こんにちは。
今回ご紹介しますのは、1928年の「張作霖爆殺事件」です。
コチラ(↓)の本も参考に致しました。
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張作霖爆殺事件
1928年6月4日、奉天軍閥の首領、張作霖の乗った電車が爆発。
首謀者は関東軍。
欧米資本で満鉄の横に線路引きやがって!
より深く知るには、当時の中国の状況を知っておくべきでしょう。
というわけで、辛亥革命から、第1次山東出兵までの「年表」を。
北も南も分裂していたアルよ。
【年表】辛亥革命~第1次山東出兵、東方会議(1911年~1927年)
1911年10月 | 辛亥革命勃発 結果的に北京に拠点を置く政権と広東に政権を置く政権が分立する状態となった。 |
1912年3月 | 袁世凱が実権を握る 清朝の直隷総督、北洋大臣を歴任した袁世凱は清朝皇帝退位と引き換えに孫文から中華民国臨時大総統の地位を得て、北京に政府を開く。 |
1915年1月 | 対華二十一か条の要求 |
1915年5月 | 対華二十一か条の要求を承認 |
1916年6月 | 袁世凱死去 以後、袁世凱政権で陸軍総長を務めた段祺瑞(安徽派)と新たに副総統に就任した馮国璋(直隷派)が対立。これに張作霖(奉天派)が加わって三派が対立する状況となった。 ※段祺瑞は日本から「西原借款」を受けましたね。 |
1917年9月 | 孫文、広東に政府設立 護法運動(北京政府打倒の動き)開始。 (→1918年11月、双方とも休戦命令) |
1919年10月 | 中国国民党設立 活動休止中であった孫文の中華革命党が中国国民党として活動再開。 |
1919年12月 | 直隷派の馮国璋死去 曹錕、呉佩孚らが直隷派を掌握する。 |
1920年7月 | 安直戦争 安徽派と直隷派の戦争で直隷派が勝利。 |
1921年5月 | 広東政府が中華民国を名乗る 孫文は非常大総統を名乗る |
1921年7月 | 毛沢東ら、中国共産党設立 (@上海) |
1922年4月 | 第1次奉直戦争 奉天派と直隷派の戦争で直隷派が勝利。 |
1924年1月 | 第1次国共合作 中国国民党は「連ソ」「容共」「扶助工農」の基本方針を決定。共産党員の国民党入党を認める。 |
1924年9月 | 第2次奉直戦争 奉天派と直隷派の戦争で奉天派が勝利。 |
1925年3月 | 孫文死去 (12日) 蒋介石、汪兆銘らが実権を掌握。 |
1925年5月 | 五三〇運動 (30日) 各地で反帝国主義運動 |
1926年1月 | 加藤高明急逝に伴い、若槻禮次郎内閣発足 (30日) |
1926年3月 | 中山艦事件 (20日) 蒋介石、軍内の共産党勢力を弾圧。 汪兆銘は失脚し、フランスに亡命。 |
1926年7月 | 蒋介石、北伐開始 (9日) 北伐軍=国民革命軍。 |
1926年12月 | 大正天皇崩御 (25日) 「昭和」がはじまる。 |
1927年3月 | 南京事件 (24日) 北伐軍は南京入城に際して各国の領事館や学校などを襲撃して掠奪を行なう。日米英仏伊は損害賠償を求めるが蒋介石は自分たちの仕業ではない(共産党の仕業)と支払いを拒否。 日本国内では若槻内閣の外交姿勢(不介入)を批判する声が高まる。 ※片岡直温大蔵大臣の失言を引き金に金融恐慌(14日) ※汪兆銘は左派を中心として武漢国民政府を設立(21日) |
1927年4月 | 蒋介石、上海クーデター。 (12日) 南京国民政府設立 (18日) 上海で共産党幹部を銃殺するなどのクーデターを起こし、南京国民政府設立。 若槻内閣総辞職、田中義一内閣誕生 (20日) 田中義一は陸軍軍人から政友会に入党。長州閥のリーダーでもあり、官僚、軍部、貴族院などにも人脈を持つ(選挙に強い)。また、シベリア出兵の機密費を掌握?して資金も豊富。 高橋是清を大蔵大臣に任命し、モラトリアムを施行。 |
1927年5月 | 第1次山東出兵 (28日) 金融恐慌が一段落したため、北伐軍が迫っていた山東に関東軍2000人を派兵。(7月には新たに2200人増派) 蒋介石は反共クーデターもあり、北伐を中断したため、8月には引き上げ。 |
1927年6月 | 東方会議 (27日) 森恪が主導する形で対中政策を討議。 7月7日、「対支政策綱領」発表。 1)地方政権分立を容認 2)統一の機運があれば列国とともにこれを支援 3)共産党勢力、反日運動には現地政権の対応を期待 4)しかし、帝国の権益、在留邦人の生命財産が侵害された場合は必要に応じて自衛の措置をとる 5)満蒙は重大だが、諸外国にも門戸を開放 6)東三省における日本の特殊地位を尊重する政権を支持する(つまり張作霖支持) 7)東三省における日本の権益が侵害される恐れが生じたら適当な措置を講じる(つまり蒋介石の北伐を認めない) |
