~「もう一つ上の日本史」出版に伴い、勉強方法も変える必要が出たので、全面改訂突入します~

☞【昭和史の1st Book!】『教養としての「昭和史」集中講義』(井上寿一、2016年、SB新書)【読書メモ編】

「まずはコレ!」でも紹介。おそらく高校生ともなると、このくらいの本を読むのが一番良いのだと思う。【コチラ

以下、読書メモ。

昭和初期の人たちは、案外いまの私たちと似た状況にあった

★昭和初期と言うのは不思議なことに慢性的な不況の中で「都市化と大衆化が急速に進んだ」という時期。結論から言うと、第1次世界大戦後、日本を含めて世界は「アメリカ化」していった。経済が停滞しても底までいかなかったのはアメリカとの経済関係の結びつきがあったからである

幣原喜重郎はその後の田中義一(首相・外務大臣兼)と比較して「協調的な外交」と言われているが、日露戦争で得た満蒙の既得権益を守るという点においては田中と一致していた。もっとも、幣原が外務大臣を務めていた1924年~27年にかけては、中国では軍閥が割拠している状態でありそのため満州を守ることができただけである。1927年に蒋介石が南京に国民政府を樹立したために幣原と田中で対応が異なっただけである

♨【追記】この時代は、「日本の中国進出期」という捉え方が従来されていたが、現在では「清朝崩壊後の混沌期」的な捉え方がされるようになってきている。この時点ではまだ「中国」=「中華民国/国民党」ではなく、軍閥が跋扈している状態であるとともに、共産党もソ連の力を得て紛れている状態。

★田中義一は陸軍出身であるが、陸軍出身者が政党内閣に入るということは、第1次世界大戦後の世界的軍縮の結果、軍の組織利益を守るという究極の形であった。ライバルの憲政会(民政党)への牽制の意味合いもある。

♨山県有朋は政党嫌いであったが、田中義一は異なった。

★日本のリベラルは選挙のために「税金はなるべくとらない」と言って、「じゃあその財源はどうするんだ」と言わると答えられない、といった状況。むしろ自民党の方がリベラル寄りの政策を出したりしていて、それを批判していたりするので「ねじれ」現象が起きている。与党のやることは何でも反対、という二大政党制の悪しき伝統である。

★濱口の経済政策は結果として失敗したが、その責任があいまいなまま死んでしまったのは問題。同情も湧いたが、次の総選挙では政友会が圧勝。  

【年表】1918年~1932年(五一五事件まで)

  • 1918(T7) 原敬(政友会) 第1次世界大戦終結
  • 1920(T9) 国際連盟設立(日本は常任理事国に→国際労働基準の遵守等)、戦後恐慌(欧州の復興で輸入超過に)
  • 1922(T11) 日本共産党が非合法に結成
  • 1923(T12) 山本権兵衛 関東大震災(経済も大打撃)
  • 1925(T14) 加藤高明(憲政会) 普通選挙法(欧米では1910年~。25歳以上男子。)、治安維持法(無産者を抑える目的も多くの人は社会主義者にはならなかった。社会主義は一部のインテリのものであった。)、ラジオ放送開始
  • 1926(T15) 若槻禮次郎(民政党)蒋介石の北伐開始(~1928)※1927南京に国民政府樹立。
  • 1927(S2) →田中義一(政友会)金融恐慌の後を受けて(片岡蔵相の失言をきっかけに取り付け騒ぎ)
  • 1928(S3) 初の普通選挙実施、三・一五事件(→活動している共産党の大検挙)、張作霖爆殺事件(→田中義一は辞任。張学良は蒋介石側につき中国統一が進んでいく。)、パリ不戦条約(※民政党は批判を展開。二大政党の悪い部分。)
  • 1929(S4) 濱口雄幸(民政党)世界恐慌(→翌1月に金解禁。緊縮財政も。) ※日中関税協定→日中関係は良好。張作霖爆破事件と満州事変は地続きではない
  • 1930(S5)  昭和恐慌(金解禁で金の国外流出、失業者増加)、ロンドン海軍軍縮条約(→補助艦総比率対英米7割に。大型巡洋艦の7割は認められず、海軍らは不満。統帥権干犯問題も。日英米は信頼関係を築く。) ※「当面、経済は悪くなる」と宣言しながらも濱口雄幸率いる民政党は積極政策を打ち出す政友会に衆院選で大勝。有権者が景気対策を望んでいるのは確かであるが、だからといって有権者もそう単純ではない。11月にロンドン条約に反対の右翼青年に撃たれ、傷が悪化し死亡。経済政策の失敗はうやむやに
  • 1931(S6) →若槻禮次郎(民政党) 柳条湖事件~満州事変
  • 1932(S7) 犬養毅(政友会) 満州国建国(先のロンドン会議で友好関係となった米英の陰の努力もあり、落としどころがつけられる)、五・一五事件(→政党内閣の終焉)

