~「もう一つ上の日本史」出版に伴い、勉強方法も変える必要が出たので、全面改訂突入します~

☞【バーデンバーデンの密約~石原莞爾辞任までを振り返る】『昭和陸軍の軌跡』(川田稔、2011年、中公新書)【年表前編:1921年~1937年】

<年表・前編として1937年までを掲載>

プロローグはこちら

1921年~1930年

1921年10月 バーデン・バーデンの密約

※ドイツの保養地・バーデン・バーデンで陸軍士官学校同期の永田鉄山、小畑敏四郎、岡村寧次の3人が落ち合い、「長州閥打破」と「総動員体制の確立」を誓う。当時みな37歳。彼らがのちの二葉会の中心である。永田は政党政治も否定していた。
1922年 山縣有朋死去

※しかし、陸軍はいまだに長州の田中義一閥であった。山梨半造、田中義一宇垣一成らが陸相に。
1924年 田中義一(長州)、上原勇作(薩摩)の対立

※清浦内閣での陸相選定をめぐって。田中の後継は宇垣、上原の後継は真崎。
1927年 田中内閣において「内閣資源局」設立

※欧州での第1次世界大戦を視察した永田は国家総力戦の必要性を意識。具体的な内容としては、国民動員、産業動員、財政動員、精神動員である。「内閣資源局」はそのための準備機関。
1927年11月頃 22期鈴木貞一らによって「木曜会」が組織。

※のち、二葉会と合併して一夕会となる。
1928年3月1日 木曜会第5回会合に東条英機も参加。「満蒙領有論」を展開。

※中国もアメリカも満蒙に国力を賭して戦わないであろうとの判断。英国とは軍事以外の方法で解決可能と判断。

その頃の中国政策は
①満蒙特殊地域論(田中義一ら)、
②国民政府統一容認論(浜口雄幸)、
③満蒙分離論(関東軍)。

満蒙領有論は①~③のどれとも違う。(世界恐慌の前から計画されていたことにも注目。)
1928年6月4日 張作霖爆殺事件【コチラも:昭和史講義

※満州・奉天で軍閥の張作霖が爆殺される。関東軍高級参謀・河本大作単独実行説でほぼ確定。事件の処遇をめぐって昭和天皇が田中義一首相を叱責。

♨張作霖爆殺は満鉄並行路線をつくったことと、蒋介石の北伐が関係しているのだ。
1929年5月 二葉会と木曜会が合流して一夕会結成

①陸軍人事の刷新、②満州問題の武力解決、③荒木貞夫、真崎甚三郎、林銑十郎といった非長州系三将官の擁立を取り決める
1929年8月 岡村寧次が陸軍省人事局補任課長に就く。

人事に対して大きな権限を持つこのポストに岡村が選ばれたことは、のちに主要ポストを一夕会が占める契機に
1930年11月14日 浜口首相が東京駅で銃撃される

※同日、幣原外相は「満州における鉄道問題の件」と題する方針案を関係機関に示す。これは日中融和的なもので、対ソ連を考えていた陸軍にとってはとても飲める条件ではなく、修正案を加えて同意。

★陸軍は基本的には長州閥。第1世代を山縣有朋とすると、第2世代は田中義一、第3世代は宇垣一成にあたるであろうか。しかし、この流れにストップをかけるものたちがいた。彼らが永田鉄山ら、一夕会。

★1つの転機としては1929年。世界恐慌があった年でもあるが、その陰で岡村寧次が陸軍省の人事に大きな影響を及ぼすことのできるポストに就任。これにより一夕会系が躍進することになる。ちなみに、前年は張作霖爆殺事件が起こり、田中義一が昭和天皇に叱責される事態があったことを押さえたい。

