~「もう一つ上の日本史」出版に伴い、勉強方法も変える必要が出たので、全面改訂突入します~

この時代に関しては、なんせ2020年5月に発売された「戦国期足利将軍研究の最前線」が秀逸。テストには出ないのかも知れないけど、この100年間を全く知らない、というのはなんともむずがゆい。しかし、この本さえあれば大丈夫。かなり人間関係が入り組んでいてわかりにくい時代と思っていたけど、とにかくわかりやすい。序章だけでも読む価値あり。

その6:応仁の乱勃発編はコチラ

★細川家は一枚岩と考えるのは大きな間違い。政元→(1507明正の錯乱・1508大内上洛)→高国→(1531攻撃)→晴元。

★寧波の乱(1523)は、大内(+博多商人)vs細川(+堺商人)。この構図は応仁の乱と一緒であるが、勝者は大内。(しかし、ちょっとやりすぎ。明との公貿易は途絶える【コチラ】)

※大内義興は同時代最強とも言える。義興が匿ったのが義材(義稙)。義材は義視の息子でもあり、ここでも応仁の乱の時の関係が続いている。

★信長以前の天下人は三好長慶。1560年前後に絶頂期を迎える。

★北条早雲は1512年鎌倉入り、1519年死去。世代的には大内義興よりも早いくらい。関東動乱の帰結が北条氏の台頭である。(あんまりテストに出ないけど。ちなみに北条早雲は名門・伊勢氏の系譜であり、素浪人ではない。)

もしかすると、この時代は日本史においても指折りの人気のない時代かも知れない。「どうして戦国時代が起きたか」という問いについて、「応仁の乱で乱れて実力のあるものがのしあがってきた」という答えは幼稚園生レベル。まず細川家の動向を押さえておきたい。

細川家の動向

1493明応の政変

(細川政元らが10代将軍・義材を廃し、義澄を将軍にする。)
1507明正の錯乱

(後継者争いのゴタゴタから細川政元暗殺。細川澄元&高国が権力を握る。)
1508大内義興の軍事的上洛に伴い、細川高国が大内側に寝返り、足利義材&大内義興&細川高国の3頭体制に
1518大内義興は領国へ帰り、結果的に細川高国が権力を独り占めすることになる。
1521 足利義材、細川高国を嫌い出奔。次の将軍には11代将軍義澄の息子、義晴に。
1523寧波の乱。寧波にて細川高国方が大内義興方を怒らせて、ボコボコにされる。【コチラも】(問題は、中国官憲も殺害したり、町を掠奪したこと・・・)
1531細川高国、細川晴元(大内上洛に伴い京都を追い出した澄元の息子)と三好元長の攻撃を受け自刃。
1532細川晴元と三好元長の争いになり、細川晴元勝利
1541家臣の木沢長政が反逆。(1542、三好長慶:元長の息子らが討ち取る。)
1543細川高国の養子、氏綱が攻撃。(1547、三好長慶らが討ち取る。)
1549細川晴元、三好長慶を敵に回してしまう。戦に敗れ京を離れる。以後、長慶と和睦を繰り返すも、細川家自体はさらに弱体化。

これだけ内輪で争っていたら畠山家と同じで細川家自身がダメになっちゃうんじゃないか?と思うだろうが、実際にそうなった例。「組織は内側から滅びる」っていうのは、何度目だろうか。そして、「数人で天下とる→今度はその数人で勢力争い」の構図も同じ。

試験に出るとしたら1523年の「寧波の乱」。これはよくよく見ると「大内vs細川」、って応仁の乱の焼き直し。領国を考えれば、大内=博多商人、細川=堺商人、ということで、わざわざ暗記本に頼らずともわかるであろう。一時期は共に天下を納めていたが、やはり基本的に1番じゃないとダメなのだろう。

単純に書けば、細川家が権力を失った後は→その家臣だった「三好長慶」→その長慶の家臣だった「松永久秀」となるのだが、実際はかなりややこしい。(ややこしいことがわかればよい。詳しくは他書を。)いずれにしても、この時期、もう織田信長が桶狭間の戦を経て台頭している。