1927年9月 | 汪兆銘、南京国民政府に合流 (6日) 武漢国民政府は共産党と訣別。 この時点で、張作霖の「北京政府」、蒋介石の「南京国民政府」、華中・華南で再起を窺う「中国共産党」という勢力配置となった。 |
共産党はさらに南へ逃げ、国民党は「北伐」へ向かうわけだな。
反共クーデターにより蒋介石は北伐を中断しておりましたが、張作霖と対立していた北方軍閥の閻錫山、馮玉祥と手を組んで1928年2月に北伐を再開します。
さらに詳しくはコチラ↓
【年表】第2次山東出兵~張作霖爆殺事件(1928年)
1928年2月 | 蒋介石、北伐再開 |
1928年3月 | 木曜会第5回会合 東条英機も参加。「満蒙領有論」を展開。 中国もアメリカも満蒙に国力を賭して戦わないであろうとの判断。英国とは軍事以外の方法で解決可能と考えていた。 ※木曜会は二葉会と合流して一夕会となる。 |
1928年4月 | 第2次山東出兵 (19日) 山東半島に迫る北伐軍に対して居留民保護を目的に山東出兵。 第6師団(熊本)5000人が派兵され、済南に到着した。 |
1928年5月 | 第3次山東出兵 (8日) 日本軍と北伐軍が戦闘となったため(済南事件:3日)、日本は関東軍、朝鮮軍、第3師団(名古屋)から15000が増派(第3次山東出兵)。済南城を占領する。 日本軍は謝罪と損害賠償、安全保障を国民政府に要求。国民政府は応じず、交渉は難航する。 ※この間に、北伐軍は山東省の占領を断念して張作霖のいる北京へ進軍する。田中内閣の憂慮は戦闘の余波が長城を超えて東三省(≒満州)に飛び火することであった。(→日本の権益が危険になる) つまり、張作霖が敗走して奉天に逃げ込み、北伐軍がそれを追撃してくる事態を避けたかった。 |
1928年6月 | 張作霖爆殺事件 (4日) 当初は抵抗していたが、張作霖は「一刻も早く北京を離れよ」という日本の勧告に従い全軍撤退。 しかし、奉天郊外にて張作霖の乗っていた列車が爆破され、張作霖死去。 陸軍省はこれを北伐軍のゲリラの仕業と調査結果を発表した。 しかし、実際は関東軍の河本大作の主導によるものであった。これは日本政府にとっても衝撃。 ※河本大作は一夕会のメンバーである。一夕会は満蒙領有論をもっていた。【一夕会主要メンバー:コチラ】 |
とは後に首相になった私の述懐。
この頃から既に徴候が表れていますね・・・。
張作霖爆殺事件の意味
当時、中国政策をめぐっては4つの構想が存在していました。
1)「満蒙特殊地域論」(田中義一、政友会)
長城以南については国民政府による統治を認めるが、長城以北の満蒙は日本の権益を維持する、そのために張作霖の勢力を温存して利用するという考え。
2)「国民政府全土統一容認論」(浜口雄幸、民政党)
満蒙を含めた中国全体を国民政府が統一支配することを容認すべきだとする考え。
3)「満蒙分離論」(関東軍)
張作霖を排除し、満蒙は日本の実権掌握下で自治的独立政権を樹立するという考え。
4)「満蒙領有論」(陸軍中堅幕僚層、一夕会)
あらゆる中国側の権力を排除し(武力解決も含む)、満蒙に日本の政治権力を確立することを目指すという考え。【コチラも】
これらを考えますと、つまり、「張作霖爆殺事件」は張作霖爆殺事件は
田中首相の「満蒙特殊地域論」に対して、
関東軍が実力行使を起こしたもの
と見ることができます。
その時、日本が資源国かどうかはすごく重要なのですよ。
張作霖爆殺事件「その後」
陸軍、および田中義一はこの事件をうやむやにして終わらせようと思いましたが、野党・民政党から追及。
しかし、何より厳しかったのが昭和天皇でした。
田中義一は昭和天皇に真相解明、責任者の処罰を約束していましたが、約束をうやむやにしようとし、
さらに世間にも「陸軍の関与はない」と発表しようとしたため、国民を欺く気かと激怒されました。
【年表】張作霖爆殺事件後~張学良国民党合流(1929年)
1929年1月 | 民政党が議会で張作霖爆殺事件を追及 (25日) |
1929年3月 | 山東省の日本軍撤兵 (28日) 謝罪要求、損害賠償請求も撤回。済南事件解決文書調印。 |
1929年7月 | 田中義一、辞任 (2日) 昭和天皇の怒りを聞いて決断。浜口雄幸内閣成立。 |
1929年9月 | 田中義一、失意のうちに逝去 (29日) |
1929年10月 | 世界恐慌はじまる (24日) |
1929年12月 | 張学良、国民党に合流 (29日) |
張作霖の息子は、国民党に合流することを決断しました。
(しかし、満州の独立状態は維持されることを認めさせる。)
【まとめ】
★張作霖爆殺事件は関東軍の首謀で行われた。
★当時、蒋介石の北伐が進行していた。張作霖は劣勢であった。張作霖が東三省に逃げ込んで、それを追った北伐軍が東三省に攻め込んでくると、日本の東三省における権益がなくなってしまうことが懸念された。
★田中義一らは張作霖を温存する考えをもっていたが、現地の関東軍は張作霖を信用しておらず、張作霖に代わる親日政権樹立を目論んだ。そのため、中央に相談せずに実行に至る。