~「もう一つ上の日本史」出版に伴い、勉強方法も変える必要が出たので、全面改訂突入します~

その5:応仁の乱前夜編はコチラ】(~1460年)

【まとめ】

★1467年、応仁の乱勃発。「将軍の跡目争い」は原因ではない。「畠山家の家督争い」に山名宗全が乗じて、南北朝争乱後の体制転覆を狙ったことが一因。

★詳しくは呉座勇一先生の書籍を【コチラ】。

★有力守護が在京して幕政に参加する体制は崩壊。留守を預かっていた「守護代」が守護の力を上回った地方も存在。

★関東では長享の乱(1487~)が起こり、扇谷上杉家・山内上杉家の両上杉家が対立。

★最終的に細川氏の体制は変わらなかったので、応仁の乱は東軍の勝利と言える。細川勝元の跡を継いだ細川政元は「明応の政変(1493)」で将軍の首をすげ替えるなど、まだ存在感を発揮していた。(細川家の没落は次章。)

★応仁の乱の日本史的意義として、京都の文化が地方に普及したことも付け加えたい。この時期の著名人としては雪舟。【大内氏については「寧波の乱」の項も】

short summary

応仁の乱の発端は将軍の跡目争いではない。

「応仁の乱」の原因について、古くは「将軍の跡継ぎ争い」と言われていた。

しかし、日野富子にしても細川勝元にしても、足利義視を「中継ぎ」にして、足利義尚に譲位することで納得していた。

それをおかしくしたのが義尚の乳母である伊勢貞親。

伊勢貞親が暗躍していた頃は、細川と山名は姻戚関係を結ぶなど、「反・貞親」で団結していた

細川勝元は義視の後見人であったし、義視の妻は日野富子の妹だった。

日野富子と義視も元々仲が悪かったわけではない

名門・畠山家の家督争いは苛烈。

しかし、ここに畠山家の家督争いが加わる。

畠山家と言えば、細川氏、斯波氏と並んで「三管領」。

畠山満家、畠山持国など、畠山家は室町幕府創立以来、重要な役割を果たしてきた。

家督候補であった政長と義就の30年以上も続く争いに、他家の家督争いも巻きこんだのが応仁の乱である。

南北朝は一方が「北」ならもう一方は「南」。
応仁の乱は一方が「東」なら、もう一方が「西」。

当時は、より能力の高い子が家督を相続することが多かった。しかし、その評価は父親の意見が強いとはいえ「主観的」なもの。

それぞれの候補者にはそれぞれの支持者がいたため、ひとたび家督争いが始まると、国全体を巻き込む騒乱となった。

山名宗全が「南北朝争乱後体制」の転覆を図る。

かつて日本の1/6を支配した山名家は、南朝(旧敵国)出身であるため、現体制下においてはどんなに力をつけてもトップにはなれない。

そこで山名宗全は「応仁の乱」で現体制をひっくり返そうとした。

山名が応援したのが義就、そして政長が頼ったのが細川

そして日明貿易をめぐって細川と争う大内氏が加わり、さらには将軍家も巻き込んでいく(+院宣をめぐって天皇家も巻き込まれる)。

(※)なお、山名家での家督候補争いに敗れた次男は東軍で参加する(↓↓)。

朝倉孝景の裏切りで東軍は勝利したものの…

応仁の乱は、朝倉孝景の「好条件での裏切り」などによって体制がひっくり返らなかった。

そのため「細川家(東軍)の勝ち」という意見もある。

しかし、東軍も、失ったものがあまりに大きかった。

是非、関連本を。

戦争の日本中世史(呉座勇一)
戦国時代前夜(水野大樹)

