~只今、全面改訂中~

☞【陸軍の主導権を握るのは誰だ?】『昭和陸軍の軌跡』第4~5章:二二六事件編

こんにちは。

昭和陸軍の軌跡」(川田稔、2011年)のご紹介です。

近代日本史は陸軍の動きを見れば、よりわかりやすくなると思いました。

以下、読書メモです。(前回まではコチラ

第4章:陸軍派閥抗争ー皇道派と統制派

1.陸軍中央における派閥対立

★1933年4月頃、永田と小畑の対立が表面化。これにより統制派と皇道派の抗争開始。

※真崎と荒木は親しく、真崎は佐賀系、小畑、山下らは土佐系で佐賀系と土佐系は仲が良い。当初、永田ら一夕会は宇垣系に対して真崎、荒木らを擁立して実権を掌握しようとしたが、逆に彼らは永田と小畑の個人的な対立に乗じて一夕会の土佐系、佐賀系を抱き込み、彼らを有力ポストに就けて皇道派を形成。

♨いきなり皇道派vs統制派だったのではない。まず一夕会vs宇垣派があってのそれ。

★小畑の考えは、ソ連が国力を回復して満蒙を狙ってくる前にソ連に攻撃を加えると言う論。1936年前後の開戦を企図。一方、永田は満蒙経営を安定させてからという考え。

★永田の方が多数であったが、荒木陸相はこれまでの小畑との関係から小畑を支持。これで五相会議に臨むが、高橋是清首相、広田弘毅外相らにより押さえつけられる。

★小畑は対ソ強硬、対中慎重。
★永田は対ソ慎重、対中強硬。(資源的な解決を中国に求めていたため)

★また、小畑は中国問題に対しては英米との協調が必要としていたのに対して、永田はアメリカ優位の海軍条約は許容せざるものとしていた。

  小畑敏四郎(皇道派) 永田鉄山(統制派)
出身母体 土佐系 なし
ソ連戦略 ソ連は国力回復したらすぐに攻めてくるであろうから先制攻撃して極東部隊を壊滅させる ソ連はいずれ敵となるだろうがしばらくは攻めてこないであろうから満州国発展が先決
日ソ不可侵条約への対応(※1) 否定的 積極的
北満鉄道への対応(※2) いずれ手に入れるので、買収すれば資金援助につながるので反対 日本と満州で買収すべき
中国戦略 排日運動は米英が日本の極東政策を認めるまで減ることはないだろうから、米英との関係を重視し、貿易していく。 排日運動には断固とした態度で臨む。対ソ戦は国運を賭する大戦争となるが、中国はそのための「資源確保」。
対米政策(※3) 日本の大陸政策に干渉するのであれば排撃すべしと考えたが、基本的には国交親善。   米の経済力による極東支配は排撃すべき。米はアジアに死活的利害を持たないため戦争にはならず、政治的に解決可能であろう。
対英政策 紛争の圏外に置くべし 紛争の圏外に置くべし

(※1)1932年、ソ連から再提議→結局、謝絶

(※2)東支鉄道:1933年、ソ連から売却案→1935年に妥結

(※3)1936年はロンドン・ワシントン条約の改定時期であるが、海軍は日米必戦論に立つ加藤寛治ら艦隊派がすでに両条約の廃棄を決定していた。

2.隊付青年将校と陸軍パンフレット

★皇道派、統制派とは別に、青年将校の間に国家改造を目指す政治的グループが形成。彼らは北一輝の影響を受けた西田税を結節点として運動を本格化。(1931年8月~)

★このメンバーが、1932年の血盟団事件(井上準之助、三井財閥の団琢磨を暗殺)、五・一五事件を引き起こす。

※民間から井上日召が加わる。

★1932年11月、一夕会中堅幕僚と青年将校グループの会合があり、青年将校グループの政治工作をとがめたところ、「軍中央部は我々の運動を弾圧するつもりか!」と、会議が決裂。