1501年~

1501 文亀1 日蓮宗と浄土宗の間で宗論が行われる。(5月)
1506 永正3 越前守護朝倉貞景が吉崎道場を破却する。(8月)

一向一揆勢が越後国の守護代長尾能景と越中国に戦い、これを廃止させる。(9月)
1507   細川政元暗殺
家督争いに際して細川澄之派が父・政元を殺し、義兄弟澄元(澄之も澄元も政元の養子)を近江国に追いやる。(6月)
※細川政元は奇行の持ち主で家臣の信頼がなかった。もっとも、薬師寺忠長らに擁立された、この澄之(19歳)は40日も持たずに、細川澄元・高国、三好之長らの反撃で戦死。この機に大内義興が義材を奉じて上洛となる。澄元、三好は戦わずして敗走。

細川政元の養子
細川澄之…政元暗殺するが、40日天下。
細川澄元…澄之を殺害するが、大内義興上洛に伴い敗走。
細川高国…澄元とともに澄之を殺害するが、やがて澄元と不和に。大内義興と組むことで実権を手に。
※細川政元…奇行の持ち主としても知られるが、修験道にはまり女人を近づけなかったため、当然ながら子供はいなかった。
1508   尼子経久・大内義興が義材を奉じて軍事的上洛。足利義澄は敗走。(6月)

義材が再度将軍となり、義尹(よしただ)と改名。(7月)
⇒1513年にと改名義稙。

(※ただ、この時はまだ細川氏が幕政を握っていたのと、義興のお人よしキャラクターもあり、さほど影響力は持てず。細川家は高国が大内側に寝返り権力を手中に。)
1511   船岡山合戦で大内義興の軍事力発揮。
(※10代将軍足利義材&細川高国&大内義興が11代将軍足利義澄&細川澄元に勝利して一時期奪われていた京都奪回。)
1512   北条早雲、相模国を制し、念願の鎌倉入り。(8月13日)
1514   幕府が播磨国の一向宗を禁圧。(2月)

この年、山崎宗艦『犬筑波集』編む。
1516   今川氏親がついに遠江を領有。
1518大内氏、領国へ帰る。以後、細川高国の独壇場。
(※大内義興は在京中に自国で不穏な動きがあったために帰る。)
1519   北条早雲、大往生。(8月15日)
1521足利義材、細川高国の専制を嫌い出奔。
次の将軍には11代将軍義澄の息子、義晴が擁立される。
(以後、義輝→義栄→義昭)
1523 大永3 寧波の乱
細川氏・大内氏それぞれの遣明使が寧波で争う。(4月)

★博多商人と結ぶ大内氏、堺商人と結ぶ細川氏が「日本国王」を名乗り、勘合船を派遣。1523年、寧波に入港した大内氏の船が後から来た細川氏の船を襲撃、逃げ込んだ町にも被害を与える。
1526   駿河国守護今川氏親が『今川仮名目録』を制定。
後柏原天皇歿。(4月)

ムガール帝国が興る。
1531 享禄4 加賀国の一向一揆が大一揆と小一揆に分離し内紛。(閏5月)

朝倉教景・畠山義統が加賀一向一揆(大一揆)を破る。(10月)

細川高国、三好元長と細川晴元(澄元の息子)の攻撃を受け自刃
1532   細川晴元(&木沢長政&一向一揆)の攻撃により、畠山義尭、三好元長自害。(6月)

★なおも増長する一向宗に対して、細川晴元・足利義晴・木沢長政は法華宗を頼る。(法華宗は町衆の自衛組織と化していた。1527~市民軍。)

これにより、【幕府+法華vs一向】の形式に。8月には山科本願寺焼失。(→今度はおなじみ、法華宗が邪魔になったので、一向宗を煽って1536天文法華の乱で法華宗を弱体化)
1533 天文2 細川晴元が堺で一向宗徒に敗れ淡路国へ。(2月)

晴元・法華宗徒が本願寺で証如光教を破る。(4月)