※勝者なき戦いと言われているが、朝倉孝景こそ「勝者」とする捉え方も。

守護代の台頭と室町体制の崩壊。

当時、有力守護は京都にいて幕政に参加することがならわしであった。

しかし、それでは地元が危ない。

気づいたら留守を預かっていた守護代が体制を整えていて、帰る場所を失うなんてこともあった。

文化的には文化者が戦乱の京都を離れることで、文化が日本中に広まった。

しかし、最初は京都を中心に争っていたものが、「自分の領地のための戦い」は全国に波及する。

両畠山家の争いを止めたのは山城国の国人。

両畠山家は相変わらず戦っていたが、それを辞めさせたのは山城国の国人(1485)。

関東は長享の乱勃発。両上杉家の争い。

関東は関東で足利成氏が幕府と和解したと思いきや、今度は扇谷上杉家と山内上杉家の争い(長享の乱:1487~1505)勃発。

もはや誰も誰の言うことも聞かない状態に。

この隙をついて、やがて関東の覇者となっていくのが北条家、北条早雲である。【コチラも

混乱は続く。

加賀では一向宗が「百姓の持ちたる国」を実現(1488)。

「明応の政変(1493)」では「将軍の首がすげ替えられる」。

(廃嫡された足利義稙は「流れ公方」として各地を転々とし、最終的に大内氏の庇護を得て将軍に復帰する。)【義稙についてはコチラも】

ちなみに明応の政変で、応仁の乱の主役の一人であった、畠山政長は細川政元(勝元の息子。奇行の持ち主。)からの攻撃を受けて自害している。享年52歳。

【西軍&東軍早見表】

西軍(山名宗全)   東軍(細川勝元)
山名豊氏(因幡守護)

山名教之(備前、伯耆守護)

山名正清(美作、石見守護)
山名家 山名是豊(備後、山城守護)
★宗全次男。兄教豊との家督争いで敗退したため離反。最終的には備後へ帰るも追放され消息不明。
畠山義就

畠山義統(能登守護)
畠山家 畠山政長
  細川家 細川成春(淡路守護)

細川成之(阿波守護)

細川常有(和泉半国守護)
斯波義廉 斯波家 斯波義敏
一色義直(丹後、三河、伊勢守護)
★義政と仲が良かったが西軍に。最終的に丹後は武田から奪回したが、伊勢と三河は失う。
四識家 京極持清(飛騨、出雲、近江半国守護)
★六角高頼との対立で。北近江は京極家、南近江は六角家。しかし、その息子の正経は東軍、正光は西軍に。家臣団も分裂。
六角高頼(近江半国守護)

土岐成頼(美濃守護)★この時25歳。戦後、身寄りのない義視を引き取る。義視は1468年12月以降、西軍。

吉良義勝(三河国国人)

富樫幸千代丸(加賀守護次男)

大内政弘 (周防、長門、筑前、豊前守護)★細川勝元と対立。この時21歳ながらも抜群のリーダーシップ。

河野道春(伊予守護)

朝倉孝景(斯波家家臣)★当時39歳。戦上手。のち、守護を条件に東軍に寝返る。
赤松政則
★vs山名のため。

今川義忠(駿河守護)★vs斯波義廉。遠江奪還を目指す。

武田信賢(若狭守護)★vs一色義直

九州勢(vs大内のため)

大友親繁(豊後守護)

菊池重朝(肥後守護)★大友家との対立からのち西軍。

島津忠国(大隅、薩摩、日向守護)
★ただし、派兵断るなど中立。

少弐教頼
★失地回復目指す。

【参照:畠山家家系図】

畠山政長は家督を継ぐべく持国の養子となったが、その後、義就が生まれたために追放された

1461~1480年 年表

1461   河内国で関所新設反対の土一揆。(2月)

斯波義廉が斯波家家督を継ぐ。

この年、全国的大飢饉がおこる。毎日500人が餓死するレベル。
※義政(25歳)が御花園天皇に幕府御所の増築の件で叱責を受ける。

蓮如が最初の「御文」を書く。     

イギリスではヨーク朝。
1463   河内国嶽山城に拠る畠山義就を政長が攻め、義就は紀伊国に逃れる。(4月)

政長が管領に就任。(9月)
第1Rは政長勝利。義就は高野山へ逃げ込む。しかし高野山に逃げた義就は山名宗全と手を結ぶことに

斯波義敏、細川勝元のとりなしにより将軍から赦免。
1464   将軍義政が弟の浄土寺義尋(義視)を後嗣として還俗させる。(12月)
※当時、義政28歳、富子24歳であったため、十分、子供が生まれる可能性があったが念書まで書いている。これは幕政介入を行う日野家への細川勝元の牽制であった
1465   寛正の法難
延暦寺衆徒が大谷坊を襲撃、蓮如(51歳)は大津へ移る。(1月)

