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☞【結局、どうなの?】「1932年10月2日、リットン報告書」(『満州建国の真実』§7)

こんにちは。

今回ご紹介しますのは、1932年10月2日に提出された「リットン報告書」についてです。

「リットン報告書」を不服として国際連盟脱退――。

と覚えている方もいるかも知れませんが、近年は、「リットン報告書は日本の利権に配慮されたものだった」と言う論調の書籍が多数刊行されております。

一体、どっちなんでしょうか。

以下、「昭和陸軍の軌跡」、「教養としての昭和史集中講義」、「戦争とファシズムの時代へ」、「満州建国の真実」第7章「国際連盟からの脱退」などを参考にさせて頂きます。

【年表1】「リットン調査団」が派遣されるまで(1931.9.18~1931.12.10)

1931.9.18柳条湖事変をきっかけに満州事変勃発
1931.9.19蒋介石、国際連盟に訴える
1931.9.21朝鮮軍、関東軍支援のため独断で越境
1931.9.22国際連盟が日中双方に事態不拡大と撤兵を通告
1931.10.8関東軍、錦州爆撃(張学良の本拠地)
1931.11関東軍、チチハル(北満)攻勢
※若槻、幣原を英米は信頼して融和的でしたが、このあたりから潮目が変わります。
1931.11.29幣原外相の説得で錦州から引き上げ
1931.12.10日本からも依頼があり調査団派遣決定
★調査団は国際連盟自身のアイデアではなく、日本政府からの依頼もありました。

【関東軍@満州】

「治安の悪い満州を占領して五族協和・王道楽土を作る」
「日本政府は頼りにならない」
「ソ連を食い止めるために地理的に満州は必要」
「来るべき総力戦に向けて満州に眠る資源は必要」
「日本人の入植先としても満州は必要」

【日本政府】

「国際的に承認されないだろう、関東軍の暴走を止めなければ」
「なかなか止まらないので国際連盟に委ねよう」

【中華民国】

「満州は中国の一部である、これは許されない」
「しかし、本来の敵は共産党である、国際連盟に委ねよう」

【アメリカ国務長官スティムソン】
「既に自衛の範囲を超えているし、中国の自衛を定めた九カ国条約にも違反している」

【日本国内】
「満州国建国には反対・・・だけど、錦州攻撃中止がスティムソンによる圧力だとしたら統帥事項に関わる、許せん!」

【年表2】「リットン調査団」派遣決定から到着まで(1931.12.10~1932.2.29)

1931.12.10調査団派遣決定
1931.12.13若槻内閣総辞職に伴い犬養内閣誕生
1932.1.3関東軍、錦州占領
1932.1.14調査団、リットン卿(イギリス)らに決定
ほか、フランス、イタリア、ドイツ、アメリカから委員が選ばれる。
※この時期、アメリカはオブザーバーとして国際連盟に参加。
1932.1.28第1次上海事変
1932.2.3調査団、出港
1932.2.5ハルビン占領
1932.2.29リットン調査団、東京に到着
日・満・支の調査開始
★若槻内閣は「不拡大方針」を宣言しましたが、その方針が一貫性を欠き、関東軍の戦線拡大を許します。

★最終的に若槻内閣は「閣内不一致」となり総辞職します。

【若槻内閣】

「不拡大としつつも、南満州軍事占領と現地における新政権樹立容認が国際社会で受け入れられるギリギリのラインではないか。」
「政友会と協力内閣で立ち向かうべきではないか?(協力内閣構想)」

【陸軍中央@東京】

「北満州への派兵は反対」

【関東軍@満州】

「満州全部の制圧を考えている。」
「満蒙を独立国として保護国とする方針が政府に受け入れられなければ、一時日本の国籍を離脱して目的達成に突進する(石原莞爾)」

【リットン調査団】

「我々は和解のために来たのです。メンバーの中には親日派もいたため、暗殺計画もあったほどですよ。」
「まあ、日本は長城以南は絶対に攻めない、というのが落とし所ではないのでしょうかね。あんまり日本を叩くと(もっとひどいことしている?)イギリスもやりにくくなりますし」

 

【年表3】「リットン調査団」調査開始から報告書発表まで(1932.2.29~1932.10.2)

1932.2.29リットン調査団、調査開始
1932.3.1満州国建国
1932.5.15五一五事件→斎藤実内閣へ
1932.8.25内田康哉外相による「焦土演説」
1932.9.15日満議定書で満州国承認
1932.10.1リットン調査団、報告書を国際連盟提出
1932.10.2国際連盟、リットン報告書を公表
★リットン調査団が調査中にも関わらず、満州国建国、そして満州国承認が行なわれます。

【リットン卿】
「はるばるやってきて、せっかく調査しているというのに、何してくれるんデスカ!!(激おこ)」

【内田康哉外相】(日本史史上サイアクの外務大臣説)
「満州国の承認です!」
「たとえ日本国を焦土にしてでも満州国承認の主張を通します!」

(♨ホントに焦土になったらどうすんだ・・・何言ってるんだ・・・)