晴元が光教と和睦。(6月)
この本願寺での籠城戦の仲人にたったのは千熊丸ことのちの三好長慶、11歳
1534織田信長誕生。
1535   相模国北条氏綱が今川氏輝を立て武田信虎を甲斐国に破る。(8月)
1536   松本問答。叡山僧と法華宗徒の宗論。(2月)
※一条・観音堂において叡山の僧華王房に下総国国人、法華宗の檀那である松本新左エ門が問答をしかけた。

奥州の伊達稙宗(たねむね)が『塵芥集』を制定。(4月)

天文法華の乱
延暦寺衆徒が京の日蓮宗徒を襲い、上京の寺院を焼失させる。(7月)
※応仁の乱以来の戦火。下京全域、上京1/3が焼け失せた。
※幕府の<煽り>もあった…

宗教戦争がひと段落したために細川晴元、入京し、幕政開始。
1537   駿河国今川義元が武田信虎の娘を娶り、北条氏と断交する。(2月)
1540   尼子晴久が毛利元就を安芸国郡山城に攻める。(9月)
※元就41歳。隆元15歳を大内の人質に。これに怒った尼子経久80歳が3万の大軍で攻め込む。しかし、3000の兵を前に、晴久27歳がなかなか攻略できず、そのうち大内の部将、陶隆房(晴賢)が援軍に10000の兵を連れる。挟撃により尼子大敗。

法皇がイエズス会公認。
1541   毛利元就と大内義隆の武将陶晴賢が安芸で尼子晴久を破り、晴久は出雲に帰る。(1月)

武田信虎が子の武田晴信21歳(信玄)に追われ今川義元を頼る。(6月)
※今川家に嫁いだ娘を訪ねに駿河に行った父を放逐。家督を継ぐ。

木沢長政が細川晴元に反逆、京に迫る。(10月)→翌年、三好長慶らにより討ち取られる。

足利義晴が近江国坂本に逃れる。(11月)

カルヴァンの宗教改革。
1542   武田晴信が諏訪頼重を甲斐国に幽閉、自殺させる。(7月)

斎藤利政(道三)が土岐頼藝を放逐。(8月)

後奈良天皇の許勅で法華二十一カ寺が帰京。(11月)
(以後、法華一揆はその牙を再生することなく。)
1543   大内義隆が尼子晴久の出雲国富田城を攻めるが敗退。(5月)
(※先の戦含めて結果的に双方相打ちに。この間に毛利が力をつける。次男元春18歳は吉川家の家督を継ぐ。小早川家はこの時、又四郎がすでに継いでおり、両川と呼ばれる。これらはすべて元就の権謀術による。)

大隅国種子島に漂着したポルトガル人が鉄砲を伝える。(8月)

細川高国の養子、氏綱が細川晴元に挑む。(→1547、三好長慶らの活躍でようやく勝利。)

コペルニクスが地動説を唱える。
1544   武田晴信、伊那に入り、高遠氏を攻略。
1547   武田晴信が家法『甲州法度之次第』を制定。(6月)

イヴァン4世がツァーリを称す。
1548   武田晴信、佐久に入り、上田の合戦で村上義清に敗退も、塩尻峠で小笠原長時を打ち破る。(7月19日)

河越の夜討。北条氏康、扇谷上杉家を滅亡させる。

守護代・長尾為景の子、長尾景虎、兄より家督を継ぐ。2年後、越後の支配者に。
1549   摂津・江口の戦い。
三好長慶が三好政長を摂津国で討つ。(6月)
⇒細川晴元が足利義晴・将軍足利義輝を擁して坂本へ敗走。(6月)(※三好長慶27歳にとって、三好政長は父・元長の敵。主君の細川晴元は彼の讒言を聞き、元長を殺していた。)


キリスト教伝来。イエズス会宣教師ザビエルが薩摩国鹿児島に上陸。(7月)
1550   大友二楷崩れ。
豊後国大友義鑑が宗麟廃嫡を図るも家臣に殺される。(2月)

三好長慶が義輝を山城国中尾城に攻め近江国堅田に駆逐。(11月)
1551   三好長慶が細川晴元・六角義賢と戦う。(1月)

晴元の武将、三好政勝・香西元成ら長慶の部将松永久秀に敗退。(7月)