山城国西岡の土一揆が東寺を占拠。

日野富子が男子・義尚を出産。(11月)
義政は義視⇒義尚と義視を中継ぎにするつもりであり、日野富子も自分の妹が義視の妻であったことからそれに異論はなく、細川、山名も異論はなかったのだが、乳父の伊勢貞親が強硬に義尚を推す
1466 文正1 幕府が斯波義廉に代え、義敏を惣領職に復し、越前・尾張・遠江の守護に補する。(7月)
⇒かつて讒言された伊勢貞親をひき込む。これに対して斯波義廉は山名宗全と組んで対抗。斯波家の重臣、朝倉孝景も義廉を支持。両者の対立はついに武力抗争へ。

【斯波義廉】応仁の乱で22歳前後。渋川家より斯波義敏の養子に。人望があり多くの重臣に支持される。西軍。管領経験者。のち朝倉孝景の裏切りにあう。最終的には分国の尾張に下り、その後、消息不明。
【斯波義敏】勃発時32歳。斯波家一門から本家に養子入りし当主就任。東軍。管領経験者。

紀伊高野山に遁走していた畠山義就が動き出す。(8月)

義就、政長方の烏帽子型城、嶽山城を落とし大和国で勢力拡大。(9月)

文正の政変
伊勢貞親と季瓊真蘂の足利義視暗殺計画が発覚、義視は細川勝元邸に。貞親と季瓊真蘂は近江へ、義敏は越前に逃走。斯波義廉三国守護に。(9月)
※当時、家督を廃された斯波義廉が山名宗全と組んで策動していたが、伊勢貞親は義視が彼らと組んで将軍を討とうとしていると讒言。危険を感じた義視が細川勝元邸に逃げ込み、ダシに使われた山名宗全は怒り、京に軍隊を派遣。一色義直(丹後)、土岐成頼(美濃)、京極持清(出雲)を抱き込み、細川勝元とも申し合わせ、貞親の処分を迫った。細川、山名にとっても貞親は共通の敵。貞親は近江に逃げ、貞親の口利きで守護になった斯波義敏も越前へ。この一連を文正の政変と言うが、結果的に日野一族以外に有力な将軍側近がいなくなったことで、山名・細川の対立は先鋭化。)

赦免された畠山義就が入京。(12月)
宗全は義就と結ぶことで勝元に対抗を試みる。義就と将軍義政、義視を山名邸に迎え、正月を祝って、義政は畠山政長の管領を解任し、斯波義廉に、政長の邸宅は畠山義就に渡すように言う。
1467 応仁1 御霊合戦。(1月18日)
洛北上御霊社に布陣の畠山政長軍を畠山義就軍が襲撃して破る。(※政長軍1000+大和国筒井順宣2000vs義就軍3000で激突も、百戦錬磨の義就軍が圧勝。途中から越前国守護代朝倉孝景と、山名宗全孫の山名政豊も加わる。政長軍は拝殿に火をかけ、大和国の実力者・成身院光宣の手引きで細川勝元の屋敷へ敗走。)
細川勝元も出兵する準備をしていたが、義政から「これは畠山家の私闘である」と出兵を禁止されていた。山名も禁止されていたが、御花園上皇の院宣をもらっており、こちらは出兵しても咎められるはなかった。
⇒一方、義政は大和国守護・興福寺に対して畠山政長とその与党の逮捕捜索を命じる。(23日)。政長軍は朝敵であるとともに、謀反人となってしまった。細川家は一族をあげて山名との戦いを決意

足利義視が宗全と勝元の屋敷を訪れ、調停を画策も無効。(2月末)

幕府御所で節句の祝儀が行われるも細川一族、斯波義敏、京極持清らは不参加。

伯耆国守護山名教之の家臣が阿波国守護細川成之の召使を殺害するという事件。(同日3月3日)

以後、小競り合い相次ぎ、激突は必至。

上京の戦いをもって応仁の乱勃発。(5月26日)

