~只今、全面改訂中~

こんにちは。

「近代日本史」は難しいと言われますが、「陸軍」の動きを見ることで理解が進むと思いました。

川田稔先生の「昭和陸軍の軌跡」(2011年)はきわめて良書です。

以下、読書メモです。

プロローグ編はこちら

第1章:政党政治下の陸軍ー宇垣軍政と一夕会の形成ー

1.二葉会と木曜会

★1921年(大正10年)10月、ドイツの保養地・バーデン・バーデンで陸軍士官学校同期の永田鉄山、小畑敏四郎、岡村寧次の3人が落ち合い、「長州閥打破」と「総動員体制の確立」を誓う。当時みな37歳。彼らがのちの二葉会の中心である。

※永田らが陸軍大学教官当時、山口県出身者は一次試験は受かっても二次試験は全員落第した。

※永田は大戦前後の欧州に6年いて、総動員体制について最も詳しくなっていた。

★1922年、山縣有朋死去。しかし、陸軍はいまだに長州の田中義一閥であった。山梨半造、田中義一、宇垣一成らが陸相に。

★1927年(昭和2年)11月頃、22期鈴木貞一らによって「木曜会」が組織。全12回、会合が開かれるが最も重要なのは1928年3月1日に行われた第5回会合。この日は東条英機も参加しており、対ロシアに備えて「満蒙に完全なる政治的権力を確立する」ことを目標とした

※中国から必要なものは「物資」のみ。兵力は論ずるに足りず。また中国にとって満蒙は国力を賭してまで戦う場所ではないであろうとの認識。

※米国は南北アメリカ大陸で物資が十分にあるので、口出しはするかも知れないが国力を賭けてまで戦うことはないであろうとの認識。

※英国は満蒙問題と関係はあるが軍事以外の方法で解決可能と認識。

※その頃の中国政策は①満蒙特殊地域論(田中義一ら)、②国民政府統一容認論(浜口雄幸)、③満蒙分離論(関東軍)。満蒙領有論は①~③のどれとも違う。世界恐慌の前から計画されていたことにも着目。

★また、永田らは陸軍が組織として積極的に国政に介入していく必要があると考えていた。

★もともと永田鉄山、小畑敏四郎は「反長州閥」を誓う同志であった。

★第1次世界大戦を視察した永田は、次期大戦が「総力戦」として起こることを予測し、陸軍が組織として積極的に介入していく必要があると考えた。

★東条英機ら木曜会メンバーは、満蒙の確保を是としていた。

2.一夕会

1929年5月、二葉会と木曜会が合流して一夕会結成。田中政権末期、浜口政権誕生1か月前である。①陸軍人事の刷新、②満州問題の武力解決、③荒木貞夫、真崎甚三郎、林銑十郎といった非長州系三将官の擁立を取り決める。

※3人の中心は真崎。薩摩の上原勇作閥を引き継ぐ。田中と上原は1924年(清浦内閣)での陸相選定をめぐって対立していた。以後、田中・宇垣と上原はしばし対立。のち、宇垣は宇垣派結成。

1929年8月、岡村寧次が陸軍省人事局補任課長に就く。人事に対して大きな権限を持つこのポストに岡村が選ばれたことは、のちに主要ポストを一夕会が占める契機に。

★1929年、二葉会と木曜会が合流して一夕会を形成。

★同時期、岡村寧次(永田、小畑と同期、バーデンバーデンの誓いの同志)が、大きな人事権を持つ陸軍省人事局補任課長についた事で、一夕会は勢力を伸ばす。

第2章:満州事変から五・一五事件へー陸軍における権力転換と政党政治の終焉

1.満州事変前夜

★1930年11月14日。浜口雄幸が東京駅で銃撃された日でもあるが、幣原外相は「満州における鉄道問題の件」と題する方針案を関係機関に示す。

※これは日中融和的なもの。対ソ連を考えていた陸軍にとってはとても飲める条件ではなく、修正案を加えて同意。

1931年3月、「三月事件」。宇垣陸相を首班とする軍事政権を樹立するクーデターが計画されたが、最終的に宇垣の同意が得られず未遂に終わる。

※重藤千秋参謀本部シナ課長、橋本欣五郎同ロシア班長、大川周明ら民間右翼による謀議。当時、浜口に代わり幣原が臨時首相を務めるも、度重なる失言で議会が混乱していた。3月10日、病体をおして浜口が復帰し議会は沈静も、体調悪化で総辞職し、4月13日に若槻禮次郎内閣成立。

1931年9月18日、柳条湖事件

※陸軍の動きに対して批判的であった国内世論も、朝鮮人と中国人の衝突に際して中村大尉が殺害される事件(中村大尉事件)が明るみになると、対中強硬姿勢に。

★浜口雄幸首相襲撃事件→幣原臨時首相下での混乱→宇垣一成を担ぐクーデター事件(三月事件)→若槻禮次郎内閣成立→柳条湖事件。

2.柳条湖事件と陸軍中央

関東軍は一晩で奉天、長春など満鉄鉛線18都市を占領。関東軍・石原、板垣らは全満州軍事占領を企図していたが、張学良軍40万に対して関東軍は1万。林銑十郎率いる朝鮮軍の助けが必要であった。そして実際に朝鮮軍が越境してきたが、内閣は不拡大方針。永田らは予算などの都合で内閣の同意の得られない朝鮮軍の越境には反対していたが若槻内閣は陸相辞任による内閣総辞職を回避するために容認。事後承認となる。

★陸軍中央は北満州への派兵は反対。これに対して石原らは満州全部の制圧を考えており、満蒙を独立国として保護国とする方針が政府に受け入れられなければ「一時日本の国籍を離脱して目的達成に突進する」とまで言う

