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☞【海軍に引き続き陸軍も。】「1920年代前半の軍縮」(『満州建国の真実:§4a』)

こんにちは。

今回ご紹介しますのは、「1920年代前半の軍縮」についてです。

「ワシントン会議」で決定された「海軍軍縮」に引き続き、「陸軍軍縮」も行なわれました。

【年表】ワシントン会議開催(1921年11月)~宇垣軍縮(1925年5月)

1920.1.10国際連盟発足
1921.11.12ワシントン会議開催(※1)
1921.12.13四カ国条約
1922.2.6九カ国条約
ワシントン海軍海軍軍縮条約
1922.8第1次山梨軍縮(※2)
1923.4第2次山梨軍縮
1923.8.17ワシントン海軍軍縮条約発効
1923.9.1関東大震災
1925.5宇垣軍縮(※3)

(※1)ワシントン会議開催

1920年1月に国際連盟が発足しました。

アメリカは発起国でしたが、上院の反対で加入できませんでした。

しかし、国際問題を解決するのにアメリカの影響力は無視できません。

そこで、国際連盟に代わって開催されたのが「ワシントン会議」です。

話し合われたテーマは、

太平洋問題の調整(→四カ国条約)

中国問題の解決(→九カ国条約)

海軍軍縮(→海軍軍縮条約)

でした。

参加国はよく問われるので覚えましょう。

ちなみに、革命間もないソ連は九カ国条約に入っておりません。

むしろ、1919年に「第1次カラハン宣言」を出して、

「帝政ロシア時代に得た中国内の権益は全て放棄する」

としております。

(これに中国人は熱狂しました。)

ワシントン会議で決定した条約は、

①四カ国条約

「太平洋の島々の領有についてアメリカ・イギリス・日本・フランスは相互の権利を尊重する」

②九カ国条約

「中国の主権ならびに領土的保全を尊重し、中国の門戸開放・機会均等の原則を守る」

(アメリカの伝統的主張)

③海軍軍縮条約

「米・英・日の海軍比率を10:10:6とする」

というものでした。

(※2)山梨軍縮

軍縮のメリットとしては、経済面と国際協調にあります。

加藤友三郎内閣のもと、山梨半造陸相も軍縮に取り組みます。

当時、21師団体制でしたが、山梨軍縮では

「師団数は減らさずに、総兵員20%削減」

を実現しました。

また、徴兵時の在営期間を40日短縮するなどで陸軍予算を2400万円節約させました。

【山梨半造】(やまなし はんぞう:1864~1944)
相模国(神奈川県)出身。陸軍士官学校(8期)、陸軍大学校(8期)卒業。(成績優秀につき恩賜組。)
日清戦争、日露戦争、第1次世界大戦と戦争経験豊富。

(※3)宇垣軍縮

その後、加藤高明内閣で宇垣陸相が

「4個師団廃止」

当時、世界的には歩兵中隊の主要火器は小銃から軽機関銃へ移行し、歩兵大隊に重機関銃が配備されていました。

日本は日露戦争後の旧装備のままで、これらの近代兵器を持っていませんでした。

宇垣陸相は陸軍の近代化を目指しましたが、関東大震災による財政難のため、師団数を減らすことで兵員・馬の削減を実現しました。

その分の財源で、飛行連隊、戦車隊、高射砲連隊、通信学校、自動車学校なども新設しました。

また、軍縮でリストラされた将校たちは配属将校として中等学校以上の男子校に送り込まれ軍事教練を行いました。

【宇垣一成】(うがき かずしげ・・・1868~1956)
備前国(岡山県)出身。陸軍士官学校(11期)、陸軍大学校(14期)卒。恩賜組。長州閥の田中義一に気に入られその後継となる。(同時に、反閥族派を生み出してしまう。)「宇垣軍縮」が陸軍に不評であり、その後、首相になるチャンスを逃す。

コチラも。

まとめ

「ワシントン海軍軍縮条約」(1922年)で海軍の軍縮が決定。

 

その後の「山梨軍縮」(1922年、1923年)、「宇垣軍縮」(1925年)で陸軍も軍縮。