~「もう一つ上の日本史」出版に伴い、勉強方法も変える必要が出たので、全面改訂突入します~

☞【外交編1。外交の敗戦はなぜ起きたか】『日本人はなぜ戦争へと向かったのか(上)』(NHK取材班、2011年、)

日本人はなぜ戦争へと向かったのか(上)』(NHK取材班、2011年、NHK出版)

図書館でみかけた。2011年のものとちょっと古めではあるのだが、知らなかったことも多々あり。上巻は「外交」と「陸軍」について書かれる。少し編集し直して、個々の事例について羅列してみたい。

2015年に新潮文庫より文庫版が発売。dvdも販売中。

第1章:外交・・・世界を読み違えた日本

満州事変から内田外相の「焦土演説」、そして「場当たり的な」国際連盟脱退へ。なぜこうなってしまったと思う。

【満州事変】

1931年9月18日、柳条湖で日本の経営する南満州鉄道の線路が爆破された。関東軍はこれを中国側による破壊工作とみて、武力攻撃を開始した。5ヶ月でほぼ満州全域を支配し、翌年には傀儡国家である「満州国」を独立させた。

【日中の対応】

幣原喜重郎外相 日中間の直接交渉による問題解決を主張
中華民国国民政府 国際連盟に提訴(9/21)
国際連盟理事会 日本に対して軍の撤兵要請を採択(9/30)
若槻禮次郎内閣 国際連盟理事会の採択を受けて撤退方針を打ち出すが、それは日中直接交渉による大綱協定の取り決めを先決事項とするとしたため、即時撤兵は履行されず
国際連盟総会 日本軍がなかなか満州撤兵しないので、国際連盟理事会から国際連盟総会へと場が変わった(1932年)

※国際連盟連盟理事会とは英仏独伊日の常任理事国に9カ国の非常任理事国を加えたもの。

【国際連盟総会】(1932年12月6日~)

アイルランド 「日本は明白な国際条約違反である」
スイス 「大国だからといって力を好きに行使してよいはずはない」
スペイン 「この侵略を黙認すれば連盟の威信は地に落ちる」
日本(松岡洋右) 各国からの非難は予想通り。日本の軍事行動の正当性を主張。

※少々連盟で悪口を言われても、連盟内にとどまってくれと言われており、松岡自身もそのつもりであった。
イギリス 当時、失業人口の増大に悩まされており関心は国内。また、イギリス自身が世界各地に植民地をもっていたため、日本の行為の否定は自らに跳ね返る危険性があった。

「事態の収拾に失敗すれば、われわれイギリスが一番失うものが大きい。われわれの全極東政策は日本の善意に依存している。」

「われわれの政策は対日宥和。制裁などは認めない。」

「中国は自分の本分を尽くせ。連盟や英米ばかりアテにするな」

(ジョン・サイモン外相)
フランス 隣国ドイツの再拡大への懸念と軍縮問題のため、関心は国内。
ドイツ 莫大な戦後賠償と債務、財政危機のため、関心は国内
日本国内世論 楽観。

「国際連盟というものは言論でワーワー騒ぐのであって、力をもってやって来るというようなことはない」(鈴木貞一陸軍省幹部)

※列強は、欧州における「公平な調停者」となりうる日本ともめることは好ましくないと考えていた。

【イギリスの助け舟をぶちこわす内向きの論理】

審議4日目の夜、サイモン外相(英)が日本代表団に秘密裏に妥協案を提示した。中国に直接利害を持つ国で小委員会をつくり、建前論を越えて、実質的な解決を協議しようというものだった。

日本だけが古い「力の外交」をすると極東情勢は一気に不安定化する。日本にある程度、身を取らせて事態の収拾を図ろうとした。

しかし、日本は満州国誕生に沸く国内世論、熱河作戦を要求する関東軍に迎合する形で、イギリスの妥協案を避けてしまう。

内側にしか目が向いていない組織は必ず亡びる、と誰かが言っていたっけ。

イギリス リットン調査報告をもとに、名は中国に、実は日本に、日本はこれ以上中国で手を広げないということで幕引きを図った。
松岡洋右代表 このままでは日本が孤立すると、イギリスの提案の重要性を理解し、妥協案に応じる構え。

(しかし、内田康哉の焦土外交宣言を聞いて)

「国を焦土にする外交がどこにある・・・!」
内田康哉外相 「国を焦土としても満州国承認は揺るがない!!!」(焦土外交)

