~「もう一つ上の日本史」出版に伴い、勉強方法も変える必要が出たので、全面改訂突入します~

昭和史講義
『§5.満州事変から国際連盟脱退へ』(等松春夫先生)

【これまでの教科書的理解】

1931年、柳条湖事件を機に「満州事変」が起きた。政治的に不安定だった満州を日本が実効支配することは、他に植民地を持つイギリスなども認めざるを得ない状況であった。国際連盟より派遣された「リットン調査団」が入って調査を行っていたが、その最中、「満州国」が建国された。国際連盟はこれを否決したため、日本は国際連盟を脱退した。

【まとめ】

「リットン調査団」の報告書は日本の権益にも十分配慮がなされたものであった。

日本は国際連盟における採択を不服として国際連盟を脱退したが、国際連盟の強制力の低さと、理事国であった日本の強い立場を考えれば、東京帝国大学の立作太郎教授の主張通り、国際連盟を脱退する必要などなかった。

実際に国際協調はその後も続けられていたし、国連委任統治領のミクロネシアへの影響もなかった。

【略年表】

1905 ポーツマス条約で遼東半島の「旅順」と「大連」が日本の租借地となる。この地域は関東州と呼ばれ、「関東都督府」が置かれる。
1906 南満州鉄道株式会社」(満鉄)が設立される。

関東州の主権は名目上、清であるが、南満州において日本は鉄道経営、港湾使用、鉱山開発などの経済権益を取得していた。この権益を保護するために「関東都督府陸軍部」が設置された。
1907 1905年から1907年にかけて列強および清と諸条約を結ぶことで、南満州は日本の「非公式帝国」の一部となった。
1911 辛亥革命で清が滅亡する。軍閥混戦状態に突入。
1915 「対華21か条の要求」で長城以南の権益拡大を図る
1919 関東都督府が「関東庁」に命名変更。

また、関東都督府陸軍部は「関東軍」に改組された。
1921 ワシントン軍縮条約で「対華21か条の要求」で実現した権益は放棄を余儀なくされる。

また、同時に結ばれた「9カ国条約」は日本の中国における行動に制限を加えるものとなった。
1924 張作霖は「東三省交通委員会」を設立して満州鉄道並行路線を建設し始める。

かつて清王朝の支配下にあったモンゴル民族は、ソ連の支援を得て外蒙古にモンゴル人民共和国を設立。

※一方、日本軍も対ソ防衛体制の構築という観点から内蒙古のモンゴル人へ工作を行う。
1927 蒋介石の北伐により、日本が関東州における権益を失う危機が訪れる。
1928 張学良が中華民国国民政府の手下になったため、関東州は中華民国のものとなった。
1929 奉ソ戦争(中ソ紛争)

蒋介石は反共という立場、張学良は隣接する外蒙古にソ連の傀儡国家が成立した脅威という点から、ソ連と奉天政権(張学良)の間で大規模な武力衝突。結果はソ連の圧勝。ただし、蒋介石本隊は出動せず。張学良は北満の権益回収に失敗。
1931 1月、政友会所属の松岡洋右が幣原外交を詰問。当時、幣原外相は国際協調を維持しながら関東州における権益を維持しようとしていたが、高まるナショナリズムと、満鉄並行路線を敷き始める奉天軍閥により手詰まり状態であった。松岡は外務省出身で満鉄副総裁を経て政界入りしており、「満蒙は日本の生命線」というフレーズは大流行した。

6月、中村大尉事件で中村大尉が奉天軍閥に撲殺。

7月、万宝山事件で、朝鮮人農民が中国人農民と衝突。これらが松岡の演説をさらに支持するきっかけに。

9月、満州事変。当時、関東軍は条約に基づき1万。これに対して奉天軍閥軍は45万人。石原莞爾による綿密な計画のもと、関東軍は治安維持の目的で奉天政権の本拠地であった北大営まで占拠。その後の侵攻作戦で満州全域までを支配下におく。これには蒋介石の非抵抗政策(共産党対策を重視)、各国が世界恐慌後の経済再建に忙殺されていたこと、ソ連が5カ年計画中で対日軍備が整っていなかったため介入を控えたことなども影響。
 
10月、奉天軍閥崩壊。
1932 関東軍は満州の帰順勢力を中心に、「東北行政委員会」を組織し、3月1日、「満州国」を建国。特務機関を使って天津から脱出させた溥儀をトップにする。 

満州国建国の論理

①満州はかつての清帝国の辺境に位置しており、中華民国の不可分の領土とは言えない。満州は17世紀前半に満州から発した女真族(満州族)が長城以南の中国本土を征服して清王朝を築いたとき初めて中国の一部となった。
②満州は中国、モンゴル人民共和国、ソ連との間の緩衝地帯として日本の安全保障上重要な地域、すなわち日本の「生命線」なので確保が必要。
③多種多様な民族構成は中華民国が一方的に満州への主権を主張する根拠にならない。1930年代初頭までに満州地域の住民の80%以上が漢民族になっていたとはいえ、この地域は元来満州族の故地であり、満州人、モンゴル人、朝鮮人、ロシア人、日本人が長期間にわたって居住してきた。 

満州事変までの動きは各国とも容認していたが、満州国設立に対しては非難の声をあげ、中でもアメリカがもっとも強硬に反対してきた。このような状況で国際連盟から植民地問題を専門とする「リットン調査団」が派遣された。 

リットン調査団の報告書(10月)

①中国の行動は日本の合法的権益を侵害していたが、
②日本の行動は自衛の範囲をはるかに超えている。したがって
③満州国の建国は法的にも政治的にも疑問がある。そこで
④日本、中国、ソ連は不可侵協定を結んで満州から兵力を撤収し、
⑤連盟の主導の下で満州を暫定的に国際管理下に置く。 