【調査内容】「満州国の実情」

さて、その報告書の内容です。

報告書は荒木陸相(日本)、蒋介石、汪兆銘、張学良(支那)、溥儀(満州国)と会談および現地視察のうえ、作成されました。

以下、「満州国の実情」報告(一部)です。

①支那政府は満州に無関心だったのであり、満州の今日の発展は日本の努力による。

日本 ○
支那 ●

②人の住めない不毛の荒野だった満州の人口が増加したのは、日本の満州経営の成果である。支那政府の権力は微弱で、日本人の権利が保護されていない。

日本 ○○
支那 ●●

③日本は満州に、世界のほかの地域に類例を見ない多くの特殊権利を持っているから、満州事変は日本の武装軍隊が国境を侵略したという単純な事案ではない。

日本 ○○△
支那 ●●△

④満州事変は正当防衛とは認め得ない。しかし日本人将校等が自衛のために行動していると誤想して自衛活動を行なったという仮説は、排除し得ない。

日本 ○○△●
支那 ●●△○

⑤満州国は、日本の文武官の一団が独立を組織したものであり、満州人自身による自発的独立ではなく、在満支那人は満州政府を支持していない。

日本 ○○△●●
支那 ●●△○○

結果・・・日本:2勝2敗1分け(※独自判断です)

【調査結論①】「満州の実情」

報告書(一部)日本支那
①柳条湖事件及びその後の日本軍の活動は、自衛的行為とは言い難い。
②満州国は地元住民の自発的な独立とは言い難く、満州国は日本軍に支えられている。
③日本が満州に持つ条約上の権益・居住権・商権は尊重されるべきである。
④国際社会や日本は、支那政府の近代化に貢献する用意がある。

結果・・・日本:1勝2敗1分け(独自判断)

★支那の主張を支持しつつも、日本側へも「配慮」。

【調査結論②】「満州問題解決に向けて」

報告書(一部)日本支那
支那側が主張する「満州事変以前の状態へ戻すこと」は、問題解決にならない。
日本側が主張する「満州国の承認」は、問題解決とならない。
支那政府の主権下に満州自治政府を樹立し、支那政府が行政長官を任命する。満州行政長官は、国際連盟が派遣する日本人を中心とする外国人顧問の指導に従う。
満州は非武装地帯とし、国際連盟が指導する特別警察機構が治安の維持を担う。

結果・・・日本:1勝1敗2分け(独自判断)

【リットン卿および国際連盟】
「主権は支那として満州国非承認としつつも、日本の権益は認め、日本人顧問も入るのだから日本も満足できる内容であろう。」
「日本の権益も認めるということは、他の列強の権益も引き続き認めるということ。」

【内田康哉外相および世論】
「われわれの目標は本音では満州占領。でも、さすがにそれはまずいので、満州国承認で手を打ちたい!不服、不服!」

【石原莞爾】
「私は以前は満蒙領有論を掲げておりましたが、満蒙独立論、すなわち満州に独立した政権が出来ることを目標に変更しました。そういう面では国際連盟による管理下というのは悪くないのかな・・・、戦うべきはソ連だし。」

【年表4】リットン報告書公表から日本の国際連盟脱退まで(1932.10.2~1935.3.27)

1932.10.2リットン報告書公表
1932.12.8国際連盟総会開幕
松岡外相「十字架演説」
1933.2.24リットン報告書の採択
賛成42、反対1(日本)、棄権1
松岡外相「堂々退場」

熱河作戦
1933.3.27日本、国際連盟から脱退通告
1933.5.31塘沽停戦協定
日本:長城以南は攻撃しない
支那:満州国の存在は黙認
1935.3.27日本、国際連盟から正式に脱退
★松岡外相は国際連盟総会開会時に日本の状況と後世で評価されたイエス・キリストを重ねた「十字架演説」を行ないました。(評価はイマイチ?)

★満鉄広報課は、日本が行なった大規模な開発援助の映画を上映しました。(評価は上々でした。)

★採択の結果を「不服」として松岡外相退場。しかし、この裏には関東軍の「熱河作戦」もありました。
採択を不服としたのちに軍事行動を起こすと、経済制裁を受ける可能性があったために、外務省の方針で脱退を決めたのです。

★脱退通告後も国際貢献は続いておりました。
(脱退即孤立ではありません。)

「満州国」はのち第2次世界大戦前に、ドイツ、イタリア、スペインなど20カ国が承認しました。
(現在の台湾のような位置づけです。)

結局、頬かむりして「不服」とだけ述べて、脱退する必要なかったのですよ。

「熱河作戦」で経済制裁を受けたかも知れませんが、国際連盟のましてや常任理事国で居続けることとどっちが大事だったか・・・。

ただ、「松岡洋右、堂々退場」を熱狂で迎えた国民も問題。「勇ましさ」が前面に出るのは危ない徴候です。

まとめ

★「リットン報告書」は日本を非難するためではなく、「和平」を実現させるためのものだった。

★ただ、満州国承認を目指す急進派にとっては不服であった。

★国際連盟を脱退する必要はなかったが、熱河作戦による経済制裁を恐れて先に脱退宣言した。

コチラも。