昭和史講義
『§9.日中戦争の泥沼化と東亜新秩序声明』(戸部良一先生)
【これまでの理解】
★中国は「奥地が広い」ため、中国全土を支配できるほどの兵力のない日本軍は点でしか支配することができず、占領地を維持するので精一杯となり、「泥沼状態」となった。
【新たに考えるまとめ】
★こののち、日本は武器の供給が追いつかないために侵攻を控える方針でいたが、現地軍の強い要求により拡大を認めた。
★近衛は内閣改造して和平に向けての努力を行うが、いずれの策も失敗。蒋介石も和平の意思なし。
★なぜ戦っているのか理解していなかった多くの国民の為に「東亜新秩序」宣言(第2次近衛声明)。
★汪兆銘の国民党離脱に伴い、第3次近衛声明。近衛三原則を打ち出す。
★汪兆銘暗殺未遂。汪兆銘は欧州への亡命を考えていたが、南京に政府をたて、和平を目指すも思うような成果を得られず。
★日本も多くの戦闘に勝利するも中国軍を屈服させることができず、膠着状態の打開を世界情勢の変化(つまりドイツの進撃)に期待した。
【関連年表】
1937年12月 | 北京に駐華民国臨時政府擁立。(北京政府) |
1938年1月 | 第1次近衛声明(「対手とせす」)。 |
1938年2月 | 武器・弾薬の供給が追いつかないため、大本営は積極的な作戦を控える方針を立てる。 |
1938年3月 | 南京に中華民国維新政府成立させる。(南京政府) |
1938年4月 | 現地軍の強い要請による「徐州作戦」。 |
1938年5月 | 近衛首相、内閣改造に着手。 |
1938年9月 | 宇垣外相辞任。 |
1938年10月 | 武漢攻略。 |
1938年11月 | 第2次近衛声明(「東亜新秩序」)。 |
1938年12月 | 汪兆銘重慶離脱。第3次近衛声明(「近衛三原則」)。 |
1939年3月 | 汪兆銘の隠れ家が重慶のテロ組織により襲撃される。 |
1939年9月 | 欧州で第2次世界大戦勃発。 |
1939年12月 | 中国軍による冬季攻勢。 |
1940年3月 | 汪兆銘による南京政府が樹立。 |
1940年11月 | 「桐工作」が失敗に終わり、汪兆銘政府を承認(「日華基本条約」)。 |
【対手トセス:第1次近衛声明の狙いは何か?】
★1つは国民に長期戦の覚悟を求めるというもの。(アメリカの「中立法」が発動されてしまうと双方とも困るので、双方とも「宣戦布告」を行わなかったため、「事変」という軽いニュアンスのまま進行していた。)
★もう1つは国民政府否認論の高まり。南京を陥落させたのだから勝ったとして、国民政府に代わる政権を成立させようという狙い。
★当初は国民への覚悟がメインで、もしも国民政府が態度を改めるのであれば再交渉の余地はあるというものであったが、議会で文言の曖昧さを指摘されると、近衛首相も広田外相も「国民政府とは一切和平交渉を行わない」と言い切ってしまった。
★それにより、事変の処理が厳しく拘束されてしまうこととなった。
【大本営の計画】
★1937年11月、日露戦争後はじめて大本営が設置される。
★狙いは現地日本軍へのブレーキであったといわれる。
★しかし、ブレーキを利かせることはできず、現地軍の激しい要請を認める形で12月、南京攻略を命じることに。
★新設師団の増加などで武器・弾薬の供給が追いつかなかったために、積極的な作戦は行わない方針を決めていたが、やはり現地の進撃要望を止めることができず、徐州作戦につながる。
【徐州作戦】
★中国軍は日本軍の包囲をすりぬけて逃走。
★蒋介石は黄河の堤防を決壊させて日本軍の進撃を止めたが、数百万の中国人が洪水の被害に遭った。
【北京政府・南京政府】
★日本軍の占領地が拡大するにつれ、現地の治安維持の為に現地政権が樹立された。
★古いタイプの政治家が寄せ集められたが、いずれも弱体政権であった。
【第1次近衛政権の内閣改造】
★情勢を見て近衛は内閣改造を決意。
★前年11月に大本営が設置されたとき、政治と戦争の一致を図るべき大本営政府連絡会議を開催したが、ここでの論争は激しいものであり、その後も政府と参謀本部で厳しい意見の対立があったことから、大本営政府連絡会議ではなく、五相会議で日中戦争に関する重要方針を決定しようとしたのだった。
→【どう変わったか?】
外務大臣:広田弘毅→宇垣一成(宇垣工作失敗で辞任)
大蔵大臣:賀屋興宣→池田成彬
陸軍大臣:杉山元→板垣征四郎(陸軍の歯止めを期待したが不可能)
海軍大臣:米内光政→留任。
【五相会議の方針案】
★①臨時政府、維新政府、さらに今後成立するはずの蒙彊政権を合体させて新中央政権を樹立し、これと新しい国交関係をつくる。
★②新中央政権のトップに三政権とは直接関係しない在野の有力者を据える。
★③新中央政権の構成分子に反省した改組国民政府を加える。
★この3つに明確な優先順位はなく、末端では様々な工作が実行され、互いに競合、錯綜する事態が起きる。
【宇垣工作】
★その工作の1つが宇垣工作である。
★宇垣外相は和平への道として蒋介石が下野して、国民政府が新中央政権の構成分子となるような方針を進めたが、中国側はこれを拒否、日本側も政府や陸軍が反対しており、宇垣工作は挫折。