★一夕会の目的は何かと平たく言えば、

①長州閥の排除

②次なる大戦に備えて満州の確保

③次なる大戦に備えての総動員体制の確立

である。満州事変は世界恐慌により生じたわけではなく、それ以前から計画されていたものであることを押さえたい。

1931年

3月 三月事件。

宇垣陸相を首班とする軍事政権を樹立するクーデターが計画されたが、最終的に宇垣の同意が得られず未遂に終わる。重藤千秋参謀本部シナ課長、橋本欣五郎同ロシア班長、大川周明ら民間右翼による謀議。当時、浜口に代わり幣原が臨時首相を務めるも、度重なる失言で議会が混乱していたことも原因である。3月10日、病体をおして浜口が復帰したことで議会は一時沈静化したが、体調悪化で総辞職。
4月13日 浜口雄幸内閣総辞職に伴い、若槻禮次郎内閣成立。
8月 青年将校らの運動が本格化

※皇道派、統制派とは別に、青年将校の間に国家改造を目指す政治的グループが形成
されていたが、この時期より活動を本格化。彼らは北一輝の影響を受けた西田税を結節点とした。民間からは井上日召らが加わる。このメンバーが、1932年の血盟団事件(井上準之助、三井財閥の団琢磨を暗殺)、五・一五事件を引き起こす。
9月18日 柳条湖事件(満州事変)

満州・奉天の柳条湖付近で南満州鉄道爆破。これを中国人の仕業として満州に関東軍を侵攻させ、翌日のうちに南満州の主要都市を占領。石原莞爾、板垣征四郎らによる策略と考えられている。

当時、若槻禮次郎内閣、南次郎陸相ら陸軍首脳部は不拡大の方針であったが、陸軍中央の永田鉄山軍事課長以下、岡村寧次、東条英機ら中堅幕僚グループが石原と連携し、関東軍の活動を有利に展開するよう働きかけた

また、陸軍の動きに対して批判的であった国内世論も、朝鮮人と中国人の衝突に際して中村大尉が殺害される事件(中村大尉事件)が明るみになると、対中強硬姿勢を支持。

★当時、満州では匪賊が跋扈。日本人居留民にも被害が及んでいたため、関東軍は軍事行動したという側面もある。日本は人口増加に悩まされており、満州への移住を国が推進していた。
9月22日 国際連盟が日中双方に事態不拡大と撤兵を通告。

※しかし、10月8日には軍中央の許可なく関東軍が錦州爆撃。国際社会に衝撃。若槻内閣は陸相辞任による内閣総辞職を回避するべく、方針転換して南満州軍事占領と現地における新政権樹立は容認した。ここまでは国際社会で受け入れられるギリギリのラインと踏んだ。
10月8日張学良の本拠地、錦州爆撃
10月17日 十月事件

※橋本欣五郎ら桜会メンバーが荒木貞夫を首班とする軍事政権を樹立しようとクーデター計画。事前に露見して未遂に終わった。
11月29日幣原外相は陸軍首脳と話をつけ、錦州から関東軍引き上げ。国際世論は持ち直す。
12月10日若槻禮次郎内閣総辞職。

※10月末に安達謙蔵内相は政友会との協力内閣を打診。これに対して犬養毅政友会総裁も「政友会だけで陸軍を変えることはできない。連立でないとダメだ」として前向きであったが、井上準之助蔵相、幣原外相ら閣僚が強く反対、安達も引かずに閣内不一致となり、総辞職となった。

♨井上寿一先生はここが1つのターニングポイントと常々指摘。(連立政権で対峙すべきであった、と。)【昭和史集中講義

♨「国際連盟脱退に外的要因は無い。徹頭徹尾、日本の内政問題である。」(倉山満先生:「学校では教えられない満州事変」
12月13日 犬養毅内閣成立

※元老西園寺公望の推薦により犬養内閣に。ここで一夕会の政治工作により荒木貞夫が陸相に。荒木は就任するや、宇垣派閥を一掃。さらに錦州占領(1月3日)、北満ハルビン占領(2月5日)が実施される。