※永田らは軍の統制という観点からも好ましくないと考えていた。

★1934年7月、政界疑惑(帝人事件)で斎藤実内閣総辞職。岡田啓介内閣に。1月に病気の荒木から陸相を継いだ林は留任。永田はこの際に軍務局長になっていた

★1934年10月、陸軍パンフレット「国防の本義と其強化の提唱」が発行。永田の指示。

※「平時」も国家統制すべきとの考えに立っていた。(それまでは平時は「準備」と「計画」としていた。)真崎は「国家社会主事思想」として忌避。

★統制派、皇道派とは別に「青年将校」グループも存在。彼らの政治介入は軍の統制を乱すとして永田らは忌避していた。

★帝人事件で斎藤内閣は総辞職し、岡田啓介内閣に。この時期、永田は軍務局長になっており、陸軍パンフレット「国防の本義と其強化の提唱」発行。平時も国家統制すべきとの考えに立っていた。

3.派閥抗争の激化と永田軍務局長の暗殺

★1935年2月、天皇機関説が問題に。機関説の否定は衆議院を満場位置で可決。右翼、国家主義団体、在郷軍人会を中心に国体明徴運動が展開された。4月には真崎から機関説は国体に反すると全軍に通達。さらに運動は岡田内閣打倒まで飛び火。

★1935年8月3日、岡田内閣は運動の圧力を受けて第1次国体明徴声明を発する。

※この運動の背景には皇道派、統制派、宇垣派の争いがあった。林、永田らにより罷免へ追い込まれた真崎による逆転を狙った倒閣運動と考えられる。

★1935年8月12日、永田鉄山暗殺。真崎罷免の黒幕が永田軍務局長であるという怪文書をもとに、憤激した相沢三郎中佐によるもの。相沢は青年将校グループとも真崎とも親しかった。

★1935年10月15日、第2次国体明徴声明。

これにより国体明徴運動は衰え、真崎の倒閣の試みは失敗に。

★1935年2月、天皇機関説問題が持ち出される。この背景には真崎による内閣転覆運動という側面もある。

★1935年8月、真崎罷免の原因が永田にあると考えた相沢三郎により、永田鉄山暗殺。

★岡田内閣は運動の圧力を受け、国体明徴声明(第1次、第2次)を発表。

第5章:二・二六事件前後の陸軍と大陸政策の相克ー石原莞爾戦争指導課長の時代

1.華北分離工作と二・二六事件

★1933年の塘沽停戦以後、斎藤、岡田内閣のもとで日中関係は小康状態。国連やアメリカが対日制裁に動かない状況から蒋介石も対日融和に軌道修正。

★1935年、華北分離工作開始。関東軍主導で華北地域の勢力圏化を意図する工作が開始。6月に国民党勢力を河北省、チャハル省より排除。

※この華北分離工作は永田の構想の延長線上にあるものであった。ちなみにこの年の3月にはナチスが再軍備宣言。ヴェルサイユ条約破棄。次期大戦勃発の予兆と華北分離工作は無関係ではないだろう

★1935年11月、河北省に親日政権樹立。冀東防共自治政府ができる。

★1936年2月26日、二・二六事件。国家改造を掲げた青年将校グループが斎藤実内大臣、高橋是清大蔵大臣、渡辺錠太郎陸軍教育総監を殺害、鈴木貫太郎侍従長に重傷。結局クーデターは失敗。彼らにつながりがあったとされ、真崎、荒木、小畑ら皇道派は予備役へ編入され、事実上、陸軍から追放。ついでに南ら宇垣系も予備役に。

★二二六事件後に成立した広田弘毅内閣における陸軍トップは寺内寿一陸相、閑院宮参謀総長、杉山元教育総監という顔ぶれで政治色が薄く、中堅幕僚層の意向が強く反映される布陣となった。ここで発言権を増していたのが武藤章(永田直系の統制派)、石原莞爾(統制派ではないが非皇道派一夕会)。

★1936年5月、軍部大臣現役武官制が復活。武藤、石原らの圧力。

※1913年、山本権兵衛内閣以来、現役武官に限定されることとなった。

★1936年2月26日、青年将校グループにより二二六事件。つながりがあったとされた皇道派の面々や、宇垣派は予備役に。陸軍の中心は武藤章と、石原莞爾に。広田内閣のもと、軍部大臣現役武官制を復活させる。

