~「もう一つ上の日本史」出版に伴い、勉強方法も変える必要が出たので、全面改訂突入します~

昭和史講義
『§1.ワシントン条約体制と幣原外交』(渡邉公太先生)

【これまでの教科書的な理解】

★「ワシントン条約体制=日本は対米7割を主張して会議は紛糾するも、条約は結ばれ、しばらくの間は平和。幣原喜重郎、加藤友三郎。」

★「幣原喜重郎=対英米協調、対中穏健路線(→軟弱外交と罵られる)。」

くらいの知識だったが…

【まとめ】

★ワシントン条約で決められた「9か国条約」は、早期にその有効性を失った。

★その原因として、中国ナショナリズムと蒋介石らの国民党軍の進撃、その軍隊(というか共産党員)による南京事件(外国人居留民襲撃)張学良と蒋介石の接近などが挙げられる。

★そもそも、ワシントン条約体制は、第1次世界大戦における「ウィルソンの14カ条」を踏襲したものではない。

幣原喜重郎は「対英」という点においては協調を見せなかった。ナショナリズムの高揚、国民党軍の暴虐に対して中国権益を守ろうと武力行使も辞さない構えのイギリスに対し、幣原は内政干渉として不干渉を貫いた

★「幣原=協調」、「田中=強硬」という図式は中国の状況を考えていない。田中義一の時期には蒋介石の北伐が日本人居留区まで影響を及ぼしており、強硬にならざるを得なかったという面がある

★金融恐慌で若槻内閣退陣。田中義一内閣は山東出兵を行う。しかし、これにより中国の反帝国主義感情の矛先は英国から日本へ

【関連年表】

1918 ウィルソン大統領(米:民主党)による「14カ条原則」(※1)
1921 ハーディング大統領(米:共和党)政権期に「ワシントン会議」が行われる。(※2)
1924 第1次幣原外交。9か国条約に基づき、対中不干渉政策をとる。
1926 蒋介石の国民政府軍の第1次北伐開始。

翌年には南京事件と呼ばれる国民党軍(というか共産党軍)の外国人居留民襲撃事件が起きるが、日本はここでも対中不干渉政策をとる。(※3)
1927 金融恐慌による若槻内閣総辞職に伴い、田中義一政友会内閣が誕生。

それまでの幣原外交とはうってかわり、3度の山東出兵を行う。(※4)
1928 張作霖爆殺事件(※5)
1929 浜口内閣となり、幣原喜重郎が再び外相になるも、中国情勢は南京事件や張学良と蒋介石の接近などで状況が変化。9か国条約は有名無実化。 中ソ戦争も勃発。
1931 満州事変拡大に伴い、幣原外交も終焉。

(※1)戦争の元凶であると信じて、それまでの伝統的外交手法であった秘密外交、二国間軍事同盟・協商網、植民地獲得競争といった旧外交を否定した。しかし、このウィルソンの「理想主義的国際主義」は日米関係に限ればマイナスに作用。シベリア出兵、山東半島問題で日米交渉は対立的様相を帯びた。

(※2)1931年までの満州事変までを「ワシントン体制」と呼ぶ。これは東アジアにおける日英米の多国間協調システムの設定を試みたもので、日米対立を緩和する役割を果たした。しかし、最近の研究ではこの「ワシントン体制」という概念に疑問が呈されている。主力艦隊の比率は決まったものの、「体制」と呼べるほどのものはなく、「九か国条約」においてもウィルソン的理想主義が介入する余地はなく、旧外交の継続と言う面が色濃く残った。

(※3)1925年に広東に国民政府樹立。蒋介石を国民革命軍総司令に任命して中国統一に乗り出す。英国は日本と共同で軍事的にこれを押さえようとするが、内政干渉にあたるとして日本は拒否。英国は日本に対して不信感を持つ。

(※4)第1次山東出兵はイギリスから好評であったが、第2次出兵で中国排外運動の矛先が英国から日本へ移る

(※5)後を継いだ張学良は国民政府に接近。日本やソ連との対立を深めた。

【幣原喜重郎】(1872~1951)

