~「もう一つ上の日本史」出版に伴い、勉強方法も変える必要が出たので、全面改訂突入します~

☞【1420年前後の日本社会!】『大飢饉、室町社会を襲う!』(清水克行、2008年、吉川弘文館)

やっぱり室町時代は面白い。

以下、読書メモと雑感。

<いま、飢饉を考える>

1420年、応永の大飢饉。

★この時、一休宗純27歳、カラスの鳴き声を機に悟りの境地に。

世阿弥元清、これを境に精力的に執筆活動。

雪舟産まれる。

★未曾有の大飢饉に際して、室町文化人は光を求めた。

<謎の異国船襲来>

1419年、応永の外寇

★227艘の大船団で、李氏朝鮮の正規軍。倭寇の本拠地を対馬と定めて攻撃したが、最終的に対馬軍に撃退された。

※この時期、島主が幼少であったため、倭寇も派手に略奪し過ぎたのも李氏朝鮮が攻撃した一因か。

★しかし、京都では「蒙古が攻めてくる!」という怪情報が流れた。

♨伝言ゲーム以下の伝播力のおかげで敵のイメージは肥大化。いつの間にか「奇跡の大勝利」になっている。

※疫病の恐怖も。

<室町人の死と生>

★中世は寒冷化により慢性的な低生産、飢饉が頻発していたという説があるが、そう決めつけるのはちょっと乱暴。ただ、「室町時代は農業生産が拡大した」と言う通説も見直しが必要。

※さらに、物価を上げ下げする悪徳商人連中も横行。

★古米の方が高い?

…事実、東南アジア、南アジアでは古米の方が白米より値段が高い地域もある。古米の方が水分が抜けている分、水を吸収して膨れるからで、なんでも新米の1.2~1.3倍になる。

★産褥死は1/6くらい?

…さらに13歳から48歳までが生殖年齢であったと言われる。

♨ちなみに足利尊氏の母は36歳の時に尊氏、38歳の時に直義を出産と意外に遅め。

※現在(2008年)、アフリカ南部では産褥死が6%くらいあるという。

★中世の男女比は?

…日蓮の書によれば、男200万人、女300万人と女性の方が1.5倍多い。人数は架空の数字であろうが、比率は正しいか。

外国人が日本について書いた本にも「女性が多い」ことが書かれている。さらに嬰児殺しにより男児が殺されていたことも記されている。女性はいざとなったら有力者の妾や愛人となることができるからとされているが、実際のところ、どっちが重宝されたのかは定かではない。

<なぜ巨大飢饉は起きたのか?>

「応永の平和」と謳われた義持時代は「公武統一政権」で、武士と朝廷のはざまで大変だった。これは室町幕府がずっと抱えた問題であり、農民にとっても公家の他に武家からの課役にも応じないといけなかったので大変。公家と武家は荘民支配という点で協力。荘園における逃散に対して守護が出向いたりしている。これが実態

★想像以上に室町人は物価などに敏感。物流・ヒトは京都へ集中。これは地方に打撃。

♨一方、「当座絵」という暴飲暴食による嘔吐がもてはやされるほど、首都はひどかった。

<足利義持の徳政>

老松堂日本行録」(1420年)

…朝鮮王朝の使者である宋希璟による。当時、日本と明・朝鮮の関係は最悪であったが、彼が義満の命日に当たり魚を食べなかったことで義持も心を開き、ようやく朝鮮が本土に攻め込む意思がないことが伝えられた。

★とはいえ、義持は父・義満と決して仲良くなかった。9歳の頃から将軍に就けられ、物心ついたときは既に傀儡政権であり、性格も義満とは正反対で内向的。さらには弟の義嗣の方がかわいがられるなど。23歳の時に義満が死亡したが、以後、義満の太政法皇号は破棄、北山第も破却、日明貿易も断交。

★花押で「慈」と字を用いたように自分の政治理想を表明したのは義持が最初とのこと。高度にスピリチュアルな形で禅を学び、禅と政治の融合を目指した。僧には禁酒令も出す。(1419年。これには逃げ出すものも。)

★1420年、宝幢寺建立に際しては、嵯峨一帯に禁酒令が出された。当時、嵯峨は一大酒屋地帯であり、俗人まで及ぶ。

★その後、矢継ぎ早に第3次、第4次禁酒令が出される。息子の義量は当時16歳、彼にも禁酒命令(アルコール中毒であったかどうかは定かではないが)が出される。麹は専売制だったので禁酒政策で困るのは幕府であったのだが、これは飢饉時における酒造りによるコメの消費を心配してのことか?(そう考えると、さすが?もっとも、それより「徳政」の1つと考えるべき?)

★ところが、実際はなかなか不評。というのは、かの義持自身が快楽主義者で大酒飲みであったから。(!!)

<荘園と町の飢饉習俗>

★雨乞いも徳政も実らず。百姓は損免要求。

♨鹿王院…寺院の従者と輿担ぎのものがケンカして刺し違える。義持、青ざめて後にする。

<難民は首都をめざす>

中世の人々は春に多く死ぬ、というデータがある。つまり初夏の麦の収穫を待てずに。

難民は首都をめざした。寛正の大飢饉時もそう。(現代と同じ!)