成身院光宣(細川方・大和国国人)が幕府御所の向かいの一色義直の屋敷に隣接する正実坊(酒屋・土倉の元締め)を占拠。義直邸は焼き払われる。勝元は義視を幕府御所に移すとともに、自身も御所に入り将軍家を抱き込み、ここを本陣とする
※東軍の武田信賢らも西軍の一色義直邸を攻撃。

将軍義政が牙旗を細川勝元に預ける。(6月)
★当初は細川勝元派東軍が優勢であった。将軍義政は停戦を命じたが、勝元の圧力に屈して牙旗を与えることで東軍が幕府軍となった。日野兄弟は、これは将軍家に対する反乱ではないからと介入に反対したが聞き入れられなかった。さらに、義政は義視を東軍の総大将に任命する

後花園上皇が「天下静謐の祈祷」の綸旨を出す。(6月)
★御霊合戦が始まると、御花園上皇は山名宗全に迎えられ西軍にかつがれ、政長討伐の院宣を出す。しかし、義政は中立を命じており、上皇と将軍で対応が異なった。応仁の乱が本格化すると今度は細川勝元に担がれ、東軍に。山名宗全討伐の院宣を出すよう圧力をかけられるが、これは拒否した。西軍には停戦を提案も聞き入れられずに戦争は長期化。自分の発言に責任を感じて出家。

大内政弘が入京。(8月)
当初の噂通り、細川氏と日明貿易の権益で対立する大内氏が参戦。5月10日に出発し、次々と行く手を阻むものをなぎ倒して入京。途中、細川氏と四国で対立した河野氏も参戦。家督争いに加え、地方の争いも加わることに。勝元は天皇家が大内に奪われることを恐れて、遷幸させる。

東軍総大将・足利義視が遁走(8月23日)
日野兄弟らもいる東軍に義視の居場所はなくなっていた。さらに東軍総大将に任命された直後に西軍に気脈の通じた人物を処分していたため、大内入京で力を盛り返した山名に報復されることを恐れた。伊勢国南部の北畠教具を頼って北畠一族の木造教親600騎を警護に伊勢へ。

東西の優劣が逆転(9月)
※西軍の士気は上がり、若狭武田軍のいる三宝院、京極持清のいる浄華院を落とす。義政は停戦を呼びかけたが握りつぶされ、さらに山名軍が細川勝元邸を襲い、畠山義就は幕府御所と内裏を包囲。18日東岩倉の戦いでも西軍優位は変わらず、南禅寺など近隣の寺社は放火。

応仁の乱最大の激闘、相国寺合戦。(10月)
※五山第2位の相国寺は西軍主力の攻撃を受け、七重の塔を残し、焼失。ここでついに後花園法皇が山名宗全追討の院宣を出す。翌日、畠山政長が兵4000で2,3万ともいえる六角・一色軍を敗走させ、大将畠山義就も退却してくる兵に巻き込まれる形で戦にならず敗走。しかし、京の七口のうち六口を西軍に抑えられ、武器や食糧を運ぶのもままならない状態であり、東軍不利は変わらず。

東軍、大内政弘の籠る船岡山を攻めるが攻略できず。(12月)
1468   年明け早々、東軍が西軍本陣を攻める。(1月)
※その後も競り合いは続く。

堅田大責
※幕府・山門衆が近江国堅田の町を焼き払う。(3月)
※堅田は蓮如が父の代から交流あり。しかし比叡山の堅田殿原衆が将軍家御用の材木を奪ったという口実で堅田の町を焼かれる。
⇒蓮如は北国、東国をまわり、三河に。そして再び京都を経て、1471年に越前国吉崎に。

大内軍の拠点・船岡山が落ちる。(9月7日)
※東軍の陽動作戦にひっかかり大内政弘ら主力が仁和寺へ。その隙をつく。一色義直、山名教之らが敗走。しかし、東軍も船岡山をもてあまし、城を焼いて下山。

足利義視が入京。(9月22日)
※ずっと督促していたがようやく。義視は日野勝光・伊勢貞親の追放を要請するも叶わず。逆にもう一度、剃髪を要求される。

西岡をめぐって両軍が激突。(10月)
※大きな櫓がたったことで戦況は徐々に洛外へ。補給路として重要拠点である西岡では住民(西岡被官衆)のゲリラ戦法で西軍がやられており、東軍は山名是豊を派遣し、さらに大きな戦闘に。両軍痛み分け。

