~只今、全面改訂中~

こんにちは。

今回ご紹介しますのは1921年の「ワシントン会議」です。

【ワシントン会議】

1921年11月~1922年2月、アメリカ合衆国大統領ハーディングの提唱で開催された。

四カ国条約(太平洋問題の調整、日英同盟破棄)、

九カ国条約(中国問題の解決)、

ワシントン軍縮条約(海軍軍縮、主力艦保有率5:5:3:1.67:1.67)

が結ばれた。

私、「もう一つ上の日本史」を読むまで、この会議はてっきり

アメリカが日英を切り離すために画策したもの

と思い込んでおりました。(百田先生も同意見)

しかし実際は、

日英の関係は「すでに」解消に向かっており、

また、

九カ国条約では日英双方が恩恵を受けたようです。

6三 九カ国条約の経済的恩恵は、明らかに日本とイギリスが得ました。(p186)

①四カ国条約


【テーマ】 太平洋問題の調整
【参加国】 日本、アメリカ、イギリス、フランス
【結果】 日英同盟は破棄、4カ国で協調する方針

賞味期限切れの日英同盟

日英同盟につきましては、既に「賞味期限切れ」という言葉が使われております。

理由としましては、

①辛亥革命以後、孫文と清国の仲介を図るイギリスと、日本の間に温度差が出てきた。

②パリ講和会議の「人種差別撤廃提案」をめぐって対立が決定的になった。

③日英同盟が国際連盟規約に抵触するのではないかという議論が生じた。

これらにより、日英双方とも同盟の廃止を望んでいました

バルフォア外相
四カ国同盟を結びました。

日英同盟を存続すればアメリカに誤解されるし、

日英同盟を破棄すれば日本に誤解されるし、

外交は難しいよ。

幣原喜重郎

日英同盟は制度疲労ですよね・・・

なんでも「幣原外交のせいで」と言うのも辞めて下さい

私、最近、評価高いんですよ。(↓↓)

②九カ国条約

【テーマ】中国問題の解決

【参加国】9カ国。
(日英米仏伊、蘭、ポルトガル、中華民国、ベルギー【覚え方】)

【結果】中国の領土保全が確認、「石井ーランシング協定」破棄

日英とも投資額は増大

九カ国条約は「日本の大陸進出を阻むもの」という印象があるかも知れませんが、1914年→1931年の中国への国別投資額割合をみますと・・・

1914年1931年
イギリス38%37%
ロシア/ソ連17%8%
ドイツ16%3%
日本13%35%
フランス11%6%
アメリカ3%6%
むしろ上がっていることがわかります。

「山東還付条約」で日本は山東省を返還しましたが、イギリスと日本で「独占」といっても良いくらい中国へ投資しております。

アメリカは中国に「経済進出した、というほどしていない」ことがわかると思います。

③ワシントン海軍軍縮条約


【テーマ】海軍の軍縮
【参加国】アメリカ、イギリス、日本、フランス、イタリア
【結果】主力艦保有率が(英米:日:仏伊=5:3:1.67)に決定

帝国海軍は賛成する<条約派>と反対する<艦隊派>に分かれた。

主力艦保有率は海軍艦隊派が主張する「対米7割」という意見は実現されませんでしたが、彼らが主張する「7割」という数字にさして根拠はありませんでした。

海軍は「条約派」と「艦隊派」に

帝国海軍は「条約派」と「艦隊派」に分裂します。

艦隊派の主唱者は日露戦争の英雄・東郷平八郎や、戦う皇族・伏見宮ら・・・。

東郷平八郎
艦隊に制限があっても、練習に制限はなかろう!

練習日は「月月火水木金金」じゃーっ!

加藤友三郎全権
・・・
原敬
とにかく列国の日本への誤解を解き、国際間の信望を増進するよう指示しています。

特に、日米関係の円満こそ大事。

(東郷のじいさん、黙ってて欲しいな・・・)

英米の信頼も厚かった加藤友三郎が1923年に死んでしまったのは日本にとって痛手か・・・。
日露戦争に憧れて軍人になったのに、軍縮だなんて・・・

しかし、このまま建艦競争が進めば、国民はさらに貧しくなってしまっていたのではないでしょうか。

総力戦時代においては国力の充実が大事と言われております。

そういう面でも、必ずしもこの会議は日本にとって「失敗」ではなかったのではないか、と思うのですが・・・

ちなみに「陸軍」の軍縮が国内で問題になるのは1922年です【コチラも】。

「ワシントン体制」という呼び名は古い?

この会議で決められた体制は「ワシントン体制」と呼ばれておりました。

しかし、近年ではこの会議で「体制」が整ったわけではない、むしろ「旧外交の継続」じゃないか?という声もあがっております。

太平洋の問題に関しては、四カ国じゃなくて、日米だけで決めれば良かったんじゃねぇの。

「対華21か条後の中国進出」から「ワシントン会議」に至るまで関連年表(1916年~1922年)

1916.7第4次日露協約

極東における日露の特殊権益が相互承認
1916.10大隈内閣総辞職、寺内正毅内閣成立

大隈は加藤高明を後継に推薦したが山県有朋が激怒して寺内に。(対華二十一か条など加藤の政治姿勢を快く思っていなかった。)加藤高明は憲政会設立。
1917.1西原借款

袁世凱の後継者となった段祺瑞に対して巨額の経済借款を与える(段祺瑞政権を通じて日本の権益浸透を図る)
1917.4第二特務艦隊、地中海派兵

イギリスの要求で地中海に派兵。
引き換えに英仏に山東半島、南洋諸島の権益を認めさせる。
1917.11石井・ランシング協定

日本の中国進出を警戒していたアメリカと結ぶ。中国の領土保全と門戸開放、および地理的な近接性ゆえに日本は中国に特殊権益があることを認めさせる。
1918.8シベリア出兵 
1918.9寺内内閣総辞職、原敬内閣成立
1919.1パリ講和会議始まる
1919.5五四運動
1919.6ヴェルサイユ講和条約
1920.1国際連盟発足
1921.11原敬暗殺(→高橋是清内閣)
1921.11ワシントン会議開催
1921.12四カ国条約
1922.1大隈重信没
1922.2山県有朋没
1922.2九カ国条約覚え方
海軍軍縮条約
1923.8ワシントン海軍軍縮条約発効

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