★1931年といえば、間違いなく覚えておくべきことは満州事変。政府は不拡大を目指したにも関わらず、拡大したことで「関東軍の暴走」と書かれることもあるが、「暴走」と言うのは石原莞爾に失礼ではないか。列強が了解し得るギリギリのラインを狙った、かなり高度な戦略とは思う。永田ら陸軍中央は関東軍に有利になるように展開。

★よく混乱しがちなのは、「青年将校」グループの存在。彼らは軍の中枢では全くなく、北一輝の影響を受けた、永田ら一夕会の構想とは全く別のグループ。のちに血盟団事件、五一五事件などを起こすのは永田らにとって迷惑でしかなかったよう。

★宇垣が担がれたのが三月事件、荒木が担がれたのが十月事件。

1932年

1月3日 錦州占領
1月28日 第1次上海事変

※列強の注意を満州からそらすべく行われた。
2月5日 北満ハルビン占領

※陸軍中央は北満州への派兵は反対していたが、石原らは満州全部の制圧を考えており、満蒙を独立国として保護国とする方針が政府に受け入れられなければ「一時日本の国籍を離脱して目的達成に突進する」とまで言う。
3月1日 満州国誕生
5月15日 五一五事件で犬養毅首相暗殺

※犬養毅は満州独立国家を基本的には了承していたが、国際社会への配慮から正式承認には消極的であったため。事件後、海軍出身の斎藤実が首相に。陸相には荒木、教育総監には林銑十郎、参謀本部には真崎が就いており、一夕会が推す三人が事実上陸軍のトップを占めることになっていた。
9月15日 日満議定書

※満州国正式承認。「非道極まる排日、度重なる張学良の挑発に対して余儀なく、東洋の盟主たる日本が民族の生存権を確保」というのが公式的なアナウンス。
10月2日 リットン調査団により満州国不承認の報告。

※場合によっては国際連盟脱退することはやむなしと考えていた。
11月 一夕会と青年将校グループの対立


※一夕会中堅幕僚と青年将校グループの会合があり、青年将校グループの政治工作をとがめたところ、「軍中央部は我々の運動を弾圧するつもりか!」と、会議が決裂。
永田らは軍の統制という観点からも好ましくないと考えていた。

★1932年は何と言っても五一五事件。青年将校グループのこうした政治工作に対して一夕会がとがめたところ、両者の会談は決裂。

1933年

2月24日 国際連盟総会にて決議を不服とした松岡洋右ら退場。

※国際連盟が日本軍の満鉄付属地への撤退と、満州における中国の統治権を確認する勧告案を採択したことに対して。翌日から熱河省への軍事介入開始。熱河省は張学良の影響の強い地域であったが、満州国への編入を試みていた。

これで日本が孤立したという記述の書籍は多いが、この件で直接的に日本が国際社会から孤立したわけではない。貿易も続いていたし、各種委員会も参加していたし、他国も日本の復帰を待ち望んでいた。
3月4日 熱河省省都である承徳を占領、なお長城線まで迫る。
3月27日 国際連盟脱退が正式に通告される
4月ごろ 永田と小畑の対立が表面化(下記内容)

※これにより統制派と皇道派の抗争開始。当初、永田ら一夕会は宇垣系に対して真崎、荒木らを擁立して実権を掌握しようとしたが、逆に彼らは永田と小畑の個人的な対立に乗じて一夕会の土佐系(小畑、山下ら)、佐賀系を抱き込み、彼らを有力ポストに就けて皇道派を形成したのだ。(いきなり皇道派vs統制派だったのではない。まず一夕会vs宇垣派があってのそれ。)
5月3日 長城線を突破し北京に迫る
5月31日 塘沽停戦協定締結