陶晴賢の反乱で大内義隆自殺。(9月)
※この頃、天皇家はほとんど大内家に財政を頼っていた。これに陶が反感をもったという面もある。

武田晴信、小笠原長時を破る。
1552   関東管領上杉憲政が北条氏康に上野国平井城を攻撃され、越後国の長尾景虎(上杉謙信)を頼る。(1月)

将軍義輝が三好長慶と和睦し帰京。(1月)
(三好長慶は将軍義輝、管領細川晴元へ離反と帰順を繰り返す)

尼子晴久、将軍義輝から8か国の守護に。戦国最大。(~1566年)

斎藤道三、主君の土岐頼藝を放逐、美濃の支配者に。
1553   信濃国の小笠原長時が越後国に長尾景虎を頼る。(1月)

武田晴信が信濃国桔梗原で村上義清と戦い勝利。(5月)
(※12年におよび信濃制圧が終了。)

長尾景虎が村上義清を助け、川中島で初めて武田晴信と合戦。(8月)

この秋、景虎が入洛、参内。
1554   武田晴信が今川義元を助け、北条氏康と戦い、のち三国同盟成立。(3月)

毛利元就が陶晴賢討伐に挙兵。(5月)

龍造寺隆信が肥前水ケ江城を攻め、家臣土橋栄益、龍造寺鑑兼を破る。(10月)

北条氏康、山内上杉家を攻め、利根川以南の関東を制圧。
1555 弘治1 織田信長が同族信友を討ち、清州城を奪う。(4月)

第2回川中島合戦。(7月)

厳島の戦い。毛利元就が陶晴賢を安芸国厳島にて襲い、晴賢自殺。(10月)
※毛利軍が村上水軍の応援も受け、陶軍を一夜にして破る。(9月30日)
1558 永禄1 将軍義輝・細川晴元が六角義賢の援助により坂本に戻る。(5月)

三好長慶が京市中に地子銭を課す。(7月)

将軍義輝が三好長慶と講和、入京する。(11月)
1560   幕府がガスパル=ビレラに布教を許す。(1月)

三好長慶が将軍義輝の相伴衆に任じられる。(1月)
※幕臣中、最高の格式。最終的に9か国を得る。しかし、次第に野性を失い、連歌の道や、キリシタン、禅に没入。この間、力を蓄えたのは家臣の松永久秀。

桶狭間の戦い
織田信長が今川義元を尾張国田楽狭間に急襲し敗死させる。(5月)

松平元康(徳川家康)が岡崎城に帰る。(5月)

北条氏康が河越城に出陣、長尾景虎は上野国厩橋城に拠る。(9月)(※ここに11万の大軍を集結。北条は籠城戦に。)

信玄堤を作成。洪水対策。
1561   松平元康が織田信長と講和。(2月)

長尾景虎が小田原城を攻める。北条氏康は今川氏真・武田信玄の援軍とともにこれを防ぐ。(3月)

景虎が上杉憲政の譲りを受け、関東管領・上杉政虎となる。(閏3月)

第4回川中島の戦い。(9月)
1563   松永久秀、三好長慶の子、義興を毒殺。(8月)
1664   三好長慶没
1565   松永久通と三好義継が将軍義輝を室町邸に襲い、義輝自害。(5月)
1566   毛利元就が尼子義久を富田城に破り、毛利の中国統一が成る。(11月)
1567   松永久秀が三好三人衆を東大寺に攻め、大仏殿が焼ける。(10月) (※三好長逸、三好政康、岩成友通が松永久秀に反撃も失敗。)
1572   武田信玄死亡。

上杉謙信、越中を平定し、西は加賀・能登、北は出羽、南は信濃、上野に及ぶ大勢力圏を形成し、織田信長と戦火を交える最中、49歳で死亡。

つづきは【合戦の日本史】の項へ。織田信長の時代でもある。

【大内義興】

信長以前の最強大名は大内義興。

大内義興は戦国時代初期のキーマンのひとりであり、当時の最強大名の一角…というか戦国時代を通しても屈指の人物のひとりと言っていいだろう。彼の動きが畿内情勢を塗り替える。