★しかし、京都は物価高。京都のモノもなくなり、京都住人も多数餓死。そして疫病蔓延。朝廷は五条天神社という神様を『流罪』に都市は「蟻地獄」に。ダメとわかっていても向かってしまう。有徳人(酒屋土倉)がいたから?

「15世紀は有徳人の世紀」ノブリス・オブリージュは有徳人にも求められていた。(武士道でもそれが求められているが、これは経済状態が良好で初めて成立する。もっとも、室町当時のものはそんな悠長なものではないが。)→当然、暴力的な要求も

♨1482年、天龍寺の施餓鬼のおりに、嵯峨の人々が大げんか。これを寺が取り締まったところ、嵯峨人が恨み、寺に入って僧を殺害、清凉寺の門に晒す。

♨「百万遍念仏」、「今出川家の惨状」など。

乞食と盗賊海賊は紙一重。了承を得るのが乞食、得ないのが盗賊海賊。当時、盗賊はわざと「乞食」です、と刀剣をちらつかせて言った。今昔物語の時代からそれ。

★1428年正長の土一揆でもそうだが、有徳人に無理やり徳を発揮させようとした応永の大飢饉を経て、室町人はよりたくましく。これが歴史的意義かと。(それ以前は為政者が一方的に施すものであった。)

★1428年、義持は爪でひっかいた傷からばい菌が入り、43歳で死亡。満斎によれば、後継者を指名しなかったのは「男児にめぐまれる」という籤を信じてのことというが。

<大飢饉の後に>

★百万遍念仏踊りから月次念仏踊り(跳り)が盆踊りの起源。「村」が明確にできたのも意義深い。以後、荘園ではなく、村・町を単位として展開していく。(そして、現代は「村」の危機)

暴力、飢え、信仰が中世人を語るうえで大きな違い。

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★「応永時代」は長く、そのほとんどが4代将軍、足利義持時代。1419年の「応永の外寇」、1420年の「応永の大飢饉」は知っておきたい。

★「応永の外寇」の頃は、対馬島主が幼年であったこともあり、倭寇が荒れていた時代。倭寇の本拠地を対馬と考えた李氏朝鮮正規軍は大軍をもって対馬に攻め込んだが、返り討ちにされた。

★「応永の大飢饉」の歴史的意義としては、室町人がよりたくましくなったこと。「村」というものもこの時期あたりから誕生していく。「日本開白以来、土民の蜂起之初めなり…」で名高い「正長の土一揆」は1428年。1420年、一休、世阿弥はそれぞれの道へ進み、雪舟はこの世に生を受けた。

★1428年は、6代将軍に足利義教が就任した年でもある。当初、一揆は、代替わりに「徳政」を求めるため行われたが、次第に年中行事へとなっていく。

【地侍】

有力な農民は、荘園領主や地頭を通り越して守護大名と直接主従関係を結び、「地侍」という身分を獲得。のち、庄屋へとつながる

<一揆>

江戸時代の百姓一揆のイメージが強いが、これとは違う。「揆(みち)」を一つにするという意味で、連帯と平等が基本。一味同心が精神、一味神水が儀式。起請文を焼いて灰と神水を混ぜて回し飲む儀式を行う。

国人(地頭で領主層に成長した者)の指導する地域的な一揆を「国人一揆」とも呼ぶが、一揆とは団結した集団を指し、「国人一揆」の他にも、「土一揆」、「馬借一揆」などが知られる。中世では個々の力ではなしえない目的を実現するために宗教もたびたび利用された。 

①正長の土一揆(1428)「日本開白以来、土民蜂起是れ初めなり」(近江の馬借一揆にはじまる)

②播磨の土一揆(1429)「侍をして国中に在らしむべからず」

③嘉吉の土一揆(1441)「代始めに此の沙汰は先例と称す」

④山城の国一揆(1485)「今度両院の時宜を申し定めん」

⑤加賀の一向一揆(1488)「百姓の待ちたる国のやうになり行き候」

<正ちゃん はりきり 柿食って 山の かかしと 一向一揆>(石黒先生)

 
 

倭寇について

高麗は前期倭寇によって滅ぼされたというくらい被害にあった。朝鮮半島だけで400件の襲撃を受けた。倭寇の内実は極めて多様。
後期倭寇は勘合貿易中断(1551年)後、王直(~1559)ら中国人を中心に活発。秀吉の海賊停止令まで続く。
【倭寇】
前期倭寇⇒高麗滅亡⇒李氏朝鮮⇒応永の外寇⇒三浦の乱⇒後期倭寇⇒秀吉の海賊停止令
1368年 明が建国
1392年 李成桂(1335~1408)が李氏朝鮮を建国。
1419年 応永の外寇(朝鮮の目的は倭寇の撃滅にあるというが…、実質は対馬侵略を試みて?宗家にぼろ負け。)
1443年 癸亥条約(きがいじょうやく:宗氏と朝鮮の間)
1510年 三浦の乱(これにより日朝貿易はふるわなくなる)
1523年 寧波の乱で大内氏が細川氏に勝利【さらに詳しく
1551年 大内氏滅亡で勘合貿易中断
1559年 王直捕殺で後期倭寇は衰えを見せる
1588年 豊臣秀吉の海賊停止令で倭寇は後を絶つ。