写真はwikipediaより。

この時期、二度の外務大臣を務め(1924~1927、1929~1931)、国際秩序の構築に最も貢献したのが幣原喜重郎。外務省出身。1915年から外務次官を務め、1921年ワシントン会議では全権委員(主席は加藤友三郎)。1924年からは憲政会(民政党)・加藤高明内閣における外相。加藤高明とは共に岩崎弥太郎の娘を妻とする義兄弟の関係であった。

 【略年表】

1872 大阪・門真の豪農の家に次男として出生。
1895 帝国大学法科大学卒業
1896 外交官及領事館試験合格、外務省へ
1915 外務次官
1919 駐米大使
1921 ワシントン会議で全権委員(ほか加藤友三郎、徳川家達)
1924 加藤高明を首班とする護憲三派内閣の外相に就任

★第二次奉直戦争(※1)勃発。奉天軍支援の声も上がったが、それを行うと中国ナショナリズムを刺激するとして不干渉を明言。結果として日本は国際的非難を浴びることなく大陸権益も守られた。
1925 (2月)在華紡でストライキ。日英打倒を叫ぶデモに発展。英国の租界警察は発砲し、反帝国主義は拡大。背後には共産党の煽動。(※2)

(10月)北京関税特別会議(※3)

(11月)奉天派の武将、郭松齢の反乱。この際も不干渉を明言。(※4)相次ぐ反乱で満州の経済状況は悪化。
1926 蒋介石の第1次北伐開始(※5)
1927 南京事件(※6)。幣原外交は批判を浴びる。金融恐慌もあり若槻内閣総辞職。
1929 浜口内閣で再び外相に。
1930 ロンドン海軍軍縮条約締結。海軍は統帥権干犯問題などを持ち出し批判。【コチラ

浜口狙撃事件後は首相代理となるが、失言などで混乱を招く。
1931 満州事変。英米の介入は排除しようとするも、関東軍は軍事行動拡大。幣原は政界を退く。(※7)
1941 日米避戦に向けて、いったん「南進前まで戻す」と言う、「乙案」を作成するも、士気が衰えるとして蒋介石が反対。【→昭和陸軍の軌跡:後編
1945 東久邇宮内閣退陣後、吉田茂らに押されて首相就任。平和憲法制定などに取り組む。(※8)
1946 戦後初の総選挙を経て第1次吉田茂内閣誕生。国務大臣として入閣。
1951 衆議院議長在任中に、心筋梗塞で死去。78歳。

(※1)奉天軍閥の張作霖が直隷派に仕掛けた戦争。奉天軍劣勢であったが陸軍の出先機関の謀略で離間された直隷軍は総崩れ。

(※2)以前ほどの力はない英国は日本との連携を強化して共産思想、排外運動への対抗を図る。幣原としてはこれは9か国条約に反するとして不本意。【幣原は英米協調外交と言われていたが、対英に関してはそれほどあてはまらない、というのが最新の研究成果】である。

(※3)途中で段祺瑞政権がクーデターで倒れ、北京が無政府状態に陥ったために自然消滅。日英米の協調は不完全。

(※4)やはり張作霖劣勢。宇垣陸相の提案に基づき、在満州居留民保護を名目として関東軍防衛力強化。間接的に郭軍の進撃を止め、最終的に張作霖の勝利。

(※5)英国は日本と共同で軍事的にこれを押さえようとするが、幣原は内政干渉にあたるとして拒否。英国は不信感を持つ。

(※6)北伐軍は南京入城後、現地の外国領事館や居留民襲撃を行い、列国から激しい反発。ここでも不干渉を貫こうとするが、国内からも厳しい批判を浴びることとなった。結局、金融恐慌なども重なり若槻内閣は総辞職。第1次幣原外交は終焉。

