~「もう一つ上の日本史」出版に伴い、勉強方法も変える必要が出たので、全面改訂突入します~

【石原莞爾】

★石原莞爾は稀代の天才であったか、傲慢な軍人であったかは評価が分かれる。

★満州事変を指揮して成果を上げたが、逆にこのことを引き合いに部下たちが同じことをしようとする事態に。日中戦争の拡大を食い止められず参謀本部を辞任。

★宇垣内閣を流産させたことは本人も後悔。

【武藤章】

★優秀な官僚であったことは間違いない。しかし、功を焦ったか、上司である石原莞爾に刃向い、日中戦争拡大。逆に日米開戦時は、田中新一からのつきあげをくらった。

最新の研究によると、二二六事件の青年将校たちが最終的にあてにしていたのは石原莞爾だったらしい【コチラ】。石原莞爾についてはもう少し知りたいと思った。人物そのものがあまりにマンガチック、というかマンガよりすごい。今後のさらなる研究が待たれる。

【石原莞爾】

写真はwikipediaより引用

略年表

1889 山形県庄内に生まれる。父親は警察官で転勤も多かった。
1909 陸軍士官学校卒業。(21期)
1915 連隊長からほぼ無理やり陸大受験させられる。勉強を全くしなくても陸大合格。
1918 陸大卒業。(30期)

本来なら首席であったが、何らかの点がマイナスされて2位。(※1)
1920 国柱会会員となる。(※2)
1922 ドイツ駐在。
1929 一夕会に参加。
1931 満州事変を首謀

なぜ満州事変を起こしたのか。昭和陸軍の軌跡は必見!!
1935 参謀本部作戦課長に就任。
1936 内蒙工作で武藤と対立。(※3)
1937 広田内閣総辞職後、宇垣一成が首相になる動きがあったがこれを阻止する工作を行う(※4)。自身は日中戦争の拡大を阻止できず、参謀本部辞任、関東軍へ
1938 東條英機により罷免(※5)。

満州からも転出。
1941 第16師団長になっていたが東条英機陸相により予備役に編入。太平洋戦争突入。(※6)
1949 病死(※7)。

(※1)態度などや、佐幕であった庄内藩出身であったからという可能性も。陸大には珍しい戦略家タイプであったが、下戸であること、すぐ反論することなどから軍人からの評判は決して良くはない。

(※2)日蓮宗の流れをくむ。

(※3)世界情勢を鑑みて内蒙工作の中止を命令するも、「満州事変で貴方がやったことです」と武藤から言われ、将兵たちからも笑われて絶句。武藤は永田鉄山の考えに固執したことと、軍功を焦ったか?【コチラも

(※4)のちにこのことを深く後悔した。宇垣であれば陸軍に歯止めが効いた可能性があった。

(※5)東条とは全くかみあわない。もっとも、皇道派である荒木貞夫、真崎甚三郎といった上官相手でも間違っていると思えば大声で怒鳴った。

(※6)太平洋戦争には「油が欲しくて戦争するバカがいるか」と反対。ドイツがソ連に勝てないことも見越していた事態打開案は奇しくもハル・ノートとほぼ一緒。ガダルカナル島の戦いにおいて海軍大佐であった高松宮宣仁親王の求めに応じて打開案を披露する(↓)が、重光葵米内光政らの反対もあり実現せず。

※ガダルカナル島からの撤退、ソロモン諸島の放棄、サイパン、テニアン、グアムの要塞化と攻勢終末点(西はビルマ国境から、シンガポール、スマトラなどの戦略資源地帯を中心とする)及び東南アジアとの海上輸送路の確立をすれば負けないと進言

(※7)本人は自分が戦犯になると覚悟していたが、反東条であったことから追訴されなかったか。幼少より病弱でたびたび入院していたが、最後は膀胱癌に肺炎などを合併して死去。

【まとめ】

★石原莞爾が稀代の天才であったか、傲慢な軍人であったかは評価が分かれる。

★満州事変を指揮して成果を上げたが、逆にこのことを引き合いに部下たちが同じことをしようとする事態に。日中戦争の拡大を食い止められずに参謀本部を辞任。

★宇垣内閣を流産させたことは本人も後悔。

♨【昭和陸軍の軌跡】を読むと、故・永田鉄山の方針として内蒙工作、対中強硬という考えがあるのだが、石原莞爾は世界情勢を考え(思ったよりソ連が強大であり、日中戦争を拡大して国力を疲弊させている場合ではない)、永田の考えを変えたつもりであったが、凡才には通じない。自分が抜擢した武藤に噛まれる形でシナ事変の拡大を止められず。

♨ちなみに、関東軍は条約のため1万しか置けなかったことに対して、奉天軍は45万。

♨二二六事件における石原莞爾の立ち位置については【コチラ】。

【武藤章】

つづいて武藤章。おそらく高校日本史Bあたりでは覚えなくても良いが、東京裁判で死刑になったことはチェック。彼一人の責任ではないとは言え、日中戦争を拡大させたこと、南進を選択したこと、日米開戦を止められなかったことで、歴史に名を刻むことになったのは、残念。

写真はwikipediaより引用。

略年表

1892 熊本県の地主の家に生まれる。
1913 陸軍士官学校卒業(25期)。冨永恭次、田中新一は同期。
1920 陸大卒業。(32期)橋本欣五郎が同期。(※1)
1923 ドイツ駐在。(~1926)(※2)
1929 一夕会に参加。
1936 内蒙工作をめぐって石原莞爾と対立
1937 日中戦争拡大。石原莞爾と対立。(※3)
1941 対米開戦にあたり、同期の田中新一、部下の佐藤賢了からの突き上げを喰らう
1942 東条と対立して更迭。
1948 死刑。57歳。(※4)

(※1)この時の論文が「クラウゼヴィッツと孫子の比較分析」というもので優れていると評判。石原が作戦部長の時に武藤を作戦課長として採用したのはこういうところであったか。もっとも、人事畑の武藤を呼んだことで日中戦争拡大に至ってしまったが。

(※2)のちに田中新一と意見が合わなくなったのはドイツ駐在時期かも知れない。武藤の駐在時代はヒットラーはまだ失敗を繰り返していた時期であったが、田中新一の駐在時期はヒットラー絶頂期。そのため武藤がドイツに対して懐疑的な姿勢をとっていたのに対して、田中はその反対。

(※3)1年後に現地を訪れた際は自省の念を抱いていたという。

(※4)田中隆吉(26期)から「軍閥専横の権化として強硬に対米開戦を主張」と明らかに誤ったレッテルを貼られてしまう。「私が万一にも絞首刑になったら、田中の体に取り憑いて狂い死にさせてやる」と語ったが、田中隆吉は晩年「武藤の幽霊が現れる」と精神不安定の状態に陥った。

【まとめ】

★優秀な官僚であったことは間違いない。しかし、功を焦ったか、上司である石原莞爾に刃向い、日中戦争拡大。逆に日米開戦時は、田中新一からのつきあげをくらった。

♨どうも、「残念な」印象がぬぐえない。ちなみに「昭和陸軍の軌跡」によれば、石原辞任後は基本的に武藤と田中で事が進んでいて、東条英機は満州にいたから、オリジナリティのある意見はなく、追認するだけだったようだ。日米開戦、何とかならんかったのか、と改めて思う。

次章は栗林忠道・今村均・本間雅晴編