恒例の家督争いを制し、九州では少弐氏を一時滅亡に追い込んだ後、前将軍・足利義稙を庇護した事がきっかけとなり、細川政元暗殺後の畿内の混乱に介入。足利義稙・細川高国との三頭体制を築き上げた。

晩年は独立色を強める尼子経久との戦いに注力した。

【将軍庇護】

1499年の年末、明応の政変(1493)以来各地を流浪していた「流れ公方」こと足利義稙(当時は義尹)が庇護を求めて山口までやって来た。大内家が西国屈指の大大名であるという事もあるが、これはそれ以上に義稙の出自に由来する部分が大きい。 かつての応仁の乱で西軍が将軍候補として据えた足利義視、その息子が義稙である。そして父・大内政弘は西軍の主力として戦った。明応の政変を起こした細川政元は東軍の大将・細川勝元の息子であり、応仁以来の対立・因縁が続いていたのだった。ちなみに前述の大友親治が大内家と激しく対立しているのも、政元らに政治的に接近した結果である。 そんな訳で縁の深かった大内義興と足利義稙は結託し、義稙を奉じての上洛を目指す事になった。 もちろん細川政元や彼に擁立された11代将軍・足利義澄もこの動きを黙って見ていた訳では無く、天皇の綸旨を取り付けて大友親治をはじめとした北九州の諸大名に大内討伐を命じた。亡命していた弟・大内高弘も討伐軍に参加している。朝敵にされてしまった義興であったが、元々の地力の差が大きかったのか、戦況は大内優位に進んでいった。 

1507年、細川政元が後継者を巡るドタバタから暗殺されるという大事件が起こる(永正の錯乱)。この混乱を好機と見た義興と義稙は、九州諸大名と和睦を結んで上洛を決行する。 (※大友宗麟は彼の娘の子。1530~)中国地方の諸大名・国人を従えた大内軍のメンバーは、尼子経久、吉川国経、毛利興元を初め、小早川・吉見・益田ら諸国人、大内譜代の臣である陶・内藤・杉らとまさにオールスターであった。安芸武田氏、村上水軍、備後山名氏なども協力している。 細川家の後継者となっていた細川澄元はこれに対して義兄弟である細川高国を使者として送るが、高国は自らが細川の後継者となる野心から義興たちに協力を申し出た

1508年には澄元・義澄は近江へと追われ、義稙は念願の将軍位に復帰、高国は細川京兆家の当主となった。義興としては自分の仕事は終わったと言いたいところだったが、澄元一派が畿内で反抗している情勢がそれを許さなかった。山城守護・管領代に任じられた義興は、しばらく畿内を転戦する事になる。

1509年、如意ヶ嶽の戦いで勝利して澄元一派を四国へと一時追い払う。

1511年に再び戻ってきた澄元派によって一時京都を奪われるが、船岡山の戦いで決定的勝利を収める事に成功した。この船岡山での義興の活躍は彼の数々の戦歴の中でも特に名高い。 船岡山の戦いと前後して足利義澄が死去した事もあり、澄元一派の勢いは沈静。幕府は足利義稙・細川高国・大内義興のトロイカ体制で運営され、一時的に安定した。しかし義興が長く本国を留守にしている間に、武田元繁や尼子経久が不穏な動きを見せ始める。

1518年、遂に義興は管領代の職を辞し、周防へと帰還した。これでバランスの崩れた幕府は義稙と高国の対立が悪化、澄元派も再挙兵するなど混乱の時代へと逆戻りし、わずか3年後に義稙は再び将軍位を追われる羽目に陥る。晩年は内部争いや尼子攻めなどに奔走。

1528年、陣中で急死。細川高国も1531年に失脚、殺害され、1534年に織田信長誕生。

【寧波の乱】

貿易を行っていたのは幕府だけではない。有力守護、寺社も行っていた。応仁の乱による幕府の衰退とともに、堺商人と結んだ細川氏、博多商人と結んだ大内氏の手に。主導権をめぐり両者が現地で争ったのが1523年の寧波の乱である。