※喧伝されている南京虐殺(1937)とは時期も何もかも全く違うので混同しないよう注意。日本は被害者。

(※7)国内も拡大を支持。幣原外交は解決への有効な手立てを失っていた。幣原は世界恐慌以降に台頭した自給自足圏構想やアジア主義理念へ対する有効な理論を持ち合わせなかったことも意味する。また、満州事変を軍部の政党政治へのクーデターととらえた民政党は首相の座を譲ってでも政友会と協力内閣を敷こうとしたが、外務大臣幣原も蔵相井上準之助も民政党自力でできると考えて反対した。【井上先生のコチラも

憲政会(→立憲民政党)立憲政友会
協調外交(幣原喜重郎) 積極外交(強硬外交)
外相は常に幣原 田中義一は首相兼外相
中国内政に干渉せず、穏健的に対応 満州における権益を実力で守る
緊縮財政をとりがち 積極財政(高橋財政)
蔵相は井上準之助など 蔵相は高橋是清が多い
三菱財閥と結ぶ 三井財閥と結ぶ

加藤高明就任時に憲政会と政友会の外交方針は入れ替わった!

この時代、第1党から選ばれるのではなく、内閣が退陣すれば変わったために足の引っ張り合いに。1925年の加藤高明内閣から、1932年の犬養毅内閣までの8年間が政党政治は「憲政の常道」となった。しかし、この時代、第1党から選ばれるのではなく前の内閣が退陣すればなったために終盤には足の引っ張り合いに。(犬養毅は五一五事件で悲運のイメージもあるが、ワシントン軍縮会議を野党政友会総裁だった犬養毅は批判。)普通選挙法は実施されたが選挙資金も増大。その結果、財界との結びつきは強くなり、賄賂も横行。吉野作造「金権政治」批判。

(※8)政界を退いた後、幣原の後継者たる人物が現れなかったのは、幣原のパーソナリティによるところも大きい。派閥を作るタイプではなかった。

 【加藤高明】

かつて外務大臣だったときに対華21カ条を要求。さらに政友会がワシントン会議に参加した時はこれに強く反対。その点で西園寺は加藤をよく思っていなかった。組閣に当たっては西園寺に配慮し(?)、協調外交路線に転換、外相に幣原喜重郎を起用。ちなみに加藤と幣原はともに岩崎弥太郎の娘を妻としている間柄。

憲政会…加藤高明
政友会…高橋是清
革新倶楽部…犬養毅
<けんか せい ゆうたかて クラブの犬はつよし>
憲 加   政友  高   倶楽部 犬毅

♨まったく、党名がコロコロ変わるから受験生を悩ます…。党名などどうでもいいと思うのだが。政友会=高橋是清はわかるし、憲政会=加藤高明も出ると思うので、犬養毅→革新倶楽部(元・立憲国民党)だけ注意すればよいか?

【ワシントン会議(1921~1922)】

★1921年、日米英仏で「四カ国条約」、オランダ・ポルトガル・中国・ベルギーも加えた「九カ国条約」が結ばれ、翌1922年に「ワシントン海軍軍縮条約」が結ばれた。

 【ワシントン海軍軍縮条約(1922)】

★主力艦・航空母艦の保有比率を、米5、英5、日3とした。(仏伊は主力艦約1.75、母艦約2.2)

★補助艦について決められたのは1930年のロンドン軍縮会議。(1927年のジュネーブ軍縮会議は決裂)

★今後10年間の主力艦建造禁止

★シベリア撤兵も宣言

★イギリスは大きく譲歩。アメリカの台頭が決定的。

 【四か国条約】

★太平洋の安全保障

★日英同盟破棄(英米の緊張を避ける目的)

 【九か国条約】

★中国の主権と独立尊重、門戸開放、機会均等が謳われたが、実現できたとは言い難い。

★石井・ランシング協定(1917~:日米間)解消

★山東省における日本の権益返還

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【アメリカ大統領の系譜】

第28代 ウィルソン 民主党 1913.3.4-1921.3.4
第29代 ハーディング 共和党 1921.3.4-1923.8.2
第30代 クーリッジ 共和党 1923.8.2-1929.3.4
第31代 フーヴァー 共和党 1929.3.4-1933.3.4
第32代 F.ルーズベルト 民主党 1933.3.4-1945.4.12

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