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☞【張作霖を殺したのは誰だ?】「張作霖爆死」(『満州建国の真実』:§3d』)

こんにちは。

今回ご紹介しますのは、「張作霖爆殺事件」についてです。

爆殺事件の主犯は関東軍高級参謀・河本大作が爆殺事件の主犯と言われておりまして、それで決着しているものかと思っていました。

しかし、「河本大作が罪を被っている説」というのもあるようで、これはこれで「面白い」と思いました。

以下、「満州建国の真実」(鈴木荘一、2018年)を参考にさせて頂きました。

【年表】張作霖爆殺(1928年6月)~張学良による楊宇霆暗殺(1929年1月)

1928.6.4張作霖爆殺事件(※1)
1928.6.8蒋介石、北京入城(北伐完了)
1928.12.29張学良、蒋介石への服従を宣言
1929.1.10張学良、楊宇霆および鉄道大臣・常蔭槐暗殺(※2)

(※1)張作霖爆殺事件

張作霖は暗殺を防ぐために車両間を移動しておりました。

しかし、満鉄線の陸橋をくぐる際に列車が急減速します。

そして、張作霖の乗った列車が陸橋の真下に入った瞬間、爆薬が爆発し、列車が炎上。

張作霖の乗った列車は落下した陸橋に押し潰されて爆発、炎上、張作霖は圧死しました。

関東軍高級参謀・河本大作が計画したといわれて降ります。

【河本大作】(こうもと だいさく:1883~1955)
兵庫県出身。陸軍士官学校15期、陸軍大学校26期。日露戦争にも従軍。張作霖爆殺事件の首謀者として知られる。

【誰が張作霖を殺したか?】

①関東軍説。

当時、張作霖は満鉄に並行路線を引いておりました。

そんなことされたら怒りますよね。

②ソ連説。

大使館を蹂躙されたことを恨みに思って。

実際にそういう小説を書いた人がいるようですが、現在ではこれは否定されているようで・・・。

③国際プロジェクト説。

ソ連にとっては満州を共産主義国家にしたいので、張作霖も関東軍も邪魔。

そこで、張作霖に恨みをもつ杜立山や張榕らの遺臣、親族を巻き込んでのプロジェクトを画策した、という説。

まあ、ネタとしては面白いのですねー。

④楊宇霆説。

楊宇霆は張作霖の腹心として、ライバルの郭松齢を討ちましたが、郭松齢死後は自分が各種戦闘に引っ張られて疲弊することになります。

(ようやく郭松齢の気持ちがわかった。)

交戦意欲の強い張作霖を排除して、自身が満州を治めることでソ連、日本、蒋介石とも協調していきたい、と思うようになって、犯行に及んだ、という説です。

楊宇霆は日本の陸軍士官学校で学んでおり、ここで河本大作とも接点があったのでしょうか。

楊宇霆
「自分は郭松齢のように反日ではない。日本と協調してやっていきたい。」
河本大作
「わかった。主君殺しの汚名を着てはうまくいくまい。私の仕業として処理してやる。」

というようなやりとりがあって、「河本大作が罪を被った」という説です。

(※2)張学良による楊宇霆暗殺

張作霖の後継者は、息子の張学良(1901~2001)、楊宇霆(1886~1929)のほか、古参の呉俊陞(ご しゅんしょう:1863~1928)が候補でした。

しかし、呉俊陞は張作霖とともに爆死。

張学良はアヘン三昧であったため楊宇霆が有力候補ではありました。

しかし、張作霖死後、張学良が父の葬儀を営むなど中心的存在となり、さらに蒋介石への服従も宣言しました。

そして、1929年1月、楊宇霆と鉄道大臣・常蔭槐(じょう いんかい)を

張学良
麻雀しよー

と誘います。

そして、楊宇霆らが来ると、

射殺。

(お父さんと同じ手口だな・・・)

こうして、張学良は邪魔者を消したわけですが、実は張学良は楊宇霆の謀略を察知しており、鉄道大臣とともに楊宇霆を父の敵として殺した、というわけです。

楊宇霆
麻雀やりたかったのに・・・

楊宇霆と日本のつながりを知った張学良は日本陸軍の反発を警戒したため、蒋介石と共産党両方に接近した、という風聞があるようです。

(もっとも、鈴木荘一先生ご自身、この風聞を否定する論拠も、肯定する論拠も持っていないとのことではありますが。)

ホントかどうかわかりませんし、こういう説に惑わされるなとも言われますが、実に面白い説だとは思います。

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