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☞【1万vs45万を可能にした】『§1-3.天才戦略家の光と影』(石原莞爾・武藤章)

こんにちは。

満州事変」の首謀者、石原莞爾とはどんな人物でしょうか。

昭和陸海軍の失敗」(2007年、座談会)などを参考にさせて頂きました。

「光」とは満州事変の頃であり、「影」とは日中戦争の拡大を止めることができなかったことでしょうか。

【石原莞爾】

★「稀代の天才」か、「傲慢な軍人」か評価が分かれる。

★満州事変を指揮して成果を上げた。

★しかし、のちにこれを引き合いに部下たちが暴走。日中戦争拡大を食い止めることができず、参謀本部を辞任。

★宇垣内閣を流産させたことは本人も後悔。

【年表】出生(1889年)~満州事変(1931年)

1889 山形県庄内に生まれる。父親は警察官で転勤も多かった。
1909 陸軍士官学校卒業。(21期)
1915 連隊長から無理やり陸大受験させられる。
全く勉強しなかったが合格。
1918 陸大卒業。(30期)
本来なら首席であったが、何らかマイナスされて2位。(※1)
1920 日蓮宗の流れを汲む「国柱会」会員となる。(※2)
1922 ドイツ駐在。
1929 前身の木曜会を経て一夕会に参加。(※3)
1931 満州事変を首謀 (※4)

(※1)天才エピソード

大体、こういう人は「天才エピソード」をもっていますね・・・。

陸大には珍しい「戦略家タイプ」でしたが、下戸であること、すぐ反論することなどから上司からの評判は決して良くありませんでした。

また、佐幕の庄内藩出身であったから嫌われたという可能性も指摘されております。

(※2)国柱会

意外なところで「雨にも負けず」「銀河鉄道の夜」「風の又三郎」などで知られる宮沢賢治(1896-1933)も国柱会会員です。

ちなみに創価学会は国柱会の影響も受けているようですね・・・

ほか、日蓮宗というと、血盟団のような過激な組織も数えられます。

(※3)一夕会、満蒙領有論

1928年3月1日の第5回木曜会(一夕会の前身)会合でも話し合われましたが、石原はすでに「満蒙領有論」をもっていました。

中国もアメリカも満蒙に国力を賭して戦わないであろう、英国とは軍事以外の方法で解決可能と判断しております。

ちなみに、その頃の中国政策は
①満蒙特殊地域論(田中義一ら)、
②国民政府統一容認論(浜口雄幸)、
③満蒙分離論(関東軍)

がありましたが、「満蒙領有論」はどれとも異なりました。

1928年頃の中国情勢

(※4)満州事変

関東軍作戦主任参謀として満州に赴任しますが、この時に「柳条湖事件」からの「満州事変」を首謀します。

関東軍は条約のため「1万」しか置けませんでしたが、奉天軍は45万。

しかし次々に占領地を増やします。

【年表】参謀本部時代(1935年)~死去(1949年)まで

1935 参謀本部作戦課長に就任。
1936 内蒙工作で武藤と対立。(※5)
1937 広田内閣総辞職後、宇垣一成が首相になる動きを阻止(※6)。

自身は日中戦争の拡大を阻止できず、参謀本部辞任、関東軍へ
1938 東條英機により罷免(※7)。

満州からも転出。
1941 第16師団長になっていたが東条英機陸相により予備役に編入
太平洋戦争突入。(※8)
1949 病死(※9)。

(※5)部下の暴走

日本で参謀本部付けとなりましたが、武藤章の「内蒙工作」を中止させることができました。

武藤は永田鉄山の考えに固執したのかも知れませんが、永田鉄山が生きていた頃とこの時点では既に世界情勢が変わってしまっていました。

中止の命令を受けた武藤は「満州事変で貴方がやったことです」と石原に言い、将兵たちからも笑われて石原は絶句したと言います。

武藤も軍功を焦っていたかも知れません。

永田鉄山は「内蒙工作、対中強硬」方針でしたが、石原莞爾は想像以上にソ連が強大であることを鑑みて、日中戦争拡大で国力を疲弊させている場合ではないと考えました。しかし、その考えは「凡才」には通じませんでした。武藤章は自分が抜擢した相手でもありましたが。

その後、泥沼の日中戦争へ続く流れを止めることができませんでした。

(※6)宇垣内閣実現阻止

軍部寄りの政治を行なった広田弘毅でしたが、政友会・浜田国松は寺内陸相に「腹切問答」を仕掛けて国会が荒れます。

解散総選挙も提案されましたが、広田内閣は総辞職となりました。

後継に西園寺公望、湯浅倉平は宇垣一成を推挙しましたが、元々長州閥の流れを受ける宇垣を嫌っていたこともあり、石原らは陸軍から大臣を推挙しないという方針をとり、宇垣内閣を流産させました。

