~只今、全面改訂中~

こんにちは。

今回ご紹介しますのは、「南北朝時代第2期㉝:1364-5年」です。

 

斯波高経のもと、大内、山名ら南朝に与した武将たちが北朝に帰参したことで、中央では一時的に平和が訪れたかのように見えました。

しかし、斯波高経の専横的な態度は徐々に周囲との軋轢を生みます。

貞治3年/正平19年(1364年)年表

2/北朝方の一員として九州出兵していた大内弘世、(勝手に?)帰国

※北朝に帰参した手前、九州派兵に協力したが、本人の意志は石見国(島根県西部、当時、足利直冬がまだいた)制圧にあったよう
3/足利義満(7歳)、はじめて乗馬する

※管領・斯波義将の教育による
9/細川頼之、讃岐国より伊予国へ侵攻し、河野氏を攻撃

※当時、細川頼之は中国管領を手放した代わりに四国全域を分国としていた
※河野氏は、細川頼之と細川清氏の戦の際に、加勢を依頼されたものの呼応しなかったため、目の敵とされた
※細川頼之の領土的野心もあった
11/6河野通朝、自害

※伊予国当主・河野通盛の息子で前年から家督を譲られていた。
※侵略してきた細川頼之に対抗していたが、世田山城で討死。
11/26河野通盛、病死

※若い頃から足利尊氏とともに戦ってきた通盛であるが、最後は細川頼之に包囲されて病死
※河野氏は通朝の息子、河野通堯(当時15歳)に。
-/-石塔頼房、足利義詮に降伏

※当時、南朝に属していたが、大内氏や山名氏の帰順を見て北朝に投降
※かつては直義党として幾度も尊氏、義詮を追い詰めた
※その後は出家し、叔父である時宗の国阿に弟子入り、1413年(93歳)まで生きたとされる。
-/-「三条坊門造営」で赤松則祐、斯波高経へ恨み

※三条坊門に幕府の御所が造営されるにあたり、各守護に分担されたが、赤松則祐が担当した場所の工期が遅れたため、斯波高経が赤松則祐の所領を一部没収。

貞治4年/正平20年(1365年)年表

5/10河野通堯、征西府に帰順

※1月には細川方の城を落とすなどしたが、結局敗北。九州の懐良親王に救けを求める
8/鎮西管領に渋川義行(18歳)が就任

※足利義詮の妻、義満の養母である渋川幸子の甥※1度に九州に入ることもできなかった
-/-「五条大橋造営事業」で佐々木道誉、斯波高経に恨み

※五条大橋の造営奉行となった佐々木道誉は京都の家々から「棟別銭」を集めていた
※しかし、斯波高経は「造営が遅い」として自らの出費により数日のうちに造営してしまった
※佐々木道誉はメンツを潰された格好となり、斯波高経に強い恨みを抱く
(何月くらいのできごとかはわからず)
足利義詮
斯波高経が政権に加わってくれたことで、やっと平和になった!
佐々木道誉
うーん。。。しかし、ちょっとやりすぎじゃないでしょうかね。。。
赤松則祐
私は工事が遅れて所領を削られました!あいつ、一族を要職に置いて、やりたい放題ですわ!ムカムカ!
佐々木道誉
いやー、私も五条大橋の件でメンツを潰されましてね。はらわた煮えくり返ってるとこなんですわ。最近、勢いに乗ってる細川さん、どう思います?
細川頼之
どもー。山名さんと中国地方で争うのは得策でないので、四国統一に力をいれることにしました細川です。佐々木さん、私の力が必要でしょうか?
斯波高経
なんかごちゃごちゃ言ってる奴もいるみたいだが、わが斯波家は将軍家の一族で、将軍家に匹敵する家格でもある。義将と春王さまも仲良いみたいで何よりじゃ。
斯波義将
春王くん(足利義満)!、今度は乗馬のやり方を教えてあげるっ!!武士たるもの、馬に乗れないとね!!
春王(7歳)
わーい、っていうか、僕、才能あるでしょ!
石塔頼房
直義さまのもとで、その後は南朝に属して戦いに明け暮れた前半生でしたが、これからは自分のやりたいことをやりますわ。