~只今、全面改訂中~

こんにちは。

今回ご紹介しますのは、「ロンドン海軍軍縮条約」とその後の「統帥権干犯問題」についてです。

「ロンドン海軍軍縮条約」

…1930年。浜口雄幸内閣時代。
世界的な軍縮の流れに対して結ばれる。
海軍は「統帥権干犯問題」を持ち出して対抗。

天皇機関説問題」の遠因にもなります。

昭和史講義の『第4章 ロンドン海軍軍縮条約と宮中・政党・海軍』(畑野勇先生、2015年)および『戦争とファシズムの時代へ』(河島真先生、2017年)を参考にさせて頂きました。

【年表】ロンドン海軍軍縮会議開催(1930年3月)~浜口首相銃撃(1930年11月)

1929.7 浜口民政党内閣誕生。
1930.3 ロンドン海軍軍縮会議

ワシントン海軍軍縮会議では主力艦の保有総トン数が決められたが、ロンドンで補助艦(巡洋船、駆逐艦、潜水艦など)の保有総トン数が議題となる。

日本は若槻禮次郎を首席全権、財部彪海相を全権として派遣。(※1)

結果、巡洋艦は実質7割が達成、潜水艦はアメリカも減らすことで決着した。

問題は「補助艦全体の総トン数」であり、アメリカの国内事情(上院の強硬姿勢)を考慮して対米6.975割で決定。(※2)
1930.4 ロンドン海軍軍縮条約締結

しかし、野党・政友会が倒閣の手段として「統帥権干犯」を唱え、軍令部を煽る。

加藤寛治軍令部長、東郷平八郎、伏見宮も条約破棄を主張しだす。(※3)
1930.6 人事異動で加藤軍令部長が交替。

のち、条約締結派の山梨、堀も更迭され、喧嘩両成敗となった。
1930.10 ロンドン海軍軍縮条約批准 (※4-5)
1930.11 浜口首相は統帥権干犯に憤激した右翼青年に狙撃されて負傷。

幣原喜重郎が首相代理に。
1931.9 満州事変

(※1)主席は若槻禮次郎・・・

この人の名前が出てくると、「失敗するフラグ」「混乱するフラグ」が立ちます・・・。

(※2)一度は対米6.975割で落ち着く

浜口内閣は、

①会議が決裂した場合、英米との関係が急速に悪化する可能性

②金融面で英米の必要が不可欠であった点

(日露戦争の外債の借り換えにも英米との協調が不可欠であった)

③金解禁と連動する緊縮財政政策においても軍縮は不可欠、決裂したら軍事費膨張となる可能性大

より、目標の対米7割でなかったにも関わらず決定しました。

対米7割を原則としていた加藤寛治軍令部長、末次信正次長らは反対を表明しましたが、軍令部と政府の意見が異なることで昭和天皇が一方の側に立つことを憂慮して上奏は中止しました。

山梨勝之進、堀悌吉ら「条約派」は国家大局上、軍縮はやむなしと考えていました。

東郷平八郎元帥も伏見宮博恭王もこの時点では「政府に従うべき」としていました。実を言うと、「対米7割」にもさしたる根拠はありませんでした。

(※3)軍令部が煽られる

条約反対派の急先鋒・海軍軍令部長・加藤寛治は、会談を経て政府の方針を黙認する姿勢を見せていました。

これを政局がらみの問題に発展させたのは政友会です。

既に矛をおさめようとしていた軍令部を煽り、内閣打倒を目指しました

これに「艦隊派」、「枢密院・平沼騏一郎のグループ」も加わります。

(※平沼と森は関係が深い。)

加藤寛治は攻勢に転じます。

当初は対米7割を問題としていましたが、以後は軍令部の同意を得ない条約締結が天皇の統帥権に抵触することを問題としました。

※岡田啓介(軍事参議官)、山梨勝之進(海軍次官)ら「条約派」は国力充実のためには外債を募集せざるを得ないが、その引き受け手はアメリカ以外に考えられず、アメリカとの戦争は不可能と考えていましたが、加藤はアメリカと戦争できるためにも軍拡、と考えていました。

森恪。鈴木喜三郎では統帥権干犯を持ち出すようなキレはなかったであろうから、彼ではないか?

「統帥権干犯」という言葉は北一輝が編み出したとも。【コチラの方より

(※4)条約批准

当時、日露戦争で得た外債の借り換えの時期にあたっており、その借り換えの条件として英米の銀行団が軍縮条約の締結を望んでいたという側面もありました。

もちろん、井上の財政政策、幣原の外交政策いずれも英米との協調が不可欠でありました。

(もっとも、幣原がもうちょっと海軍と話をつけていたら不満は幾分か逸れたのではという意見もあります。)

なんとか条約は批准されましたが、この時の浜口内閣の問題点は、

軍縮反対派(陸軍桜会、海軍青年将校ら)、政党政治打破を目指すグループ(軍部・枢密院)という強大な敵を結集させてしまった

ことと考えられております。 

(※5)1930年の美濃部達吉

美濃部達吉は、加藤寛治の帷幄上奏(天皇への具申)を帷幄上奏権の濫用であると批判しました。

また、憲法11条、憲法12条を引き合いに、統帥部の独立は証明されていると統帥権干犯問題を一蹴。

浜口内閣を擁護したことが条約批准に結びつきました。

(統帥の権は天皇にあり、兵力量に関しては内閣の輔弼事項)

(おまけ)海軍の強さ

1931年に満州事変が勃発しますが、この時、板垣征四郎は

「満蒙をわが領土としたいがアメリカは干渉してくるであろう。しかし、今ならまだわが海軍の方が強い。開戦するなら早いほうが良い。」

と言ったとされます。

【まとめ】

★はじめは海軍軍縮問題であった。しかし、政友会(野党)が倒閣の手段として「統帥権干犯問題」を持ち出した

海軍が主張した「対米7割」にはさしたる根拠が無い。

★浜口内閣の条約締結は評価できる。しかし、政友会、海軍、陸軍桜会など反対派が結集してしまったことがのちに問題となった。

こちらでは軍部が主張して政友会が乗っかった、とあるが、学者の本を読むと「政友会が軍部を焚き付けて、さらに乗っかった」というのが正解か。

「昭和史講義」の次章は「満州事変からの国際連盟脱退