義視が将軍義政と不和になり西軍へ。(11月24日)
※義政が伊勢貞親を呼び戻したことで義視が激怒、さらにその貞親の讒言により自身が身の危険を感じ、13日に比叡山へ遁走。のち、斯波義廉の本陣へ向かい、西軍に身を投じる。これで西軍も大義名分を確保。2つの幕府が存在することになり、西幕府も独自に守護の任命を行う。

当初の【細川勝元・足利義視(元々勝元は後見人)】対【山名宗全・足利義尚・日野富子】という構図は逆転。勝元・宗全の対立、富子の義視排斥、両畠山の山城守護をめぐる争いだけが残る

義視討伐の院宣。(12月5日)
※義政と勝元は後花園上皇の院宣をもらい、これにより義視と西軍は朝敵に
1469 文明1 足利義政が義尚を将軍後嗣に。(1月)

西岡被官衆が丹波に落ちる。畠山義就の制圧下に。(4月)

摂津兵庫を東軍が攻撃。山名是豊らの攻撃で大内軍撤退。(10月)
【山名是豊】宗全の次男。兄・教豊との家督争いに敗れて離反、東軍として参加。
1470   御花園法皇死去、後土御門天皇の親政開始。

大内政弘の叔父、大内教幸が反乱。

近江では京極持清(東軍)が死亡。(7月)
※近江では六角家の西軍に対して東軍優位であったが、持清の死により息子が東軍と西軍に分かれて、家臣団も分かれて戦う有様。最終的に1475年西軍勝利。京極正光が北近江、六角高頼が三浪近江を支配。敗れた京極正経は別の領国である出雲に下る。しかし、今度は正経が幕府の支援を得て近江に攻め込み、北近江をとる。しかし、統治方法が強引で正経は当主を追われた。その後、六角家重臣の伊庭家が江北の浅井家と組み、六角家に刃向い争いとなり、最終的に、北近江は京極家⇒浅井家、南は六角家が戦国大名として残る
1471   西軍の主力・朝倉孝景がまさかの裏切り!(5月)
※斯波義廉の家臣、朝倉孝景は越前国に下向した斯波義敏を追って攻め入る。その後は同じ西軍に属する甲斐敏光と国内の主導権争い。これに目を付けた細川勝元が説得し、越前国の守護就任を条件に孝景が東軍に寝返る。もっともこれは空手形に終わるも、西軍にとっては北陸からの輸送路も奪われる大打撃で西軍と東軍の立場が逆転。両軍に和睦の機運も高まる。
★この頃、加賀国では守護富樫政親(東軍)が弟・幸千代と内輪揉め。朝倉に追われた甲斐常治は加賀に入って、富樫政親とは揉め、幸千代を頼る。

本願寺蓮如が越前国に吉崎道場を開く。(7月)

西軍、斎藤家が京都へ出陣。
1472   東軍、大内教幸が豊前馬獄城に敗死。

和睦の機運が高まるも、赤松政則、畠山義就、大内政弘はそれぞれの理由で反対。
※政則は旧領を回復できない可能性、義就はこのままでは家督が義長になる可能性、政広は細川家に日明貿易の利益を完全に握られる可能性。

細川勝元は政元を後継者に。(5月)
※政元は山名の娘の子。これは山名宗全へのメッセージでもあった。

山名宗全は孫の政豊に譲って引退。(8月)
(※しかし、和睦に関しては諸武将を説得できず。)

戦乱は地方にも広がる。
1473   山名宗全没。(3月)
細川勝元没。(5月)
※晩年は禅道修行に励んだり、医学書を集めて全集を作ったりと文化事業に興味が移行していた。
★伊勢貞親もこの年に死んでいる。

義政に代わり、義尚が征夷大将軍に。(12月)