現在の国連平和維持軍に類似した組織による満州地域の治安維持策が青写真として存在していた。中国に主権と、日本の権益に配慮しつつ、連盟の権威の保持も図るという「一石三鳥」の内容であった。中国側はこれを受け入れる用意はあり、問題は日本であった。 

日本の対応

この間、日本も独自に調査をしており、ソ連が不介入、アメリカもスチムソン・ドクトリンのように道徳的非難以上のことは行えないことがわかると、満州国育成に傾斜していった。 

8月、斎藤内閣の内田康哉外相は「たとえ日本が焦土となっても満州の権益を守り抜く」と演説(焦土外交)。
(※倉山満先生いわく、日本史史上最悪の外務大臣。) 

9月15日、日本は満州国を正式に承認、日満議定書提出。 

立作太郎教授の主張

外務省の顧問であった著名な国際法学者、立作太郎東京帝国大学教授は、国際連盟が行えることは強制力のない「勧告」に過ぎず、主要大国が満州をめぐる日中対立に介入しなかったことを見れば、日本は頬かむりをして「リットン報告書」を無視したまま連盟に留まり続ければよいと主張した。連盟から脱退せずに、満州国を維持したまま、一定の国際協調を図るという選択もありえたのだ。(全会一致でなければ加盟国に対して強制措置をとることのできない国際連盟における理事国日本の立場は強力で、中国の定義による対日経済制裁の発動は不発に終わっている。)
1933 1月~3月、満州国の国境を安定させるために張学良軍と交戦してこれを駆逐。(熱河作戦

5月、長城線を越えて河北省に侵入。(関内作戦)

5月31日、塘沽停戦協定で関東軍は長城線の北に撤退。満州国の南の国境が確定した。

塘沽停戦協定をもって満州事変は終了となる。 

日本の動向

2月24日、国際連盟は9カ国条約における原則に基づいて日本の既得権益を保障することを認めるも、満州国の独立は否認する採択を行ったところ、賛成42、反対1、危険1であった。

松岡洋右は政府の訓令に基づき国際連盟を脱退したが、西園寺公望とは日本の国際的孤立を招く恐れがある国際連盟脱退は回避に努めると約束していたため、この決定を悔いていた。

しかし、日本の世論は松岡を熱烈に歓迎。 

3月27日、日本政府は正式に脱退通告を行う。通告から2年間は加盟国としての義務を遂行する規定があり、日本の脱退が発効するのは1935年3月27日であった。 

連盟や列強が日本の脱退通告後も満州問題で静観を続けたのは、脱退が発効する2年間に日本が連盟へ復帰する可能性を期待していたからであった。 

しかし、満州における軍事的勝利を得た陸軍の急速な政治的影響力の上昇と、満州国の建国を日本外交の輝かしい成果と受けとめて熱狂した大衆世論の前に、冷静なリアリズムは敗れ去った。

連盟と訣別した日本は自らの外交上の選択肢を減らし、そして満州国の存在はその後の日中関係修復の余地を極度に狭めてしまったのである。 

★この時期は「日中戦争へ至る日本の中国侵略の本格的始動期」として従来とらえがちであったが、近年は「清帝国解体後の東アジアにおける政治経済的変動」という観点から日本、中国、ソ連といった大国のみならず、満州人、モンゴル人、朝鮮人、白系ロシア人、馬賊、国際連盟などの視点を交えた複眼的な分析と研究が現れている。 
♨現地では匪賊に悩まされていた地域の制圧を目指す熱河作戦が計画されていたが、国際連盟からの否認採択があったのちに軍事行動を起こすと経済制裁を受ける恐れがあったために、熱河作戦前に国際連盟脱退された。【井上先生の著作:コチラ
1935 ソ連は中東鉄道を満州国へ売却し、北満から勢力を撤収し、ソ連領内の数ヶ所に満州国の領事館設置を認めた。
1936 満州国の治安は比較的短期間で確立され、1936年ごろまでに抗日活動の大半が鎮圧された。ソ連の5カ年計画に倣った経済建設の4ヵ年計画が日系官僚らにより推進され、1943年ごろまでに満州国は東アジア有数の工業地域となっていた。
1941 1941年までに16の国家が満州国を承認していた。連盟脱退で懸念された委任統治領であるミクロネシアの影響は実質的にはなかった。アヘン取締りへの協力、国際司法裁判所への判事の派遣など、国際連盟脱退後も日本と国際連盟の協力関係は継続された。

立作太郎教授(?)。立博士外交史論文集(国立国会図書館デジタルコレクション)より引用。

【満州略地図】

最低限の地理的な理解がないとわからないと思い、略図を書いた。ちゃんと図説を買って地理を叩き込みたいと思う。

旅順/大連…(こう見ると日露戦争で得た権益ってわずかに見えるんだけど…)

長城…(平たく言うと、長城の外が満州)

外蒙古/内蒙古…(満州国と長い国境線を有す)

北大営…(奉天。張学良の駐屯地。)

熱河…(熱河省が最西端。その隣が錦州爆撃の錦州。その隣が奉天省。)

満州の首都…長春(新京とも呼ばれる。)

満鉄…(実際はもっと複雑な路線である。1934年、超特急「あじあ」号が大連ー長春間を走り、1935年に運転区間はハルビンまで広がった。)

【等松春夫先生がスゴい件】

https://ja.wikipedia.org/wiki/等松春夫

なんて明快な文章を書く人かと思って、思わずどんな人か調べたが、政治学者であるとともに、オーケストラの解説者でもある。すごい。ハイスペックとはまさに等松先生のための言葉であろう。

満州事変から昭和陸軍が表舞台に→【昭和陸軍の軌跡:この辺りから

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