~只今、全面改訂中~

こんにちは。

今回ご紹介しますのは、「海軍軍縮条約の更新問題」です。

結論から申しますと、ワシントン条約、ロンドン条約とも「更新せず」、建艦競争に突入します

【年表】ワシントン軍縮条約(1921年)~条約離脱(1936年)

1922.2ワシントン海軍軍縮条約締結
1930ロンドン海軍軍縮条約締結
1933「大角人事」で条約派が左遷
1934.12ワシントン海軍軍縮条約脱退通告
1936.1ロンドン海軍軍縮条約脱退通告
1936.2(条約更新予定日)

ワシントン海軍軍縮条約

主力艦保有総トン数など決定

英:米:日:仏:伊= 5 : 5 : 3 : 1.67 : 1.67。

アメリカがイギリスに文字通り肩を並べた。日本も明治維新当初を考えると大躍進。世界3位の海軍を有するまでに。

(ただし、ソ連は混乱期で入っておらず。) 

ロンドン海軍軍縮条約

★ワシントン海軍軍縮条約の結果、「主力ではない」艦の建艦競争になったため行なわれた。補助艦の保有総トン数などが決定

★軍令部は対米7割を主張していたが、6.975割に決定。

★軍令部は「統帥権干犯問題」を持ち出して浜口内閣を攻撃。野党・政友会も乗っかる。

大角人事

大角岑夫海軍大臣のもと、「条約派」の主要人物が次々と左遷。当時、軍令部長は伏見宮であり、彼が大角に圧力をかけたといわれている。

【左遷されたメンバー】

山梨勝之進(25期)
堀悌吉(32期)
谷口尚真(19期)
左近司政三(28期)
坂野常善(33期)ら

山梨勝之進。宮城県出身。(1877-1967)
ワシントン、ロンドン軍縮条約妥結に尽力。艦隊派の末次信正ですら敬意を示すほどの人徳者。
堀悌吉。大分県出身。(1883-1959)
海軍始まって以来の天才と言われた。加藤友三郎の後継者になるべき人物であった。日米開戦当時に彼がいれば・・・。
この人が人事権を握って良かったのか否か・・・

軍縮条約脱退

ワシントン、ロンドンとも軍縮条約有効期限が1936年2月でした。

(二二六事件のあった月でもありますね。)

そのため、2年前から予備交渉が開始します。

ワシントン条約につきましては、齋藤内閣時の「五相会議」で既に脱退を妨げない方針が決定しました。

これを岡田内閣でも引継ぎます。

予備交渉では予想通り相手の同意が得られず、1934年12月29日にワシントン海軍軍縮条約から脱退を通告します。

1936年1月15日にロンドン海軍軍縮条約からも脱退を通告します。

その後、制限なき建艦競争へ向かうのです。

参考図書