~「もう一つ上の日本史」出版に伴い、勉強方法も変える必要が出たので、全面改訂突入します~

昭和史講義
『§8.盧溝橋事件―塘沽停戦協定からトラウトマン工作失敗まで』(岩谷將先生)

最近、なぜか岩谷將先生の検索が増えているので疑問に思っていた。しかし、その原因はおそらく2019年10月18日に岩谷先生が北京国際空港で中国にスパイ容疑で拘留されてしまったことからであろう。こんな素晴らしい研究をされている人であるが、防衛省での勤務履歴などが引っかかってしまったのか?一体どうなっているのだろう。なおのこと廊坊事件、広安門事件は覚えておきたい。

【追記】2019年11月15日、無事帰国!

岩谷教授も執筆されている名著「昭和史講義」の書籍案内:コチラ

【これまでの教科書的理解】

★「盧溝橋事件」をきっかけに日中戦争(シナ事変)に突入した。

【新たにまとめ】

★「盧溝橋事件」は一度、協定が結ばれた。
★協定を無視して中国軍が日本軍を攻撃してきたのが、「廊坊事件」であり、「広安門事件」である。(+それ以外にも複数回あった。)
★これらにより、日本は本格的に軍事行動に出ることを決意した。
★中国軍にも主兵派と主和派がおり、これらの挑発行為は主兵派によるものであった。
★日本にも拡大派と非拡大派がいて、非拡大派の石原莞爾は更迭された。
★トラウトマン工作が行われたが、蒋介石が回答を引き延ばしている間に日本軍が勝利を重ね、日本軍の要求が強くなる。
★最終的に蒋介石はトラウトマン工作に回答せず、近衛首相も「国民政府を対手とせず」という第1次近衛声明につながる。両国は交渉の場を閉ざした。

【関連年表】

1933 塘沽停戦協定(5月31日)
1935 広田弘毅外相により中国に対して「親善演説」。(1月)

梅津・何応欽協定(5月)

行政委員長・汪兆銘狙撃(11月)

蒋介石が行政委員長に就任。対日強硬に。(12月)
1936 日中間交渉打ち切り(秋)

西安事件(12月12日)
1937 日中緊張緩和の兆し(春)

華北で緊張高まる(6月)

盧溝橋事件(7月7日)       

廊坊事件(7月25日)

広安門事件(7月26日)


華北総攻撃開始(7月28日)

石原莞爾から下村定に交代。不拡大は放棄。(9月)

日本の依頼を受けて駐華ドイツ大使、トラウトマンが和平案。(11月5日)

南京陥落。(12月13日)

和平案に賠償金など加重。(12月26日)
1938年 中国側は和平案回答期限においても非回答。(1月15日)

近衛声明。「爾後国民政府を対手とせず」(1月16日)

【塘沽停戦協定】

★関東軍参謀副長・岡村寧次少将と国民政府軍事委員会北平分会総参議熊斌中将による。

★関東軍が長城より北に撤収するかわりに南側に非武装地帯を設定し、中国軍にかわって保安隊が治安を維持する。

★満州事変は終結。日中緩和。

【親善演説】

★日中友好ムードはピークを迎える。ただ、現地陸軍は不穏な動き。

★1934秋から、のちの「華北分離工作」のような行動が現れ始めている。

★親善演説の頃、国境線をめぐって衝突。

【梅津・何応欽協定】

★相次ぐ武装集団による熱河侵入、親日新聞社長の暗殺などに対する責任を追及すべく、軍司令官梅津美治郎の不在をついて酒井隆大佐が軍事委員会北平分会委員長代理の何応欽を訪れ、国民党機関の河北省からの撤退などを要求。中国側は最後まで協定に拒否。

【汪兆銘襲撃】

★妥協を図りながら対日交渉を行っていた行政委員長の汪兆銘が狙撃。翌月より蒋介石が兼任したことで国民党の対日強硬姿勢はより明確になる。

★蒋介石は共産党掃蕩にあたりこれまで半独立状態であった西南諸省に中央軍を派遣し、全土統一に近づいていた。

幣制改革も成功し、交通網も発達、軍隊改革も順調に進んでいたことが強気な姿勢を可能にした。

♨この中国の幣制改革がなければ、おそらく中国は日本に負けていたであろうというくらい大事。背後にいるのはイギリス。財政顧問はリース=ロス。中国内の紙幣が統一されて、戦時調達が有利に。