★欧州ではナチスが躍進しており、次期大戦勃発の可能性が現実味を帯びる。関東軍は華北分離工作、親日政権樹立。

2.石原の対ソ戦略と対中国政策の転換

★1937年3月、石原が作戦部長に。

※作戦課長時代の石原は日本の在満州勢力がソ連の1/3以下ということを知り愕然。強い危機感を抱く。ソ連の極東攻撃を断念させるべく、米英協調を考える。(一方、最終的にはアメリカと世界最終戦争に至ると考えていた。)

しかし、対ソ戦優先の考えは南進を重視する海軍に受け入れられず、「南北併進」が国策となった。(1936年8月、広田内閣での五相会議にて。)

石原は独自に国防政策を推し進める。1936年に作成した「日満産業五か年計画」は1937年5月に「重要産業五か年計画」として陸軍省に移管。重工業中心の発展を目指す。

★石原は満州国を一党独裁の国家にしようと考えていた。ちなみにその時期はまだナチスは現れていない。この考えはのちに武藤章の一国一党論にもみられる。(武藤のこの論はナチスの経験も吸収。)永田にはこのような考えはなかった。

★1936年11月、広田内閣によって日独防共協定が締結。

※ナチスの再軍備宣言に岡村寧次らは敬服していた。石原も対ソ牽制のために日独の協力を望んでいた。(ただ、石原は欧州戦争絶対不介入論者であり、日独伊三国同盟との結びつきはすべきでないとした。石原の構想は南方進出による資源の確保のちの世界最終戦争であり、対ソは極東攻勢を断念させることが目的。)

★1937年1月、華北分離工作中止へ。

石原の方針転換。1つは米英への配慮、もう1つは中国におけるナショナリズムの高まり。

(1935年11月、イギリス財政顧問リース・ロスの助言に基づき国民政府は銀本位制から管理通貨制度へ移行し貨幣制度を統一。これにより中央政府の経済基盤が安定し、国民政府による政治統一が急速に進行。→1936年12月には西安事件も起き、第2次国共合作へ。)

石原は日中協和を目指す。

(アメリカの大陸介入を断固阻止していた永田と異なり、石原は中国の新国家設立に米英と協力することを良しともしていた。このことは永田の後継である武藤章との対立の一因。華北分離工作は武藤の案でもありさらに対立。)

★1936年5月、関東軍は内蒙軍政府を樹立。

※しかし、中国軍に敗退。内部でも反乱。石原ら戦争指導課は関東軍に内蒙工作中止を主張するも、武藤情報主任参謀と対立。

(華北分離工作や内蒙工作を巡る石原と武藤の対立が日中戦争における拡大不拡大をめぐる対立にもつながる。)

★1936年3月、ナチスのラインラント進駐。

※前年にはイタリアがエチオピアに侵攻しており、国連が経済制裁を実施したが、1936年5月にエチオピア併合。石原は欧州大戦には関与すべきでないとし、20世紀後半に想定した日米世界最終戦争に向け、東亜連盟によってアジアを固めるべきとの方策をもっていた。介入不可避論をもっていた永田との違いでもある。

★1937年1月、腹切り問答。広田内閣総辞職。

※政友会浜田国松議員による陸軍批判が寺内寿一陸相の怒りを買い、政党と陸軍が対立。解散を主張する寺内と反対する閣僚の閣内不一致で広田内閣総辞職。後継は西園寺公望らの意向で宇垣一成。しかし、石原らの妨害で組閣ならず。小磯国昭ら旧宇垣派将官は幕僚らの意向に沿って動いており、陸相就任を断る。現役武官制が有効に作動した結果でもある。

★林銑十郎内閣成立も4ヶ月で総辞職。

※石原の推薦する板垣は陸相になれなかった。これは梅津美治郎がそれをすると序列が乱れるとのことであった。(板垣の先輩が梅津であり、梅津は首席、板垣は優等6名にも入らず。)石原の影響力に影が差し始める。

★1937年6月4日、近衛文麿内閣成立。

★石原は国際情勢を見て華北分離工作を中止。しかし、華北分離工作は武藤の案でもあったため、両者は対立することに。

3.盧溝橋事件と石原・武藤の対立

★1937年7月7日、盧溝橋事件。

★腹切り問答で広田内閣解散。林銑十郎内閣を経て、近衛内閣誕生へ。近衛内閣のもと、盧溝橋事件勃発。

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