
3名の論説を紹介。
☞【1930年代 日本を支配した空気】(井上寿一先生)
【満州事変と政党政治】
「二大政党制は短期間であるものの、8年続いた。いろいろ問題点が出て、これから枠組みを再編成しないといけないという時期に満州事変が起きてしまった。」
【どうすれば満州事件拡大を防げたと思うか?】
「民政党と政友会が協力内閣を実現し、さらにアメリカと連携して経済制裁発動をちらつかせること。当時も日本はアメリカへの経済依存度が高く、世論をコントロールできる可能性があった。」
♨協力内閣については反対意見も。【コチラ】
【リットン調査団】
「調査報告書は“和解の書”と呼ばれている。既に起きたことを元に戻せとは言っていない。リットン調査団員は日本に好意的な人が選ばれており、メンバーは朝鮮人独立運動家などにより暗殺計画もあった。」
【なぜ、満州国承認にこだわったのか?】
「外交官たちも政府の方針には反対していた。しかし、満州国を立派なものにしていくという、満州こそフロンティアだという国内世論を押さえられなかった」
※リットン調査団のメンバーの1人は、
「日本は満州国承認まで行くかも知れないが、それ以上、中国本土を侵略することはないだろう。国際連盟的には死活問題ではない。」と記している。
【なぜ対外戦略が一元化できなかったのか?】
「分権制が強かった。そしてその上に立つ天皇は個別の政策の意思決定には責任を問わないことになっていた。何もしないと何も動かない、というのが日本の政治。それを動かしていたのが藩閥であり、その次は元老、その次は政党、となるはずだった。」
【各国の挙国一致体制】
イギリス・・・二大政党制であるにも関わらず、マクドナルド首相による挙国一致内閣成立
アメリカ・・・民主党であるけれど、ニューディール連合という形で挙国一致内閣的なものが成立
【1933年~1935年の評価】
「1933年5月の日中停戦協定で満州事変は区切りがついた。ここから新たな道を行くこともできた。1933年~1935年の3年間は模索の時期であったが、日本は政党が力を合わせて危機を乗り越えることができなかった。1935年が分岐点であった。」
♨わたしも1935年が分岐点とみております。
【1935年の華北分離工作】
「長城でとどまっていれば国際連盟もやむをえない、ただ中国本土に手を出せば大変なことになる、と思っていたのに、その大変なことになりそうなことをわざわざやった。」
→おかげで蒋介石の国共合作につながる。もちろん敵は日本。
【⇒武藤章】
【1935年の天皇機関説問題】
「天皇制のタブーに触れるような問題が岡田内閣を窮地に追い込んだ。政権が弱くなっているのを見透かして華北分離工作が行われた」
【1935年の蒋介石】
「満州のことは問わない」とまで譲歩した。ここで中国の経済提携に協力していれば良かったかも知れないが外務省からそういう案は出ない。逆に強気に出ても良いと思った人もいた。
※外交の場面では、譲歩には譲歩で応じるべき。
【なぜ陸軍は執拗に外交の足を引っ張ったか?】
「軍部の中にも国家社会主義のような日本に変えようとする気運があった。」
【外務省革新派】
「軍部と連携しなければ外交できない、と考える若手が増えた。英米協調はお年寄りの外交路線、とも言われた」
【アメリカ】
「“アメリカは国内で忙殺されている”、という考えが、“アメリカのことは考えなくても大丈夫”、という誤解を生んだ」
【ドイツ・イタリア】
「新しいライフスタイルを創出した国と惹かれる人が増えた。」
「伝統的な外務省の路線でいえば、ドイツとの連携はあり得ない。学問、文化、芸術の影響は受けたが、第1次世界大戦では敵国だし、中国の蒋介石軍はドイツ式。むしろ仲が悪いくらい」
【防共協定】
「実際は情報交換をする程度。当時、日本の共産主義運動は壊滅的な打撃を受けていて転向が相次いでいた」
☞【外交に活かせなかった陸軍暗号情報】(小谷賢先生)
【日本の暗号解読能力】
「戦後、暗号解読に関わったものは死刑にされるという噂が流れたのであらゆる証拠が消された。2000年頃になってようやく資料が出始めたが、これまで言われていたような弱いものではなかった」
※各国とも暗号解読は行っていたが、イギリスでも解けなかったアメリカの複雑な暗号(ストリップ暗号)を日本陸軍が解いていたという。日本陸軍は暗号解読能力が高く、最初はソ連、中国をやっていたが、次第にアメリカ、イギリス、フランス、ドイツも解けるようになっていた。
【共有されない情報】
「陸軍は国民党の外交暗号はだいたい解いていた。しかし、外務省の暗号解読能力は高くなかった。日露戦争時には福島安正を長とする海外情報編纂委員会というのがあり、ここで軍部の情報を統合して方針を立てていたが、昭和になると軍部と外務省の縦割りが進み、情報共有ができなくなっていた。」
【情報の集め方】
「陸軍は軍隊組織ですから、“日本に抵抗する中国像”のようなものばかり集めてしまった」
【首相には情報が入らない】
「1933年以降、外務省は国民党の親日派と提携路線を進めるが、現地軍は国民党を信用しない方向へいく。驚くことに首相には情報が入らない」
【組織間対立】
「イギリスは平時から横のつながりがあった。追及すれば教育に遡る。イギリスのエリートは全寮制のパブリックスクールを出てからケンブリッジかオックスフォードに進み、同じ釜の飯を食べて軍人や政治家、官僚になる。日本は士官学校→陸軍大学校、かたや兵学校→海軍大学校なので、陸海軍が協力できる状況にない。」
【三国同盟締結】
「三国同盟締結時は“自分に都合の良い情報しか集めない”、というレベルを超えて“思考停止”」
☞【変化していた世界帝国主義・遅れた日本の対応】(アントニー・ベスト先生)
【イギリスの現実主義】
「日本はイギリスなら反共であろうと思っていたが、実際にイギリスが行っていたのは利害得失の打算。もっともかなうことは日本とソ連が相互に敵対し続けることだった。日本とソ連が満州で対峙していれば日本は南部に進出しないし、ソ連もインドに進出しない」
【イギリスの失望】
「日本は暗殺で政治を動かすようになったのでイギリスはその政治的不安定さから国際パートナーとしてふさわしくないと感じるようになった」
「国際連盟は期待の星であった。そのことを日本は理解できなかった」
【イギリスの共感】
「中国は1925年以降挑発的な勢力で、イギリスは上海を守るために1万5000人を派遣している。」
【次章は陸軍編1】