※一般にここまでが「満州事変期」とされる。以後、斎藤、岡田内閣のもとで日中関係は小康状態。国連やアメリカが対日制裁に動かない状況から蒋介石も対日融和に軌道修正

<小畑と永田の対立>

  小畑敏四郎(皇道派) 永田鉄山(統制派)
出身母体 土佐系 なし
ソ連戦略 ソ連は国力回復したらすぐに攻めてくるであろうから先制攻撃して極東部隊を壊滅させる ソ連はいずれ敵となるだろうがしばらくは攻めてこないであろうから満州国発展が先決
日ソ不可侵条約への対応(※1) 否定的 積極的
北満鉄道への対応(※2) いずれ手に入れるので、買収すれば資金援助につながるので反対 日本と満州で買収すべき
中国戦略 排日運動は米英が日本の極東政策を認めるまで減ることはないだろうから、米英との関係を重視し、貿易していく。 排日運動には断固とした態度で臨む。対ソ戦は国運を賭する大戦争となるが、中国はそのための「資源確保」。
対米政策(※3) 日本の大陸政策に干渉するのであれば排撃すべしと考えたが、基本的には国交親善。   米の経済力による極東支配は排撃すべき。米はアジアに死活的利害を持たないため戦争にはならず、政治的に解決可能であろう。
対英政策 紛争の圏外に置くべし 紛争の圏外に置くべし

(※1)1932年、ソ連から再提議→結局、謝絶

(※2)東支鉄道:1933年、ソ連から売却案→1935年に妥結

(※3)1936年はロンドン・ワシントン条約の改定時期であるが、海軍は日米必戦論に立つ加藤寛治ら艦隊派がすでに両条約の廃棄を決定していた。

★1933年に国連脱退。しかし、これで即、国際社会から孤立したわけではないことはイメージしておきたい。

★この年から皇道派と統制派の対立が生じたことは押さえておきたい。もともとはvs宇垣派ということでともに同じ方向を向いていたのだが、やはり「主導権争い」というものはいつの世も生じるのか。小畑ら統制派は徹底してソ連を敵国と考えており、その一貫性には眼を見張るものがあると思う。

1934年

7月 帝人事件 ※斎藤実内閣総辞職。永田はこの時期、軍務局長に。
10月 陸軍パンフレット

※永田の指示で「国防の本義と其強化の提唱」が発行された。永田は「平時」も国家統制すべきとの考えに立っていた。(それまでは平時は「準備」と「計画」としていた。)一方、真崎は「国家社会主事思想」として忌避。

参照:<ナチス・ドイツの躍進>

1919 ドイツ労働者党結成

1920 ドイツ労働者党が国民社会主義ドイツ労働者党(ナチス)と改称

1921 ヒトラーがナチス党首となる

1929 世界恐慌

1930 ナチス、第2党となる

1932 ナチス、第1党となる

1933 ヒトラー内閣成立、ナチス一党独裁確立、国際連盟脱退

1934 ヒトラー、総統就任

1935 ザール地方併合、再軍備宣言

1936 ロカルノ条約破棄、ラインライント進駐

1937 日独伊三国防共協定成立

1938 オーストリア併合、ミュンヘン会議

1939 チェコ解体、独伊軍事同盟締結、独ソ不可侵条約調印、ポーランド侵攻

★1934年は永田が軍務局長に就任し、有名な「陸軍パンフレット」を作成した年でもある。ドイツではヒトラーが総統就任。

1935年

2月 天皇機関説問題

※機関説の否定は衆議院を満場位置で可決した。右翼、国家主義団体、在郷軍人会を中心に「国体明徴運動」が展開された。4月には真崎から「機関説」は国体に反すると全軍に通達。さらに運動は岡田内閣打倒まで飛び火。この運動の背景には皇道派、統制派の争いに加え、宇垣派の争いがあり、林、永田らにより罷免寸前まで追い込まれた真崎が逆転を狙った倒閣運動である
3月 ナチス、再軍備宣言

※ヴェルサイユ条約を破棄。次期大戦勃発が現実味を帯びだした。
6月 華北分離工作により、国民党勢力を河北省、チャハル省より排除

※華北分離工作は永田のアイデアの延長線上にある。
8月3日 岡田内閣、第1次国体明徴声明
8月12日 相沢事件

※永田鉄山暗殺。真崎罷免の黒幕が永田軍務局長であるという怪文書をもとに、相沢三郎中佐が実行。相沢は青年将校グループとも真崎とも親しかった。
10月15日 岡田内閣、第2次国体明徴声明