大内義興(1477~1528)の正式な勘合を持参した遣明船3隻(300人余り)と、細川高国(1484~1531)の無効となった勘合をもった1隻が寧波に到着。細川側は明に賄賂を贈り、厚遇を得ることに成功したため、怒った大内氏が細川方や明の役人を殺害し、細川船を焼いた。

これにより、1551年に滅亡するまで大内氏が利益を独占した。

※1551年大内氏滅亡⇒勘合貿易中断⇒後期倭寇跋扈⇒豊臣秀吉の海賊停止令(1588年)

※寧波は上海よりも南。古来より日本からの船は必ずここへ。

※かつて、将軍とともに3人で体制を敷いていたのに…というが、よくよくみると細川vs大内とは、応仁の乱の焼き直しでもある。

【大内義隆】(1507~1551)

大内氏はこの時代において最強であった。本姓は「多々良」で百済系。陶隆房は大内氏の傍流であり、義隆とはもともとは衆道関係にあったらしい。しかし義息を戦争で失ってからその戦の総大将であった隆房との関係は悪化、以後、文芸にはまるようになり(元々は武芸者であった)、1551年の大寧時の変で陶隆房の謀反に遭い切腹。400年続いた大内氏は滅亡。しかし、陶隆房も1555年の厳島の戦いで毛利元就により滅ぼされる。もっとも貴族への献金の多さが国を滅ぼしたという意見も

【細川政元】

コチラの解説が秀逸。→ 【ピクシブ百科事典

細川勝元の嫡男として出生→勝元急死のため、8歳で家督相続→政権争いで幽閉生活を送った時期も→9代将軍義尚のもとで管領→ケンカ→次の将軍には義澄を主張→日野富子らの意見で義材(義尚長男に)→義材と不和→日野富子ら(義材と関係悪化)と結託して明応の政変(1493)、将軍すげ替え→勢力拡大→絶頂期、と思いきや、後継者争いに端を発した「永正の錯乱(1507)」で家臣により暗殺。

【北条早雲】

1456~1519年。伊勢盛時。京都から下ってきて、1493年、足利政知の死後、跡を継いだ茶々丸(~1498)を滅ぼし伊豆を奪い、以後、相模進出。氏綱の代で武蔵を征服、氏康の代には関東の大半を支配するように。

北条を名乗ったのは氏綱の代からであり、元々は室町幕府政所執事伊勢氏の一族とみる説が定説となっている。

♨1493年といえば明応の政変。なんて電光石火だ!

♨伊勢氏の一族、と思うといろいろが納得する。下剋上、と言っても百姓レベルから成り上がったわけではない。

寧波の乱の頃には既に死んでいる。戦国武将と言うよりは、1438年の永享の乱から続く関東の大動乱の帰結として見るべきであろう

【守護大名って何?】

「室町殿御分国」と呼ばれる45か国(全68か国のうち、奥州2か国、関東8か国、伊豆国、甲斐国、九州11か国を除いた国)の守護は在京しなければならない決まりであり、彼らのことを「守護大名」と言った。(よって、厳密には周防国守護の大内家などは守護大名ではない。)在京している守護大名は全部で21名であり、彼らのことは「二十一屋形」と呼ばれていた。(一方、その留守に分国を経営していたのが守護代。たとえば、斯波氏は分国の越前には甲斐家、分国の尾張には織田家を守護代として置いていた。大内家のように複数国の守護も守護代を置いていた。)

★守護の権利…「大番催促」(京都警備)、「謀反人の逮捕」、「殺害人の逮捕」という「大犯三か条」、おか押収行為の取り締まりである「刈田狼藉」、「半済」、関所や市場の税金などなど。

(※これを知らないと、何もわからない!)

【国人とは?】

一言で言えば、地方の在地領主。土地の有力者。多くの国人は武士化。たとえば毛利氏。荘園の管理者から力をつけて国人化。荘官から国人になったものもいて、いずれにしても荘園の管理者。

【足軽とは?】

略奪行為を本願としたものたち。装備らしい装備はなく、ひたすらゲリラ戦法。足軽を利用していた山名宗全ですら、足軽の狼藉を取り締まる制度を作るほど

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