しかし、宇垣であれば陸軍に歯止めが効いた可能性があったと考えるようになり、のちに石原は深く後悔したと言います。

(※7)東条とは全くかみあわない。

ともに一夕会に参加していたとはいえ、天才肌の石原と、庶民のゴミを調べるような東条が合うはずありませんでした。

もっとも、石原は荒木貞夫、真崎甚三郎といった皇道派の重鎮相手でも、相手が間違っていると思えば大声で怒鳴るようなキャラクターの持ち主でした。

(※8)「油が欲しくて戦争するバカがいるか

と、太平洋戦争には反対。

また、ドイツがソ連に勝てないことも見越していました

事態打開案として出したものは奇しくもハル・ノートとほぼ一緒でした

「ガダルカナル島の戦い」においては海軍大佐・高松宮宣仁親王の求めに応じて打開案を披露しましたが、重光葵米内光政らの反対もあり実現しませんでした。

※「ガダルカナル島からの撤退、ソロモン諸島の放棄、サイパン、テニアン、グアムの要塞化と攻勢終末点(西はビルマ国境から、シンガポール、スマトラなどの戦略資源地帯を中心とする)及び東南アジアとの海上輸送路の確立をすれば負けない」と進言

(※9)「日本の罪を突き詰めたいならペルリを呼んでこい」

東京裁判を茶番と激怒。

本人は自分が戦犯になると覚悟していましたが、反東条であったことから追訴されなかったのでしょうか。

また、幼少より病弱でたびたび入院していたが、最後は膀胱癌に肺炎などを合併して死去。60歳。

【おまけ】二二六事件

二二六事件時に石原莞爾は参謀本部にいて鎮圧する側でした。

しかし、最新の研究によりますと、二二六事件の青年将校たちは石原莞爾をあてにしていたという説もあるようです。

さらには二二六事件を利用して、鎮圧後も居座る「カウンタークーデター」を狙っていたという説もありますね。

だとすれば、やっぱり相当な策士。

【武藤章】

武藤章も紹介します。

(高校日本史Bあたりでは覚えなくても良いでしょう)

彼一人の責任ではありませんが、石原に歯向かって日中戦争を拡大させたこと、南進を選択したこと、日米開戦を止められなかったことが残念。

東京裁判で死刑になりました。

官僚的には極めて優秀。イメージ的には「永田鉄山・石原莞爾になれなかった男」。

【年表】武藤章(1892-1948)

1892 熊本県の地主の家に生まれる。
1913 陸軍士官学校卒業(25期)。冨永恭次、田中新一は同期。
1920 陸大卒業。(32期)橋本欣五郎が同期。(※1)
1923 ドイツ駐在。(~1926)(※2)
1929 一夕会に参加。
1936 内蒙工作をめぐって石原莞爾と対立
1937 日中戦争拡大。石原莞爾と対立。(※3)
1941 対米開戦にあたり、同期の田中新一、部下の佐藤賢了からの突き上げを喰らう
1942 東条と対立して更迭。
1948 死刑。57歳。(※4)

(※1)この時の論文が「クラウゼヴィッツと孫子の比較分析」というもので優れていると評判。石原が作戦部長の時に武藤を作戦課長として採用したのはこういうところであったか。もっとも、人事畑の武藤を呼んだことで日中戦争拡大に至ってしまったが。

(※2)のちに田中新一と意見が合わなくなったのはドイツ駐在時期かも知れない。武藤の駐在時代はヒットラーはまだ失敗を繰り返していた時期であったが、田中新一の駐在時期はヒットラー絶頂期。そのため武藤がドイツに対して懐疑的な姿勢をとっていたのに対して、田中はその反対。

(※3)1年後に現地を訪れた際は自省の念を抱いていたという。

(※4)田中隆吉(26期)から「軍閥専横の権化として強硬に対米開戦を主張」と明らかに誤ったレッテルを貼られてしまう。「私が万一にも絞首刑になったら、田中の体に取り憑いて狂い死にさせてやる」と語ったが、田中隆吉は晩年「武藤の幽霊が現れる」と精神不安定の状態に陥った。

♨「昭和陸軍の軌跡」によれば、石原辞任後の中央は武藤と田中が中心で、東条英機は満州にいて中央から遠ざかっていた期間が長かったことから、オリジナリティのある意見はなく、追認するだけだったようです。

優秀な官僚であったことは間違いない
功を焦ったか、上司である石原莞爾に刃向い、日中戦争拡大
逆に日米開戦時は、田中新一からのつきあげをくらった

次章は栗林忠道・今村均・本間雅晴編