※これにより国体明徴運動は衰え、真崎の倒閣の試みは失敗に。
11月 冀東防共自治政府成立

※河北省に親日政権樹立。
11月 中国、管理通貨制度へ移行

※イギリス財政顧問リース・ロスの助言に基づき国民政府は銀本位制から管理通貨制度へ移行し貨幣制度を統一。これにより中央政府の経済基盤が安定し、国民政府による政治統一が急速に進行。のちの華北分離工作中止につながる。

★1935年の大きな事件としては、【天皇機関説問題】と【相沢事件】。中国では【管理通貨制度】が導入され、いくつか初期の構想を変えなくてはいけないということを石原莞爾はわかっていたのだが、永田鉄山の思想を一途に信奉していたものたちにはわからなかった、か?

1936年

2月26日 二ニ六事件

※国家改造を掲げた青年将校グループが斎藤実内大臣、高橋是清大蔵大臣、渡辺錠太郎陸軍教育総監を殺害し、鈴木貫太郎侍従長に重傷を負わせた。結局クーデターは失敗し、彼らにつながりがあったとされた、真崎、荒木、小畑ら皇道派は予備役へ編入され、事実上、陸軍から追放された。ついでに南ら宇垣系も予備役に。この事件後に成立した広田弘毅内閣における陸軍トップは寺内寿一陸相、閑院宮参謀総長、杉山元教育総監という顔ぶれで政治色が薄く、中堅幕僚層の意向が強く反映される布陣となった。ここで発言権を増していたのが武藤章(永田直系の統制派)、石原莞爾(統制派ではないが非皇道派一夕会)であった。
3月 ナチス、ラインラント進駐

※イタリアも5月にはエチオピア併合。
5月 関東軍、内蒙軍政府樹立

※しかし、中国軍に敗退。内部でも反乱。石原ら戦争指導課は関東軍に内蒙工作中止を主張するも、武藤情報主任参謀と対立。(華北分離工作や内蒙工作を巡る石原と武藤の対立が日中戦争における拡大不拡大をめぐる対立にもつながる。)
5月 軍部大臣現役武官制が復活

※武藤、石原らの圧力。1913年、山本権兵衛内閣以来、大臣が現役武官に限定されることとなった。
11月 日独防共協定

※広田内閣による。石原も対ソ牽制のために日独の協力を望んだ。(ソ連の極東攻勢を断念させるために、まずは南進して資源を確保することを計画していた。
12月12日            西安事件

※第2次国共合作へつながる。

★1936年で押さえておくことは間違いなく「二二六事件」。ただ、これを「統制派と皇道派の争い」ととると、何が何だか意味がわからなくなる。事を起こしたのは「青年将校グループ」であり、連坐して失脚したのが、「皇道派」であり、「宇垣系」であり。

★永田鉄山死後は、彼の直系の弟子とも言える武藤章と、一夕会、非皇道派ではあるものの、永田とはそれほど近くない石原莞爾の意見の食い違いが目立つようになる。

★「日独防共協定」が締結されたのもこの年。のちの「日独伊三国同盟」と混同されがちであるが、「日独防共協定」はあくまでもソ連への牽制である。ソ連とて二方向同時に相手をするのはキツイ。もし日本に攻めてこようものならドイツが狙います、逆もまた然り、という協定ととらえて良いかと思う。これにより日本の大きな方針としては、「南進して資源確保」となる。

1937年

1月 「腹切り問答」で広田内閣総辞職。

※政友会浜田国松議員による陸軍批判が寺内寿一陸相の怒りを買い、政党と陸軍が対立。解散を主張する寺内と反対する閣僚の閣内不一致で広田内閣総辞職。後継は西園寺公望らの意向で宇垣一成。しかし、石原らの妨害で組閣ならず。小磯国昭ら旧宇垣派将官は幕僚らの意向に沿って動いており、陸相就任を断る。現役武官制が有効に作動した結果でもある。(→首相は林銑十郎)
1月 華北分離工作中止