山名政豊、細川政元で講和条約結ばれるも、畠山義就は山名政豊の山城守護就任に反対。義就、政長、赤松政則ら徹底抗戦派の争いが続く。この時期の戦は西軍東軍関係なく、自分の領土のため、となっていった
【赤松政則】東軍の主力として活躍。結果として播磨、備前、美作という3国を回復し、応仁の乱で唯一と言っていいほど大戦果をあげた。しかし、山名家との争いは激しかった。
★嘉吉の乱(1441)⇒赤松討伐⇒山名勢力増大⇒細川危機感⇒赤松支援⇒旧領回復という流れ。
しかし、これには赤松家の家臣の力によるところも大きく、守護代・浦上則宗が台頭。
1474   大内政弘vs山名政豊。(7月)
※政弘は講和の条件に義政、義視の講和を条件とした。講和した山名政豊を北野千本において義就と共に攻撃するも、細川の援軍を得た政豊がこれを撃破。これにより政弘も講和に傾く。

加賀国で一向一揆。(11月)
※富樫幸千代は高田専修寺派と結ぶも、本願寺派を味方に付けた富樫政親に敗れる。
1475   蓮如が一向一揆を嫌い、吉崎を離れ河内国に移る。(8月21日)
1476   日野勝光、48歳で死亡。日野富子独裁。(6月)
※京都での戦はほぼなくなり、大内政弘も講和に向かい、あとは畠山義就、政長をどう講和させるかという点で東軍の代表として日野勝光が動いていたが、本人が死んでしまう。
しかし、これによって、義政と義視の障壁は払われる。元々、義視は伊勢貞親と日野勝光の排斥を訴えていたが、伊勢貞親は1473年に死亡。日野富子は妻の姉であったため、わだかまりは少ない。

義政が大内政弘に講和に向けての親書。同じ頃、義視が義政に詫び状。(9月)

義政が義視に今後は粗略に扱わないという念書。(12月)
※これで義視の扱いを気にかけていた大内政弘の面目も保たれる。
1477   畠山義就、京を引き揚げ、政長が支配する河内を攻める。(9月)
これを見て大内政弘も東軍に帰順。義政も政弘の帰順を喜び、官位を与えるとともに周防、長門、豊前、筑前と領土も安堵と言う破格の待遇。一方、義就は京を去って1週間も経たないうちの攻撃を仕掛け、政長を驚かせる。河内国、大和国は義就の勢力下に置かれることに。

交戦中の諸将が分国に帰り、応仁の乱がほぼ終結する。(11月11日)※大内政弘は10年ぶりに周防へ。畠山義統は能登へ、土岐成頼は美濃へ。周防に帰った政弘はその後も九州で覇権を拡げたり、六角討伐に兵を出して幕府と友好関係を築くなど大内家の戦国大名化の端緒となる。土岐成頼は実権を守護代の斎藤氏に握られていたうえに、家督争いで弱体化。
1478   足利家と上杉家で和睦。
1479   蓮如が山城国山科に本願寺の御影堂を建立。落成式。(4月)
※落成式には日野富子も臨む。城郭都市、山科本願寺完成。

1481~1500年

1481   足利義政隠居、慈照寺銀閣造営へ。権力は手放さず。

赤松政則、山城国守護を打診されるが播磨を離れるわけにいかず、拒否。
1482   摂津国で国一揆。
(※国人たちが義就と結託。)

畠山政長(管領就任。41歳)、細川政元(27歳)らが畠山義就を討つため摂津・河内に。政元が義就と和して帰京。(3月)
またしても政長vs義就に。山城北部が政長、南部が義就という勢力図に。

義就大勝利。(8月)

幕府と足利成氏が和睦。ようやく享徳の乱が終わる
しかし今度は扇谷上杉家と山内上杉家のあいだで長享の乱勃発(1487~1505)。その後は関東諸将は上杉の命令も足利の命令も聞かない戦国に
1483   山名政豊vs赤松政則。(8月)
※播磨国をめぐって。赤松惨敗。その後、徐々に浦上軍の活躍で奪回。
1484   足利義政が寺院の仏堂・房舎の破壊、売却を禁止する。(12月)

畠山政長、山城守護を解任。しかし、その後も戦争は続く。
1485   義就方の有力武将・斎藤彦次郎が寝返る。(7月)

山城・大和・河内三国で土一揆。(8月)