満州事変はなぜ後戻りできなくなったのか

日露戦争で得た満州の権益なんて領土にすればごくわずか。そこにこだわるよりも中国を通商貿易の相手とした方が得策であろう、という流れに軍部は危機意識をもっていた

元満鉄副総裁である松岡洋右の「満蒙は日本の生命線」演説(1931年6月)は流行したが、松岡の意図としては権益を守りつつも、中国、満蒙とも経済活動を活発にして日本も満鉄も潤いましょう、というものであった。9月の柳条湖事件で蒋介石との関係は決定的に悪化してしまったのは想定もしていなかった。

満州事変を軍部の政党政治へのクーデターととらえた民政党は首相の座を譲ってでも政友会と協力内閣を敷こうとしたが、外務大臣幣原も蔵相井上準之助も民政党自力でできると考えて反対。政友会も当初は乗り気であったが、次の選挙で経済政策を打ち出して勝利して過半数を占めてから単独内閣でやろうという気に。このようにしている間に関東軍はどんどん前線拡大。

♨倉山満先生は井上準之助、幣原喜重郎の考え方を支持。そうすることで憲政の常道が守れたのだという。

五一五事件の時、国民は首謀者たちに同情的であったが、二二六事件では反対であった。この頃は高橋是清の金輸出再禁止と積極財政が奏功し、世界恐慌からいち早く抜け出しており、日本経済が好調だったのである

★二二六事件で政党内閣が復活する可能性があったにも関わらず、復活できなかった。

★1941年の日米交渉では中国本土からの撤退が日米開戦の回避条件であった。

【年表】1930年~1936年(二二六事件まで)

  • 1930(S5) 濱口雄幸(民政党) ロンドン海軍軍縮条約 日中関税協定(→日中友好ムード)
  • 1931(S6) 若槻禮次郎(民政党) 柳条湖事件(濱口死亡1か月後。関東軍が中国の仕業に見せかけ南満鉄を爆破。軍事行動に出る。) 満州事変(いわば国外からの軍部のクーデター。1928年からのソ連の第1次5ヶ年計画が成功していると読み違えて焦っていた。軍縮の流れも焦りの一因。)→政府は不拡大の方針を表明するも在朝鮮日本軍が勝手に関東軍に加わり前線拡大。こうしたことが重なり追認することに。若槻内閣は総辞職。
  • 1932(S7) 犬養毅(政友会)→高橋是清(10日間)→斎藤実(元海軍大将) 満州国建国(関東軍としてはやや不本意。外交官としては最悪の事態。) 五・一五事件(二大政党が満州事変を放置したことによる自滅でもある。元老は政党政治の限界を感じ、斎藤実を首相に。「憲政の常道」は8年で潰えた。国民は政党より軍に期待、軍部は軍縮の流れに対して政治的立場を強めようという方向に。) 日満議定書(調査団派遣の最中、満州国を国家として認める。満州関連の新聞は売れたため、世論は満州国支持と読み間違えたか二大政党とも満州国支持。短期間のうちに政党はここまで落ちた) ※翌月、リットン調査団の報告書公表。「満州における日本の経済的利益は擁護されなければならないものの、満州国は自発的な民族自決運動によって成立したものではない。」ただ、リットンとしては日中間を和解させるためにわざわざ来ているのに、先に日満議定書を結んだことに大立腹。
  • 1933(S8) 斎藤実 国際連盟脱退通告
  • 1935(S10) 岡田啓介(海軍出身) 天皇機関説問題(岡田は民政党と増大している無産政党による連立内閣を目論んでいたが、ここに政友会が天皇機関説を問題に出してこれを衝く。)
  • 1936(S11) 二・二六事件