※米英への配慮と通貨統一を経て中国でナショナリズムが高まっていることを考慮して方針転換。米英と協力して中国に新国家を設立することを考えていたが、アメリカの大陸介入を断固阻止と考えていた永田の後継である武藤とは対立。華北分離工作は武藤の案でもあった。
3月 石原、作戦部長に

※課長時代に満州の日本勢力はソ連の1/3以下ということを知り愕然。英米と協調してソ連の極東攻撃を断念させる方針に。
5月 石原、「重要産業5か年計画」作成

※前年の「日満産業5か年計画」を陸軍省に移管。重工業中心の発展を目指す。
6月4日 近衛内閣成立

※広田の後を継いだ林銑十郎内閣は4ヶ月で総辞職。(広田→腹切り問答→林→(何もせんじゅうろう)→近衛。)
7月7日 盧溝橋事件

※北京近郊で日中両軍が小衝突。現地では停戦協定が締結されたが、東京の陸軍中央は派兵決定。現地の鎮静化を受けて一度は派兵延期となったが、再び交戦となったことを受けて派兵決定。陸軍中央では不拡大派(石原)と拡大派(武藤、田中新一)が衝突。南京国民政府軍北上の報を受け、最終的に現地人を守るため派兵決定。もっとも石原は今、対中国に入ったら全面戦争になり対ソ戦備の充実どころではなくなる可能性もあるとして拡大に反対。一方、武藤らは今、中国は分裂状態であるから日本が強い態度を示せば屈服するとの見方で対立。拡大派が多数でもあった。当時、中国では小規模な紛争は珍しいことではなかったが、武藤らがこれを拡大させようとしたのかは、石原への反発が根にあったのではないだろうかと推測される。また、6月にスターリンによる粛清で旅団長以上の45%が殺害されたこともあって、ソ連は介入してこないだろうとの見方を示していたし、欧米の緊張状態から米英も介入してこないであろうとの見方も示していた

昭和史講義:コチラも。厳密には盧溝橋事件ではなく、廊坊事件、広安門事件が発端。
7月28日 日本軍総攻撃開始

※翌日には北京、天津をほぼ制圧。なおも派兵に積極的な武藤に対して、石原はなお拡大反対。
8月9日 北京入城
8月13日 第2次上海事変
8月17日 米内海相主導で不拡大方針「放棄」の閣議決定

※石原は華北だけに限定しようとしていたが、海軍による上海での戦闘(8月15日~)で日本も多数被害。引くに引けない状況になってしまった。
9月27日 石原莞爾、作戦部長を辞す

※拡大派が圧倒的多数となっていた。石原は満州に転出。後任の多田らが慎重路線を継ぐも、方針が定まらず現地での軍の独走を許すことに。増派が次々と行われ、本土には近衛師団と第7師団(旭川)のみに。対ソ防備から精鋭部隊は満州に配置され、上海方面には現役兵率の低い編制装備の劣る部隊が派兵されることになったため(しかもソ連の出方を警戒して逐次投入。)、上海では多数の被害となった。
12月13日 南京事件【コチラも

※兵站準備がほとんどなかったので現地で略奪が横行。当時、駐華ドイツ大使トラウトマンによる和平工作が行われていたが(11月~)、南京占領後、日本はより厳しい条件を提示した。

★1937年と言えば、試験的には盧溝橋事件からの日支事変なわけだが、ここで大事なのは、不拡大派であった石原莞爾の失脚。石原としては対ソ連に備えて国力を充実させておきたかったのだが、その声は消されてしまった形になる。

★この日支事変を端的に説明すると、「日本の本来の敵はソ連、中国国民党の本来の敵は共産党。お互い本来の敵ではないので全力を出せず、長引いた。」ということ。日本は次期大戦に向けての「資源調達」という「片手間」的な感じで始めたのが問題であったと思う。

後編へ(1938年~)

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