山城国一揆
南山城の国人・百姓らが交戦中の政長・義就両軍に撤兵を要求。(12月)
(※10日以内の無条件撤退を要求。しかし、今度は場所を変え戦いを継続…)
→【日本史史料集

ばら戦争終わり、テューダー朝はじまる。
1486   山名vs赤松。今度は赤松勝利。(1月)
※その後も一進一退の攻防続く。赤松家は政則の死後は浦上家と折り合いが悪く、その争いで求心力低下。出雲の尼子氏の侵攻を受けるようになる。尼子氏は朝鮮との貿易、銀山の独占で力をつけた。

山城の国人が平等院において<国中掟法>を定める。(2月)
(※守護不在となった後、自治。)
1488 長享2 一向一揆勢が加賀国高雄城に守護富樫政親を攻め、敗死させる。(6月)
※富樫政親は勢力が大きくなった一向一揆勢を弾圧しようとするが、苦戦。当時、義尚は六角征伐に富樫らと出ていた。越前の朝倉に応援要請。ただ、一揆の数は20万とも言われ、富樫政親は自害。加賀は「百姓の持たる国」となる。
1489 延徳1 丹波国一揆。

9代将軍・足利義尚没。(12月)
※将軍権力の回復を目指して言う事を聞かない六角高頼を討とうとするが、うまく進まず。さらに陣没。義尚には子供がいなかったため、義視の子の義材が将軍に。もっとも、これには細川政元、日野富子が反対。)

バルトロメウ=ディアスが喜望峰発見。
1490   8代将軍・足利義政没。(1月)
【足利義政】将軍職を義尚に譲っていたが実権は握っていたため、義尚とも折り合いが悪く、日野富子とも折り合いが悪かった。1481年に隠居するも、依然として権力を握り続けた。
足利義視の長子義材が将軍に。(7月)

畠山義就没。(12月)
1491   足利義視没
今度は失脚することなく。

北条早雲、最後の堀越公方・足利茶々丸を殺し伊豆を支配下に。(9月)
1493 明応2 政元により丹波国一揆弾圧。(2月)

明応の政変。【コチラも
細川政元(+日野富子)が10代将軍義材に叛き、関東公方足利政知の次男清晃(のちの義澄)を擁立。(4月)
畠山政長自害義材は竜安寺に幽閉。(閏4月)

義材、暴風雨に乗じて脱出を試み、越中へ。(6月)
※その後、越中に6年、周防に8年。28~42歳。流れ公方と呼ばれる。

細川政元に弾圧され山城国一揆が玉砕。(9月)
※国一揆を抑え、将軍を傀儡化した細川政元の専制権力が確立。その政元も領国経営に力を入れるようになる。反細川派守護大名たちは実力で領国を統治して戦国大名化することで権門体制という中世国家の枠組みが崩壊。将軍の首がすげかえられるという前代未聞の事態で将軍家の権力は消失したとみて良い

♨ 義稙は岐阜に住んでいた期間が長く京都での地盤がない。そこで、成果を上げようと戦争、戦争。これには細川政元も困ったし、日野富子も困った。ということで、足利政知(堀越公方)の息子、義澄を擁立して明応の政変。

<この年より、約100年間続く戦国時代に突入したとみてよい>

細川政元も領国経営に専心したし、各地で地方政権が誕生した
1495   北条早雲が大森藤頼の居城小田原城を奪う。(9月)
(※関東進出の足掛かり。)

京で土一揆が蜂起し、土倉・町衆が自衛するようになる。(10月)

ウォルムス国会が帝国平和令を交付する。
1496   少弐政資が大宰府に移る。(1月)

蓮如が大坂石山に本願寺を建立する。(10月)
1497   大内義興が大宰府の最高責任者・少弐政資を攻め滅ぼす。
(※のち、大友と島津は貿易の関係もあり、大内排斥で一致。大友・少弐連合軍で大宰府奪還を目指すが、少弐氏の被官・龍造寺家への大内家の内応により敗北。)
1499   蓮如没。(3月)

細川政元が畠山尚順を摂津国に破る。(12月)
1500   祇園祭復活。

その7:戦乱はまだ始まったばかり編へつづく

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