★宇垣も9月に辞任。
★新中央政府のトップ候補として有力であった唐紹儀は重慶政府により暗殺される。
【武漢攻略】
★武漢攻略にて北から天津、青島、上海、広東という主要港湾都市を占領し、北京、南京、漢口という内陸の中枢都市を占領した。
★しかし、重慶政府は抗戦を続ける。
★日本の軍事能力は限界に達し、広大な占領地の確保だけで手一杯になる。
★これ以降、大規模な作戦を遂行することは困難に。
【政治的解決の試み】
★大規模作戦が不可能となれば、政治・外交手段による解決しかない。これには独伊との連携が考えられた。
★ドイツとの連携では、ソ連の日中戦争介入を防止し、ソ連の援蔣行為を抑制する効果などが期待された。
★汪兆銘との和平も試みられた。この工作の狙いは重慶政府和平派を結集し、蒋介石を下野させることであった。
★しかし、蒋介石の下野は不可能と知ると、汪兆銘を日本にも重慶政府にも属さない和平派として活動させるという方針に変わった。
【第3次近衛声明】
★1938年12月、汪兆銘はひそかに重慶を離脱し、ハノイに到着。
★これに呼応して第3次近衛声明。
★中国による満州国承認、防共協定の締結と日本軍の駐屯、経済提携、資源開発での日本への便宜供与、戦費賠償と領土を求めないことなどを謳った。
★(近衛三原則=善隣友好、共同防共、経済提携)
★しかし、これには事前に合意され、汪兆銘がもっとも重視していた日本軍撤兵についての言及がなかった。
♨これについてはwikipediaによればソ連のスパイである尾崎秀美が日中戦争の長期化を狙って削除した、という可能性があると言及。汪兆銘もハノイから重慶政府に和平を呼びかけた。
【汪兆銘】
★1939年3月、汪兆銘はハノイの隠れ家で重慶のテロ組織により襲撃される。
★汪兆銘は助かったが、彼の腹心は殺害された。
★欧州亡命も考えていたが、汪兆銘はこの事件を機に、南京に和平政府を樹立するという方針を決定した。
★この方針転換は日本側からの圧力と考えられていたが、汪自身の決断であったようである。
★しかし、当初、日本は 呉佩孚をトップにしようと考えていたため、日本側は同調せず、紆余曲折を経て、1940年3月に南京に新政府を樹立した。
♨同調しなかった理由として、初期の構想とは異なって、弱い政権しか作れないことが明らかだった、という側面もあった。
汪兆銘。歴史検定で漢字を書かされたような・・・。日中戦争の早期講和を図ったという点はもう少し評価しても良いのでは、と思うが。このあたりは常に難しい。名古屋大学病院で死去。写真はwikipediaより。
【桐工作(蒋介石と講和)と梅工作(汪兆銘支持)はこのあたり:昭和陸軍の軌跡】
【第2次近衛声明】
★1938年11月、近衛首相は日中戦争の目的として「東亜新秩序」の建設を表明した。
★日満支三国による互助連環の関係樹立である。
★国民政府であっても、人的構成を変更して新秩序への参加するのであれば「拒まない」と呼びかけた。
★なぜ、この時点で戦争目的を表明したかといえば、多くの日本国民がなぜ戦争しているかわかっていなかったからである。
★しかし、蒋介石の姿勢は変わることはなく、また、汪兆銘のような離脱者も少なかった。
【桐工作】
★日本は汪兆銘政権をすぐに承認したわけではなかった。
★重慶政府と和平工作を行っていたからである。(汪兆銘との連動を「梅工作」と呼び、蒋介石との和平工作を「桐工作」と呼ぶ。)
★しかし、浙江財閥の宋兄弟の1人と思って交渉していた人物は実は偽者で重慶側の諜報工作員であった。
★重慶側の狙いは日本を混乱させることであった。桐工作は失敗。
【日華基本条約】
★締結に至るまでの交渉過程は長く、当事者には重い負担であった。
★日本側の要求が強く、汪兆銘陣営から同志が離脱。
★日本側としては汪兆銘政権が弱いものであったために、長期持久戦の軍事的必要と占領のためにできるだけ多くの特権を要求したのだった。
★結局、汪兆銘は日本からの過剰な干渉と監督を受け、和平による実績を挙げて統治下の住民の支持を得るという目標は果たすことができなかった。
【冬季攻勢】
★中国軍が大規模な反攻を行う。
★中国軍は弱体化していたと思っていたが、まだ余力があった。
★しかし、中国軍の大規模な反攻はこれにとどまった。
★中国軍は日本軍を敗北に追い込むことはできなかったが、日本軍もほとんど全ての戦闘に勝利するも中国を屈服させることはできなかった。
★広大な領地を占領しているようで、実際にコントロールできたのは「点と線」だけであった。
★日中とも勝てない膠着状態に入る。
★この時点で日本陸軍が中国に派遣していた兵力は25師団85万人。
★戦死者は太平洋戦争までに18.5万人。もっとも中国側の犠牲はこれをはるかに上回った。
【世界的大変動】
★膠着状態の打開に、世界情勢を生かせないかと考える。
★1939年9月の大戦勃発、1940年5月以降の西部戦線でのドイツ快進撃が日中戦争解決につながるのではないかと考えた。
★日本政府および軍の関心は欧米諸国の植民地である東南アジアに向けられる。