復活の兆しがあった政党内閣と日中戦争の泥沼化

★犬養のあとの、斎藤、岡田は海軍出身であるが2人とも海軍軍縮に賛成しており、軍事独裁ではなかった。こういうことも元老・西園寺公望が健在でいたため可能な人選であった。

満州国問題は欧州小国にとっては死活問題であるが、あまり過度に叩くとイギリスも自分たちの首を絞めかねないので、落としどころがたくさんあった。

実際、ドイツではヒトラー政権が発足しており、欧州は満州どころではなくなる。しかし、脱退せざるを得なかったのは熱河作戦のせい

★犬養~蔵相を務めた高橋是清のおかげで日本は最も好景気であった。

★二二六事件は皇道派と統制派の争いともとれる。(♨実際はそんなに単純ではないが。)二二六事件を鎮圧したのは統制派であるため、以後、統制派が台頭する。皇道派を中心とした軍部独裁内閣が成立する可能性もあったが、それを阻止したのも軍部であった。

★広田弘毅のあとの首相、林銑十郎は陸軍出身であったが、独裁とは程遠く、123日で退陣。 (なにも せんじゅうろう というあだ名も)

★近衛文麿は軍人ではなく、利権ズブズブの政党政治家でもなく身ぎれい、ということで人気を博した。政党は本来なら政党政治に戻さないといけないのだが、近衛人気にあやかろうとするばかり。近衛内閣は形式的には挙国一致のようなものであるが、どの政治勢力からも反対されないが特別に支持もされない、非常に脆弱な政権基盤であり、国民とつながることでなんとか維持できていた。

★陸軍の仮想敵国はソ連であり、日中戦争など早く終わらせたかった。7月に戦争開始し、12月には南京を占領したが、蒋介石は首都を重慶に移し、徹底抗戦。国内では経済も上向き、戦争支持。

★日本とドイツは日独防共協定、中国はドイツ式の軍隊として鍛えられていたこともあり、トラウトマン工作は成功する可能性が高かったが、日中どちらも譲らず調停は失敗。

★日中戦争はどちらも宣戦布告していない。戦争となってしまうと「中立法」をとっていたアメリカと貿易がストップしてしまうからである。中国は日本の卑劣さをアピールして制裁してもらおうと、さまざまな宣伝戦が行われる。南京大虐殺もそれ。(もっともアメリカは基本的にこの時期はアジアには「孤立主義」。ニューディール政策に精一杯。どちらかというとドイツ憎し。原爆もドイツ用に作られた。)しかも

日本はソ連が本来の敵だし、国民党は共産党が本来の敵

なので、どちらも死力を尽くさず長期化

★近衛内閣は戦争を継続する何かしらの正当な理由を探して「東亜新秩序」を発表。汪兆銘による傀儡政権を目指すも失敗。

★日中戦争は本来自力で解決すべきであったが、三国防共協定などで国際的地位を高めてからそれを外交圧力にしようなどしたことから失敗。独ソ不可侵条約で非常に困ってしまった。

【年表】1932年~1940年(大政翼賛会設立まで)

