~只今、全面改訂中~

こんにちは。

今回ご紹介しますのは、「“憲政の常道”と呼ばれた時代の歴代首相の覚え方」についてです。

「憲政の常道」とは、

「二大政党下で衆議院第一党の党首が組閣する。

失政による総辞職の場合、野党第一党の党首に政権交代する。

首相の死亡等による総辞職の場合は与党から後継首相を出す」
 

「満州建国の真実」よりp81「憲政の常道」

というものです。

ですので、

死んだのか、失政したのか、

失政なら何があったのか、

を抑えることで、

この時期の首相は実は簡単に覚えられます。

それとはまた別に、一字も無駄のない「語呂合わせ」もありますが・・・

【年表】加藤高明首相就任(1924年6月)~五一五事件(1932年5月)

立憲政友会憲政会(民政党)
1924.5.10第15回衆議院議員総選挙で100議席獲得(※政友本党116、革新倶楽部30)第15回衆議院議員総選挙で151議席獲得
1924.6.11加藤高明、首相就任
(護憲三派内閣)
1925.8.2加藤高明、改造内閣
(憲政会内閣)
1926.1.28加藤高明、病気急逝
1926.1.30若槻禮次郎、首相就任
1927.4.17若槻禮次郎、枢密院が「緊急勅令案」反対したため総辞職
1927.4.20田中義一、首相就任
1928.1.21第16回衆議院議員総選挙で勝利
1929.7.2田中義一、「満州某重大事件」の事後処理を巡って昭和天皇から叱責を受け総辞職
1929.7.2浜口雄幸、首相就任
1930.1.21第17回衆議院議員総選挙で勝利
1931.4.14浜口雄幸、病態悪化で辞任
1931.4.14若槻禮次郎、首相就任
1931.12.13若槻禮次郎、「閣内不一致」で総辞職
1931.12.13犬養毅、首相就任
1932.1.21第18回衆議院議員総選挙で勝利
1932.5.15犬養毅、五一五事件で暗殺。
海軍穏健派の斎藤実が首相就任

(※1)加藤⇒若槻(第1次)

これは死んだのだから、文句なしですね。

内務大臣だった若槻禮次郎が就任します。

(※2)若槻⇒田中

ここで初めて「憲政の常道」に基づき政権交代が行なわれました。

しかし、この原因は「金融恐慌」、というよりは枢密院を巻き込んだ「政争」というのが現在の見方です。

(「戦争とファシズムの時代へ」より)

(※3)田中⇒浜口

張作霖爆殺事件」(日本では「満州某重大事件」)の責任追及の甘さを昭和天皇に叱責されまして、田中義一内閣は総辞職しました。

「失政」が原因ですので、民政党に移ります。

ちなみに政権が変わったら、すぐに解散総選挙することが多いのですが、いろいろと選挙を有利に進めることができるので、「必ず与党」が勝っております。

(※4)浜口⇒若槻(第2次)

浜口が銃で撃たれた事件(浜口首相遭難事件)で、一時的に幣原喜重郎外相が総理を兼ねました。

しかし、失言等もあり、議会が混乱したため、病身をおして浜口首相が復帰します。

ところが、無理がたたったのか、病状が悪化したため辞任せざるを得なくなりました。

今回は、病気ですので、同じ党内から選ばれました。

本人は断ろうとしましたが、紆余曲折を経て再び若槻禮次郎が首相となります。

(※5)若槻⇒犬養

「若槻禮次郎」と来たら「失敗フラグ」が立ちますね・・・

若槻内閣の時代に「満州事変」が勃発します。

若槻内閣は不拡大を宣言するも、軍糧の予算を認めてしまったりちぐはぐな対応を行ないます。

なおも拡大する陸軍に対して、安達謙蔵内相は立憲政友会と合同内閣で立ち向かうことを提案しました。

これに対して井上準之助蔵相や、幣原喜重郎外相は、「政策が違うものが組んだらダメになる」「憲政の常道に基づかない」などの理由で反対。

当時は首相の権限が低く、「閣内不統一」も総辞職の原因となりましたので、これにより第2次若槻内閣は総辞職しました。

若槻は再度、大命降下されると思っていたようでしたが、選ばれたのは政友会・犬養毅でした。

(井上、幣原を一度休ませる、という目的もあったよう。)

(※6)犬養⇒斉藤

しかし、「五一五事件」で犬養毅暗殺。

「憲政の常道」に基づいて、「首相死亡」であれば次は立憲政友会から出ます。

政友会総裁・鈴木喜三郎は「その気」でいました。

しかし、元老・西園寺公望は海軍穏健派の斎藤実を首相にしました。

【西園寺が斉藤を首相にした理由】

①政友会を選べば陸軍が反対する

(実際に、鈴木貞一、永田鉄山が陸軍を代表して反対意志を示す。世論も反対するであろう。)

②政友、民政、軍部の「挙国一致内閣」を作るとすれば斎藤実であれば陸軍もOK。

(森恪は鈴木喜三郎を首相に考えていたが、陸軍は斎藤のみ認める意思表示)

③陸軍の意向は荒木貞夫or平沼騏一郎であるが、天皇が反対

荒木貞夫は、五一五事件に少ないながらも士官候補生が加わっていたことで責任問題が生じて脱落、

平沼騏一郎(枢密院副議長)は、天皇が「ファッショに近きものは絶対に不可なり」ということで脱落。

結果的に、斎藤実が首相に就任。

「憲政の常道」は潰える、という結果になりました。

「憲政の常道」がダメだった点

日本だけに限らないことですが、野党の目標が「与党の足を引っ張ること」になってしまうことです。

田中義一内閣時代に「パリ不戦条約」に参加しました。

しかし、この条約調印に反対したのが、それまで民政党です。

(「協調外交」なんていうのは「名のみ」ですね。)

歴代首相覚え方:憲政の常道編

わっ(さ)
加藤若槻田中浜口若槻犬養(斎藤)

この語呂合わせはスゴイと思います。問答無用で覚えてください。