【日中間交渉打ち切り】

★日本人が殺害された成都事件、北海事件などの善後処置を機会に日中国交調整が試みられたが、すでに歩み寄る余地はなかった。

★関東軍の支援を受けた内蒙軍が綏遠省に侵入した(結果は中国の勝利)、「綏遠事件」が決定打。

【西安事件】

★蒋介石は共産党との協調関係を余儀なくされる。

【日中緊張緩和の兆し】

★緊張状態のまま盧溝橋事件に突入したわけではなく、1937年は日中平等な交渉を目指す佐藤尚武が外相に就任、参謀本部では華北分離工作に否定的な石原莞爾が作戦部長となる。

★これにより、緊張緩和が訪れた。

【華北で緊張高まる】

★中国軍が兵力増強。日本軍の近くで軍事演習を行う。

★北平では戒厳令が敷かれ、7月には日本が武力行動を起こすと噂されていた。

【盧溝橋事件】

★7月7日、関東軍第三大隊(一木清直隊長)が銃撃を受け、牟田口連隊長が攻撃許可を出す。

★双方攻撃をはじめる。

★双方の攻撃は2時間程度で収束。9日には双方撤退。11日には停戦協定。この時点では局地的な事件で収束するかのように見えた。

【第29軍】

★中国側で現地で対応に当たっていた第29軍は西北系で中央直轄部隊ではなかった。

★中央と現地の情報共有にも問題があり、蒋介石が停戦を知ったのは12日後であった。

★停戦後も、不法射撃を繰り返した。

★蒋介石は中央軍を北上させて備えることが平和的な解決につながると考えたが(?)、日本側はこれを戦争意思と捉える悪循環。

★軍内にも主戦派と主和派に別れていた。

第29軍を率いた宋哲元(1885-1940)。主和派の張自忠に交渉を行わせる一方、主戦派の馮治安とも連絡をとっていた。写真はwikipediaより。

【廊坊事件】

本格的な開戦が意識されたのは、教科書で習う「盧溝橋事件」ではなく、「廊坊事件」、「広安門事件」であった。

★軍用電線を修理中の通信隊が射撃される。この日を境に現地日本軍の態度は硬化した。

★中央には積極的兵力行使を求め、参謀本部はこれに応じた。

【広安門事件】

★居留民保護を目的として北平城内に向かった部隊が城門において攻撃される。

陸軍中央はついに中国軍攻撃と内地師団の動員・派兵を決定した

★日中戦争は「盧溝橋事件」がはじまりであったのではなく、「廊坊事件」がはじまりであった、と言える。

♨ネット上ではこれらが国民政府ではなく共産党によるものという説もある。

【華北総攻撃開始】

★28日2時に宣戦布告し、8時より攻撃開始。

★第29軍宋哲元はその日のうちに北平から撤退。

★日本軍は南下。

★武漢まで南下させることを恐れた中国軍も兵力を集め、8月14日、広範囲に及ぶ全面戦争に突入。

【石原莞爾更迭】

★上海では中国側は入念に準備しており、数で劣る日本軍は大打撃。なおも石原は居留民とともに引き上げたほうが安くあがる、と主張し不拡大方針。

★参謀本部第一部長が石原莞爾から下村定に代わると積極策となる。

★主戦場を華中に移し、形勢逆転。

★上海まででとどめておく予定であったが、現地軍の度重なる具申により、戦線拡大。

★南京攻撃へ。

【トラウトマン工作】

★11月の段階ではまだ中国軍が不利ではなかったことなどから蒋介石は難色。

★ソ連の対日参戦が不回答であったこと、戦局が不利になったことから12月に再度検討。

★しかし、この時は南京は陥落し、講和内容が中国側にとってより厳しいものになっていた。

【蒋介石】

★汪兆銘ら、多数のものが和平を唱えたが、蒋介石は譲らず。

★結局、回答期限を過ぎたために、日本は「国民政府を対手とせず」という近衛声明につながるのだ。

昭和陸軍の軌跡:この辺りから

次章は<東亜新秩序>