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☞【泥沼の日中戦争を招いたのは?】『昭和陸軍の軌跡』(川田稔、2011年)第6章:日中戦争編

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以下、「昭和陸軍の軌跡第6章の読書メモです。(前回まではコチラ

第6章:日中戦争の展開と東亜新秩序

1.戦争の拡大と戦線の膠着

★7月28日、日本軍総攻撃。翌日には北京・天津ほぼ制圧。

※なおも派兵に積極的な武藤に対して、石原はなおも拡大反対。

★1937年8月17日、米内海相主導で不拡大方針放棄の閣議決定。

※石原は華北だけに限定しようとしていたが、海軍による上海での戦闘で日本軍も多数被害。引くに引けない状況に。

★1937年9月27日、石原は作戦部長を辞す。

※拡大派が圧倒的多数となっていた。石原は満州に転出。後任の多田らが慎重路線を継ぐも、方針が定まらず現地での軍の独走を許すことに。

★次々、増派。

※本土には近衛師団と第7師団(旭川)のみ。対ソ防備から精鋭部隊は満州に配置され、上海方面には現役兵率の低い編制装備の劣る部隊が派兵。しかもソ連の出方を警戒して逐次投入。これらにより上海では多数の被害となった。

★1937年12月、南京事件。

※兵站準備がほとんどなかったので現地で略奪が横行。当時、駐華ドイツ大使トラウトマンによる和平工作が行われていたが、南京占領後、日本はより厳しい条件を提示。

★1938年1月16日、近衛声明。「国民政府を対手とせず」と、交渉打ち切り。

※多田駿参謀次長はただ一人打ち切り反対を主張していたが、杉山陸相、近衛首相、広田外相ら強硬論は崩せず。最終的に米内海相が近衛らをサポートして内閣総辞職をちらつかせることで多田も折れた。以後、泥沼に入る。

★1938年4月、国家総動員法。電力管理法。

★1938年12月、当分の間、現占領地の治安維持に主眼を置く方針に。

※既に中国軍の主力は奥地に。日本軍は占領地を増やしても占領地の治安維持に配備するしかできなく、進出しても中国軍は分散退却し、日本軍が原駐地に戻ると帰還するということの繰り返しであった。広い中国を制圧するには兵力の絶対量が不足していたのだ。

★日中戦争不拡大を唱える石原は孤立し、辞職。(※石原、満州に転出。東条と仲違いしたのはその後の満州にて。)

2.近衛内閣の東亜新秩序声明とその影響

★1938年11月3日、近衛内閣は「東亜新秩序」声明を発表。

※第1に、日中戦争の目的は日本、満州、中国による東亜新秩序の建設。第2に、国民政府が従来の反日政策を放棄するなど一定の条件を満たせば新秩序建設への参加を拒まない、という内容。→これはワシントン体制の原則を事実上否定するものであった。また、一定の条件を満たせばというのは国民政府内で長く蒋介石と主導権を争ってきた汪兆銘を首班とする新政権を念頭に置いている。

★1938年12月29日、汪兆銘は重慶を脱出し、中国各方面に和平の通電を発したが同調者は少なかった。

※期待に反して反蒋介石派の軍隊も動かず。日本側の企図は挫折。

※ワシントン体制の否定は必ずしも米英と軍事的に敵対することを意図するものでもなかった。また、永田、東条、武藤、田中らはドイツ駐留経験があるが、それだからといってナチスと連携するかどうかは、この時点では別物であった。しかし、当然、アメリカもイギリスも反発。米英とも中国に借款供与し援助。ソ連は以前からも援助していたがさらに援助。

※それまでアメリカは日本への輸出額が中国への輸出額の7倍であり日米和平を望んでいた。イギリスは欧州危機に際して日本に妥協的態度を取らざるを得なかった。

★1939年9月30日、統制派の武藤章が陸軍省実務トップの軍務局長に就任。

※既に課長レベルまでは統制派が優位であったが、武藤の就任と、冨永恭次が参謀本部作戦部長に就任したことで統制派が圧倒的な影響力を持つことに。

★1940年7月、統制派最年長の東条英機が陸軍大臣となる。

★日本にとって、日中戦争はあくまでも次期大戦に備えての軍需資源と経済権益の確保が目的であったため、兵力は100万に達していなかった。(※太平洋戦争前後では400万。)第2次大戦は昭和17年くらいであろうと予想していた。

★1938年3月、ナチスドイツのオーストリア併合、9月、ミュンヘン会談でひとまず大戦勃発回避。

※それもあって余力を残しておく必要があった。

★1938年8月、ドイツからソ連のみでなく、英米も対象とした日独伊三国同盟案が提示。

※ドイツとしては対ソ戦に備えるとともに、アジアに広大な植民地を持つイギリスを日本が背後から牽制するという狙いがあった。満州国の承認、中国への武器輸出禁止など、親日政策を打ち出す。陸軍はソ連だけを対象としたかったが、ドイツはあくまでも米英も含めることを要望。ドイツ案を受け入れる形となったが、外務省や海軍は強く反対。

★1939年1月、ドイツとの同盟をめぐって閣内不一致となり、近衛内閣総辞職。平沼内閣へ。

★1939年4月、リッベントロップ外相は日本が同盟に躊躇するならドイツはソ連と不可侵条約を結ぶかもしれないと警告。

※日中戦争へのソ連の介入を恐れる陸軍は焦燥。しかし、やはり外務省、海軍の同意は得られず。

★1939年8月23日、独ソ不可侵条約締結。平沼内閣は三国同盟交渉打ち切りを決定して総辞職。

★1939年9月1日、ドイツがポーランド侵攻。9月3日、英仏がドイツに宣戦布告。

※このような状況下での武藤章の軍務局長就任である。(9月30日)武藤はかなり明確な戦略をもっており、以後、武藤がリード。

★1939年6月、天津英仏租界の封鎖。

※英仏租界が日本の北京臨時政府の管理通貨である連銀券を使わず、国民政府の法幣を使用。この法幣がポンドとリンクしており、英仏租界が日本側による華北経済支配を困難にしていると考え、武藤は天津英仏租界の封鎖を実施した。イギリスは欧州大戦に備えて大幅に譲歩した(7月23日)が、アメリカがバックアップ(7月26日)して姿勢変化。交渉は無期延期に。

★1939年7月26日、アメリカ政府が日米通商条約破棄を通告。

※ルーズベルトによる警告。対日経済制裁を示す。これによりイギリスの態度が変化したが、以後、日本はイギリスが中国における資源確保と市場支配に対する障害として強く認識されることに。利害関係という点で最も衝突したのがイギリス。また、アメリカはイギリス重視と言うことが明らかになった件でもある。当時、日本は多くの資源をアメリカから輸入していたのだ。これは日米関係の悪化から来るのではなく、日英関係の悪化から来たものであると言うこともポイントである。

★日中戦争拡大。欧州では第2次世界大戦勃発。日中戦争が長引く原因として天津英仏租界の封鎖を狙ったが、これに対してアメリカがイギリスのバックアップを明言。対日経済制裁を示す。(後述するが、アメリカとしてはイギリスがドイツに負けると欧州での足掛かりを失うので困るのであった。また、日本は中国にくぎ付けにしておくのが得策と考えていた。日独とソ連が戦争して日独が勝ち、アメリカが日独に挟まれるというのが最悪の事態。【コチラも】)

★ドイツからはソ連だけを対象とした防共協定から、英米をも対象とした日独伊三国同盟を提案。

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