「連盟に事態を静観させ、このまま満州問題から手を引かせよ!!!」
外務省内 内田外相は強引過ぎるのでは・・・

部下たちは内田外相に反対。
国内世論 満州国誕生に沸く。さらには満州国併合を主張する過激派も。(そうなったら国際社会でやっていけなくなるという意見もあり。)
関東軍 満州国防衛の為に現地駐留を続けていた関東軍は境界地域である中国側の抵抗活動を危険視し、長城を超えて熱河地方へ軍事進出を独断で画策していた。

「戦をやっておるものが途中でやめると命に関わる。東京が許さんからといって見殺しにするわけにもいかないわけです」(中野良次関東軍参謀)
斎藤実内閣 1933年1月より「長城を越えなければ」という条件で熱河作戦を認める。

長城内なら満州国内の治安出動ということになり、国際問題にはならないだろうと希望的解釈

<リットン調査報告>

★リットン報告書は日本にとって実は日本にとって有利なものである。【コチラ:wiki

※報告書を読むと満州という地域の特殊性についても触れており、これまでの日本なくして満州の発展はなかったと日本に配慮していることがわかる。

※宗主権は中国であるが、現地経営を国際管理とし、日本人顧問の起用も盛り込んでいることは日本が実質を握ることを容認している。

★満州事変における日本側の反論を書いたのはイギリス人らしい。【コチラも

【場当たり的な方針転換で国際連盟脱退】

国際連盟 1933年2月はじめ、対日勧告の作成に入る
外務省 連盟規定により日本は経済制裁を科される恐れが出てきたことに気づく。しかし、熱河作戦を止めさせようとするものはいなかった。

→場当たり的に国際連盟脱退すれば良いという結論に。(脱退した国にわざわざ経済制裁をしないであろう。)
関東軍 熱河作戦やる気満々
政府 「連盟脱退論」という奇策にとびつく。代表団に方針の大転換を伝えた。
松岡洋右代表 「日本は断じてこの勧告(対日勧告)の受諾を拒否する!!!」

政府に言われたからしょうがないが、本音はできることなら連盟に残りたい・・・(失望)。

なぜこんなことになってしまったのだろうか・・・

※1932年1月28日の上海租界の日本人居留民保護を目的に日本海軍が武力介入し、中国軍と軍事衝突をした。この件と満州事変をあわせて、中国国民政府は国際連盟に規約第15条(連盟理事会の紛争審査を提訴)を訴えに加えた。

この規約15条には続く16条に関連条項があり、「15条による約束を無視して戦争に訴えたる連盟国は当然、他のすべての連盟国に対し戦争行為をなしたるものとみなす」とある。

そのため、対日勧告と熱河作戦が重なると16条適用により日本が経済制裁を受ける可能性が出てくるのである。

資源のない日本が貿易停止されると大ダメージである。

(※ちなみに第1次世界大戦でドイツが破れた原因の1つも経済制裁である。)

っていうか、やっぱり内田康哉外相が悪いんじゃないか・・・?「焦土演説」とかあり得ないだろう・・・。

♨もっとも、政治家も無策だったわけではない。安達謙蔵内相は政友会と手を組んででも強い政府として満州事変に当たろうとした【コチラ】。しかし、この方針が良いのかどうかはわからない。単独内閣で対応可能であると考えたのは幣原喜重郎であり、井上準之助。倉山先生は「憲政の常道」を守ったとして井上準之助を高く評価【コチラ】。

♨やっぱり、「日本という国に、日本という国と陸軍という国2つがあって、うまくいくはずがない」とは阿部信行首相。この言葉がもっともしっくり来るような気がする。

☞【防共協定は世界的なネットワークにするはずだった。】1936年の日独防共協定

【新主流派の面々】

ヴェルサイユ会議に派遣された日本代表団には何人もの俊英の若手外交官がいた。しかし、日本は五大国の一員として参加しながら世界という舞台で自らのビジョンを示すことができなかった。

その悲哀を胸に刻んだのが彼ら「新主流派」である。上の世代の英米協調主義を「原則がない」と批判し、軍のいいなりにもならない外交の一元化を目指した。

重光葵 1887-1957 大分県豊後大野市 東京帝国大学
有田八郎 1884-1965 新潟県佐渡市 東京帝国大学
吉田茂 1878-1967 東京都千代田区 東京帝国大学
広田弘毅 1878-1948 福岡県那賀郡 東京帝国大学

軍部とは頻繁に会合を開き、穏健勢力から「満州より先には手を出さない」という言質を引き出していた。これを軸に中国との関係を修復しようと試みた。

【1930年代半ば】:またしても日本の外交方針は分裂

政治 世界恐慌後は首相がめまぐるしく変動。二大政党制は過渡期を迎え、求心力を失っていった。
軍部 政府が頼りにならないため、軍部をはじめ各組織は独自の政策、独自の外交を展開し始める。