  • 1932(S7) 犬養毅(政友会)→斎藤実 五一五事件、日満議定書
  • 1933(S8) 斎藤実 熱河作戦(満州国軍との共同出兵。関東軍は自身のタイミングで行いたいと息巻く。)、国際連盟脱退通告@ジュネーブ(→2年後に正式に脱退) ※「対日批判勧告」に対して圧倒的に賛成意見というだけであって、本来は国際連盟を脱退する必要はなかった。しかし、この非難勧告に不服を申し立てた国が軍事行動に出れば連盟規約により経済制裁が発動されるため、熱河作戦より先に脱退する必要があった。(→実際に脱退同時に決行されたが、国際協調は重視する努力をしていたため経済制裁は回避) 日中停戦協定(→満州事変鎮静化を目指す。万里の長城以南には手を出さないことを約束。) ロンドン世界経済会議(国連脱退通告の3か月後。アメリカと共同歩調をとり自由経済で恐慌へ向かうことを提案。ブロック経済のイギリスとは意見の食い違い。
  • 1935(S10) 岡田啓介 天皇機関説問題 華北分離工作(華北から蒋介石の影響を排除)
  • 1936(S11) 岡田啓介→広田弘毅 二二六事件 日独防共協定(翌年、伊が加わる) 西安事件
  • 1937(S12) 林銑十郎(陸軍出身) 近衛文麿 盧溝橋事件(近衛内閣発足1か月後。日中どっちが先に手を出したのかは結論出ず。盧溝橋は北京郊外。義和団以来駐在。) 日中戦争勃発(停戦協定が結ばれたが、監視のための増員を戦争とみなして開始。) トラウトマン工作(ドイツを仲介とするも失敗)
  • 1938(S13) 同上 近衛声明「国民政府を対手にせず」 「東亜新秩序」 欧州ではヒトラーがオーストリア併合
  • 1939(S14) 平沼騏一郎→阿部信行 ノモンハン事件(5月。→ソ連と対立) 独ソ不可侵条約(8月。翌月にポーランド侵攻。平沼内閣は「複雑怪奇」と総辞職。) 第2次欧州大戦
  • 1940(S15) 米内光政(短期)→ 近衛文麿(大政翼賛会) 日独伊三国同盟(防共協定を格上げ。ドイツの時代になると踏んだ。ドイツとしては日本が東南アジア侵攻することで植民地をもつイギリスを足止めできれば良いと考える。しかし、日本とイギリスの関係はそれまで良好であっただけにこれは失策。ただ、それくらいドイツは強かった。) 大政翼賛会(ナチスとは異なる、まとまりに欠けた組織)

♨1940年について、日英の関係はそれまで「良好」であったとは言えないのではないか?中国を裏で支援しているのが英国であることを日本は知っていたのだし。ただ、戦争までする必要はなく、交渉で何とかなる関係、と思っていたことはたしか。日露戦争時には蜜月であった日英の関係がいつからおかしくなったのか?(ワシントン条約における日英同盟解消が影響大きかった?)というのは、また調べたい。(まずは世界史の勉強のときに読んだ倉山先生の本「嘘だらけの日英近現代史」から・・・)

避けることのできた日米開戦

★ルーズベルトは日本の真珠湾攻撃を事前に知っていたという「ルーズベルト陰謀論」は確証が得られていない。もっとも、いつか攻撃を受けることは予想されており、最も攻撃される可能性が高かったのはフィリピンであった。

フィリピンを攻撃されたら反日感情が湧いたかどうかは疑問である。日本は短期決戦を目指して空母のある真珠湾を攻撃したが、これはまさにアメリカのシナリオ通り、でもある。 

★ロッキード事件におけるアメリカ陰謀論、日本のアメリカ属国論など、アメリカ陰謀論は日本社会の時々の状況に即して現れるが、現実には日本が考えるような陰謀論は成立しない。 

