 足利成氏(持氏の末子)が鎌倉公方となる。(1月)
足利義成(のちに義政と改名)が14歳で征夷大将軍となる。(4月)
この頃、ドイツのグーテンベルグが活版印刷術を発明する。
1452   畠山持富死亡。
※畠山持国は自分の弟・持富を後継者に指名していたことがあり、これにより畠山家は持国⇒義就を支持する派と、持国⇒持冨を支持する派に分裂。さらに持冨が死ぬと、長男の弥三郎派と次男の政長派に対立。これに細川や山名は時に弥三郎、時に義就を支援し、畠山家弱体化を目指す。

斯波義健死亡。
※義健には子がいなかったため、一族の斯波義敏が跡を継いだが、これに越前守護代・甲斐常治が反対し対立。義敏は幕府に常治の横暴を訴える。当時、守護代の任命権は幕府にあったからである。しかし、常治と縁戚にあった伊勢貞親が義政に讒言したため、義敏に不利な裁定が下り、斯波家は対立を深め、ついに分裂。
1454 享徳3 山城国で土一揆がおこる。幕府がはじめて分一徳政令を発する。(10月)

足利成氏が関東管領・上杉憲忠を殺害
⇒関東が戦乱状態に入る。(12月)
※1439年、成氏の父・足利持氏が憲忠の父・上杉憲実に敗れ、自害に追い込まれたことに端を発する。成氏は関東管領を廃して独立しようとした。(♨上杉憲実は息子たちに逆恨みされるから絶対職には就くな、と言っていたのだが…)
⇒義政の命で信濃国守護・小笠原家、越後国守護・上杉家、駿河国守護・今川家が出陣。
1455 康正1 畠山持国没。(3月)
義政は畠山持国を支援して、細川勝元を牽制しようとしたが、1455年、畠山持国が亡くなり、その後のお家騒動で畠山家が弱体化。細川勝元との関係改善および側近勢力の育成を進める。この代表が畠山持国のバックアップを受けていた伊勢貞親。しかし、伊勢貞親の台頭は管領家の地位の相対的低下を生み、今度は細川勝元と伊勢貞親の権力闘争が激化する。
畠山持国の死亡はライバルの細川勝元、山名宗全にとっては僥倖であったが、これにより2人の蜜月関係もほころびが。(のちの東軍、西軍。)幕府が畠山義就に畠山弥三郎を討たせる。(※こうやって時に介入。)

享徳の乱(1455-83)。
足利成氏が下総国古河に敗走→古賀公方の成立。(6月)
この年、都市・鎌倉が滅ぶ。
関東は応仁の乱どころではなかった。鎌倉公方・足利成氏と関東管領・上杉家(上杉顕定)の争いに加え、扇谷上杉家と山内上杉家の争いもあり、国人も巻き込んで広範囲で戦闘状態であった。

イギリスでばら戦争がおこる。

山名宗全】(1404-1473)
★山名氏は「明徳の乱」で叩かれ3国となっていたが、「応永の乱」、「大内盛見討伐」、「嘉吉の変」で再浮上。かつては「山名シフト」を赤松、細川で行っていたが、赤松家の没落で再膨張していた。南朝方であったため「旧敵国」に位置付けられ、どんなに実力があっても管領にはなれない立場であったが、山名宗全は一族の娘たちを有力大名の養女とすることで幕府の「対山名包囲網」を無効化。大内氏、細川氏がその対象で、大内氏は少弐氏、細川氏は畠山氏と対立を抱えていたのでこの提携は喜んで受け入れられた。(もっとも、大内氏と細川氏は瀬戸内海水運をめぐって対立することになるが。)義政が勝元との政治ゲームに興じた結果、宗全が漁夫の利を得て応仁の乱へとつながった
1457 長禄1 太田資長(道灌)が江戸城を築く。(4月)

足利義政が弟の政知を東国に派遣するも関東諸将の反対で入国できず、伊豆国堀越にとどまる。 →堀越公方の成立。(12月)
1458   赤松家の遺臣が神璽を後南朝から奪取し、天皇に献上する。(8月)赤松家再興が許され、法師丸(政則)が加賀半国の守護となる。
※以前、足利義政は「嘉吉の変」で没落した赤松家の再興をゆるし、赤松則尚をとりたてたが、赤松家の旧領である播磨と備前を手にしていた山名宗全は激怒し、則尚を攻めて打ち滅ぼした。今回、再び、再興をゆるし、加賀半国を与えたが、ここも富樫家が分裂しているところであった。結果、ここでも細川勝元(赤松)vs山名宗全(富樫成春)に。)
★【斯波義敏vs甲斐常治】当時、関東では鎌倉公方足利成氏と関東管領上杉家が争っており、なかなか戦闘をやめない成氏に対して斯波義敏に成氏征討令が出される。ここで義敏は関東に出兵するふりをして途中で越前国に引き返し、敦賀城の常治を攻めた。途中、義政が常治を支持したため劣勢に。

首里城建立。
1459   ★斯波家の争いで義敏が敗北。周防の大内教弘のもとへ。(5月)
※幕府は義敏の子・松王丸に跡を継がせたが、1461年、渋川義鏡の子を義敏の養子として義廉と改名させ強引に家督を継がせた。関係がないわけではないが、かなり血統としては遠い。当然、義敏は激怒

京で土民蜂起、幕府が一揆の張本を斬る。この年から天候異変相次ぐ。(11月)
★畠山家では持国死亡後は義就が家督相続。河内国に逃げていた弥三郎、政長を攻めて勝利し、弥三郎たちは細川勝元に庇護を求める。この年、弥三郎が病死。政長は勝元のとりなしで義政から赦免され、入京。
1460 寛正1 畠山義就が追放され、代わって畠山政長が畠山氏の家督を継ぐ。(9月)
※義就は河内若江城に入場。その後、追撃命令を受けた政長は閏9月に出陣。義就は嶽山城に立て籠もり、3年持ちこたえ、細川(管領)、山名の攻撃も耐えた。当時、義就は各地に攻撃を仕掛けていたため義政の信頼を失っていた。

畠山義就】勃発時30歳前後。戦に長け、西軍の主力として活躍。和睦には最後まで反対。終戦後も独自に戦い続けた武闘派。戦国大名の先駆けとも言える。管領経験者。
畠山政長】勃発時25歳。前当主の甥。1467年正月、山名宗全の計略で管領を罷免されたうえ(⇒斯波義廉)、家督の返上、屋敷の返還(⇒畠山義就)を将軍義政に命じられ決起。応仁の乱のきっかけとなった。東軍。

その6:応仁の乱勃発編はコチラ

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