→「華北分離工作」(1935年5月、現地陸軍が対ソ防衛を理由として国民政府に対して中国北部からの退去を要求した)
外務省(新主流派) 対中関係を修復しようとしていただけに華北分離工作は寝耳に水

ただ、弱い中国、日本と協力したがっている中国というイメージは抱いていた

戦前の日本陸軍の暗号解読レベルは世界トップクラス。中国の軍事暗号はほとんど解読していた。1933年日中は停戦したが、国民党首脳陣が全く停戦協約を守るつもりがないことも解読していた

※明治憲法における政府の統治システムは、それぞれが収集した対外情報を枢密院で一元化し、そこで総合的にとりまとめられた判断が、元老という強力な指導者のもと国家方針として実現されていた。しかし、大正、昭和となり、元老が消滅。その役割を担うはずの政党内閣は弱体化。

【防共外交という発想が生まれた】

重光葵 (現地軍が中国に出した要求を)
「日本と中国が共同でソ連に備えるため」と説明してはどうだ?!(【防共外交】という発想。)
有田八郎 防共外交に賛成し、推し進める

まずは中国に、さらには世界へと。

ドイツへの接近を考えた陸軍に対して、「ドイツとだけ結ぶのはまずい」として、多国間にわたる「防共ネットワーク」を作ろうと試みた

もちろん英米とは対立回避

※「うっかり陸軍のいいようなふうにばかり考えていたらとんでもないことになってしまう」(安東義良外相秘書官)
大島浩 ベルリン駐在陸軍武官。ヒトラーとも交流。対ソ戦略にドイツの軍事力利用を考えてナチスに接近。【コチラも:昭和史講義

【防共外交の進展】

陸軍のドイツだけに接近することを阻止するために防共ネットワークにイギリスを参加させることを考えた。有田八郎の命を受けて吉田茂駐英大使がイギリスとの交渉に臨む。

陸軍 反対。
有田八郎 とにかくドイツとイギリスの交渉を同時スタート!
吉田茂 1936年7月30日より開始。

「イギリスは日本と協力して防共にあたるよう中国に説得して欲しい。ゆくゆくはイギリスも加わって欲しい。」

→そのうち、イギリスに中国の共同経済開発を打診するなど本国の意思とは異なる独自の交渉を行う
イギリス
(イーデン外相)
「中国も了解しているのか?1つ間違えれば世界を割るぞ?」

・当時、ソ連とは良好関係
・特定のイデオロギー勢力には参加しない方針

→(吉田と本国の対応が異なることで)
日本側の意図がわからない。まともに相手をする必要はない。」
大島浩 最初からイギリスが防共協定に消極的なことをつかんでいた (ヒトラー自身はイギリスびいきで、初期から対ソに備えてイギリスの抱きこみを検討していたが断念)
蒋介石 この時すでにソ連とも接近しており、華北分離工作と防共協定交渉を行う日本に不信感を募らせていた。対日穏健派の汪兆銘を失脚させ、中国共産党とは関係改善を模索。
ソ連 中国共産党にも国民党との対日統一戦線の結成を指示していた

元々は孤立を回避しようと行われた防共外交であったが、華北の状況を元に戻す、満州を元に戻すという議論は出ることはなかった。他国との信頼関係を築くにあたって、陸軍も外務省も大差はなかった。内部も統制できないことで、かえって日本への信頼を喪失させた。

結果としてドイツとだけ交渉が進み、1936年11月25日、日独防共協定が成立

♨防共協定はイギリスとも交渉していたということは知らなかった。

【日独防共協定締結後の反応】

ソ連 当然、怒り。
イギリス 共産主義化を警戒しているはずだろうと思っていたが、それよりも思っていた以上にドイツ嫌い(そしてそれに協力した日本も嫌い)ということが判明
中国 日中戦争に突入。
アメリカ ルーズヴェルトによる隔離演説で日本とドイツを「疫病」扱い。(1937年10月5日)
日本 欧米との対立が激化した1940年、外相に就任した松岡洋右が事態打開の切り札としたのはドイツとの結びつきをさらに強める日独伊三国同盟であった。

※日本は定まった国家戦略をもたずに、甘い想定のもと、次々に起こる事態への対応に汲々とした。誰が情報をまとめ、方針を決めるのか不定なまま進み、一度決まったことも覆す。これでは孤立するのも無理はない。

鈴木貞一(企画院総裁)

「日本には、計画的なものは1つもない。それは今でもそうだ。そのときに起こってくる現象に沿っていろんなことをやるだけだ。だから日独同盟を結んで、そして日独同盟の力でアメリカに対抗しなきゃということだが、それが結局裏目に出た」

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