★1941年に真珠湾攻撃が起こるが、全く攻める必要はなかった。

東南アジアのイギリス、オランダの植民地だけにしておけば、日米開戦は起こる余地がなかった。まともな研究者であれば日米開戦は最後まで回避可能であり、日米には戦争に訴えなければ解決できないような問題はなかった。

当時、アメリカは事実上アジアに植民地を持っておらず、日米間での植民地をめぐる戦争はあり得ない。 

★イギリスはドイツ相手に大変。ただ、植民地は維持したい。その戦いをアメリカが肩代わりしてくれた格好になる。ただ、

英米は形式的には連合国であるものの、潜在的には対立国であった。イギリスは植民地維持、アメリカは反植民地であるからだ

(※アメリカもフィリピンなどをほぼ植民地としていないか?→この時点ですでに独立を認めていた。) 

★枢軸国が一枚岩ではなかったのと同様に、連合国側も決して一枚岩ではない。米英の植民地に対する考え方の相違の他、ソ連と言う社会主義国が加わっていることの矛盾点もあるが、そうせざるを得なかった。ソ連と日本が日ソ中立条約を結んでいるというさらなる難解さもあった。

★海軍の仮想敵国はアメリカ。陸軍は中国で頑張っているのに…という陸軍からの突き上げ、アメリカと戦えないとは言わせないぞ、という組織的利害もからんでいた。日米交渉に失敗した近衛内閣退陣のあと、陸軍大臣出身の東條英機が首相となったが、陸海軍の組織利益の対立は最後まで続いた。組織利益を守って全体の利益を克服できなかったという例はいつの時代も存在。

日本にとって「アジアの開放」が目的であれば、そもそもアメリカとは戦う必要はなかった。

「大東亜戦争」の正当性を主張する人たちには、陸海軍の組織利益の対立についてどう考えるかを問いたい。「大東亜新秩序」は後付け理論である。「大東亜共栄圏」の話を聞いた東京帝大の学生はげらげら笑った、という事実がある。 

★鈴木貫太郎は昭和天皇の侍従長を務めており、戦争を終わらせるという任務を持っていたはずであるが、就任時に「私の屍を越えていけ!」と述べる。これは軍部向けのパフォーマンスかと思いきや、やはりどこかで「もう少し頑張れるだろう」とか「どこかでもう一度戦果を挙げよう」という意思があったと思われる。(半藤一利氏の「日本の一番長い日」では美化され過ぎとも) 

★米内光政海軍大臣「こういう言葉遣いをしてはどうかと思うが、原爆投下とソ連参戦は天佑であった。」原爆とソ連参戦、どちらが有効であったのかというと「どちらも」である。原爆だけであったらまだ戦争は続いていたかも知れず、そうなれば上陸した連合軍を竹やりで迎え撃っていた可能性がある。 

★戦争に対して高揚感があったのは日中戦争から最初の半年くらいで、あとは嫌とも言えず、辞めようという気持ちもなく、政府や軍部の思惑に国民は振り回されるだけであった。 

第2次世界大戦で日本は300万人の犠牲者を出した。

【年表】1941年~1945年(終戦まで)

  • 1941(S16) 近衛文麿(第3次)→東條英機(大政翼賛会) 日ソ中立条約(4月:松岡が勝手に。【昭和史講義(コチラ)では松岡のスタンドプレーではないと擁護。】) 独ソ戦争(6月) 南部仏印進駐(7月。援蒋ルートの存在を遮断すれば中国が降参すると思った→アメリカは態度硬化。石油輸出禁止)→「ABCD包囲網」を受けているというプロパガンダ 在米資産凍結(7月) 大西洋憲章(8月) 真珠湾攻撃(12月)~太平洋戦争
  • 1942(S17) 東條英機 ミッドウェー海戦(6月)日本の敗戦濃厚。
  • 1943(S18) 東條英機 ガダルカナル撤退 大東亜会議(11月。占領地の戦争協力確保。満州国、汪兆銘政権、タイ・ビルマ・フィリピンなどの代表者より。大西洋憲章がモチーフであるが、外務大臣重光葵は敗戦準備として考えていた。)
  • 1944(S19) 東條英機→小磯国昭 サイパン陥落 本土爆撃開始
  • 1945(S20) 小磯国昭→鈴木貫太郎 東京大空襲 ヤルタ会談 沖縄戦 広島・長崎に原爆投下 ソ連参戦 ポツダム宣言受諾