★南陸相や金谷参謀総長らによる新政権運動への不関与指示に関わらず、永田らは新政権樹立の方向に走る。宇垣派も新政権樹立は容認の姿勢。

★9月22日、国際連盟は日中双方に事態不拡大と撤兵を通告。しかし、10月8日には軍中央の許可なく関東軍による錦州爆撃。国際社会に衝撃。若槻内閣は方針転換して南満州軍事占領と新政権樹立は容認。ここまでは国際社会で受け入れられるギリギリのラインと踏んだ。

★政府は不拡大方針であったが、石原莞爾は「日本国籍を離脱してでも」と満州保護国化を目指す。国際連盟は撤兵を通告。

3.犬養政友会内閣の成立と荒木陸相の就任

★若槻内閣、南陸相、金谷参謀総長が関東軍の動きに引きずられたのはここまで。関東軍はチチハルへの進撃を企図したが、軍中央首脳部はソ連との衝突を避けるべくこれを阻止。錦州はイギリス権益も関与することもあり、宇垣派もこれには反対。

1931年10月17日、「十月事件」

※橋本欣五郎ら桜会メンバーが荒木貞夫を首班とする軍事政権を樹立しようとクーデター計画。事前に露見して未遂に終わった。永田らは「抜かずに内閣にすごみを聞かせる方が得策」と計画阻止の方向で動いていた。

★1931年10月末、安達謙蔵内相は政友会との協力内閣を打診。犬養毅政友会総裁も「政友会だけで陸軍を変えることはできない。連立でないとダメだ」としていたが、井上準之助蔵相、幣原外相ら閣僚が強く反対、安達と対立。閣内不一致となり、12月1日、若槻民政党内閣は総辞職

★1931年12月13日、元老西園寺公望の推薦により犬養内閣に。ここで一夕会の政治工作により荒木貞夫が陸相に。荒木は就任するや、宇垣派閥を一掃。さらに錦州占領(1月3日)、北満ハルビン占領(2月5日)が実施。

※1931年1月28日の上海事変は列強の注意を満州からそらすべく行われた。日中両軍の衝突。

※若槻退任前日に国際連盟はリットン調査団派遣決定。

1932年5月15日、「五・一五事件」

※犬養毅は満州独立国家を基本的には了承していたが、国際社会への配慮から正式承認には消極的であった。

※五一五事件により斎藤実が首相に。陸相には荒木、教育総監に林銑十郎、参謀本部は真崎が掌握しており、一夕会が推す三人が事実上陸軍のトップを占めることに。

※永田は政党政治を否定。

1932年9月15日、日満議定書により、満州国正式承認

※公式的な位置づけとしては「非道極まる排日、度重なる張学良の挑発に対して余儀なく、東洋の盟主たる日本が民族の生存権を確保」と言ったところか。

1932年10月2日、リットン調査団により満州国不承認の報告

※場合によっては国際連盟脱退することはやむなしと考えていた。

♨リットン調査団は満州事変を調査した、というよりは満州国建国が妥当かどうか調査した。

1933年2月24日、国際連盟総会にて決議を不服とした松岡洋右ら退場

※翌日から熱河省への軍事介入開始。熱河省は張学良の影響の強い地域であったが、満州国編入を試みていた。

★1933年3月4日、熱河省省都である承徳を占領、なお長城線まで迫る。

1933年3月27日、国際連盟脱退が正式に通告

★1933年5月3日、長城線を突破し北京に迫る。

1933年5月31日、塘沽停戦協定締結。一般にここまでが満州事変期とされる。

★安達謙蔵内相は連立内閣で対応することを望んだが、井上準之助蔵相、幣原喜重郎外相の反対で閣内不一致となり若槻内閣解散。犬養毅内閣となる。

★1932年5月15日、青年将校らにより犬養毅暗殺。政党政治は終わりを告げる。海軍出身の穏健派、斎藤実が首相に。

★日満議定書で満州国承認されるも、国際連盟のリットン調査団により不承認。国際連盟脱退へとつながる。

第3章:昭和陸軍の構想ー永田鉄山

1.国家総動員論

欧州での第1次世界大戦を視察した永田は国家総力戦の必要性を意識

※具体的な内容としては、国民動員、産業動員、財政動員、精神動員。1927年、田中義一内閣時においてその準備機関である「内閣資源局」が設立される。

★また、どの国も敵国となり得ることがあり、それに対しての準備が必要であることも意識。

♨でも、それってダントツの覇権を握らない限り不可能では?と思ってしまうが…

★兵器の機械化、機械戦への移行を認識。

※従来の肉弾戦、精神主義を批判するものでもあった。現状、飛行機保有台数は欧州各国と20倍以上も差があった。工業化を推進するためにも資源が必要であり、日本は資源を確保する必要があると感じていた。

★第1次世界大戦を視察した永田は次期大戦にあたり、資源の確保が急務と考えていた。

2.国際連盟批判と対中国政策

★浜口ら政党政治家は大戦が起きれば日本は危ういので、ワシントン体制や国際連盟などの力によって戦争を回避する方向に尽力した。一方、永田は「戦争不可避論」をもっており、ドイツを口火に再戦となると考えていた。

※国際連盟は「力」を「法」でおさめようとするものであり、「力」という点では疑問をもっていた。

宇垣は不足の物資は英米から輸入し、次の大戦でも英米と一緒に戦う英米協調路線で動いていたが、永田が目指していたのはあくまでも自主独立

★政党政治家は次期大戦は回避可能と考えていたが、永田は次期大戦は不可避と考えていた。

★宇垣は不足の物品は輸入しようと考えており、次期大戦が起きても英米とともに戦うつもりでいたが、永田はあくまでも自主独立を目指していた。

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【年表】