現代日本の枠組みをつくった戦後という時代

★保守的な考えの人は本来押し付け憲法について考えると「反米保守」となるはずだが、戦後日本の保守政権は基本的には「親米保守」。(代表は吉田茂。)逆に、革新・リベラルはアメリカの利害が反映されている憲法を守ろうとしているのに反米であり、「アメリカの押し付け憲法」の改正を目指す側を非難。また、日米安保が抑止力になっているにもかかわらず、それを認めようとしない。つまり、

「改憲したいが親米」「護憲だけど反米」、という保守と革新のねじれた対立関係が生じている。 

★冷戦構造は崩壊したことから、そろそろ「対米自立の保守」が出てきてもいいかとは思う。 保守とリベラルの議論はあるが、本来はどちらもサイレントマジョリティーである国民を説得、納得させるべきである。すなわち、「日本は平和憲法があるのに日米安全保障条約があるのはおかしい」と考えながらも、平和憲法も日米同盟もどちらも必要と考える」層である。彼らは「押し付け憲法でも従属国でも経済が発展したのだからそれで良い」、と肯定しており、憲法改正にも安保破棄にも消極的。 

★第1作のゴジラは核兵器の象徴ともいえるべき存在であったが、なぜか「ゴジラがかわいそう」となり、人気者に。以後、ゴジラvs●●、という構図になった。 

★朝鮮戦争勃発でアメリカは一転して再軍備を求めるも吉田茂は拒否。「軍事力は経済発展の妨げになる」と考えていたからである。 

★吉田茂にとって1920年代の、欧米協調路線をとっていた日本が本来の日本であると考えている。軍部はもういなくなったのだから大日本憲法のままで良かった、というのが本音である。

【年表】1945年~1951年(日米安保)

  • 1945(S20) 東久邇宮稔彦→(わずか2ヶ月)幣原喜重郎(進歩党) 連合国軍の本土進駐 マッカーサーが東京にGHQ設置(※諮問機関として米英ソ中からなる「対日理事会」の諮問を得る必要があった。さらにオランダ、オーストラリア、インドなど11か国で構成される「極東委員会」による管理もあった。これらがアメリカにとっては厄介。日本を自陣営に引き込む方向に。※ドイツは直接統治されたのに対して日本は間接統治) 財閥解体 女性参政権 労働組合法 第1次農地改革(→GHQからやり直し勧告。第2次へ。もっとも農地改革などは食糧増産の必要性から戦前から準備されてはいた)
  • 1946(S21) 幣原喜重郎→吉田茂(自由党) 天皇の人間宣言(ソ連、イギリスらは天皇制自体を否定していたが、アメリカは間接統治を容易にするために残した方が良いと判断。) 第2次農地改革(経済の民主化を目指す。) 極東国際軍事裁判(東京裁判)開始 日本国憲法公布
  • 1947(S22) 吉田茂→片山哲(社会党) 労働基準法 独占禁止法(→巨大企業が分割) 日本国憲法施行
  • 1948(S23) 芦田均(民主党)→吉田茂 東京裁判判決 大韓民国・朝鮮民主主義人民共和国成立
  • 1949(S24) 吉田茂 中華人民共和国成立
  • 1950(S25) 吉田茂 朝鮮戦争(~1953) 警察予備隊設置(→1954自衛隊)
  • 1951(S26) 吉田茂 サンフランシスコ講和条約・日米安全保障条約(全面講和が正論であるが、冷戦の壁を考えると片面講和でも主権回復の方が大きい)