~只今、全面改訂中~

こんにちは。

今回ご紹介しますのは、「なぜ政党内閣は復活しなかったか」(岡田内閣編)です。

戦争とファシズムの時代へ」、「教養としての昭和史集中講義」などを参考にさせて頂きました。

なぜ政党内閣は復活しなかったか?

①:岡田内閣編

齋藤内閣の後を継いだのは海軍穏健派の岡田啓介でした。

【齋藤内閣総辞職】

1934年。「帝人事件」という汚職が原因。
背景には、枢密院副議長・平沼騏一郎を首相に担ごうとする勢力(司法省ら)があった。

【平沼騏一郎】

元司法官僚。右翼団体「国本社」を主宰する国粋主義者。軍部との関係も深い。極端な国粋主義と権力志向などから西園寺は嫌っていた。

【岡田啓介内閣誕生】

西園寺はこの時はじめて首相経験者らを含む「重臣会議」で後継首相を選んだ。(出席者:内大臣・牧野伸顕、枢密院議長・一木喜徳郎、首相経験者・高橋是清、清浦奎吾、若槻禮次郎、斎藤実)

斎藤の推挙で、同じく穏健派で海軍軍縮条約批准に功のあった岡田啓介が就任した。

斎藤内閣の政策の継続、平沼騏一郎への抑え、および海軍軍縮条約更新への期待があった。

岡田内閣は齋藤内閣と同じく「挙国一致内閣」を目指しますが政友会の反対に遭います。

【立憲政友会・鈴木喜三郎】

1932年の選挙で大勝していただけに、岡田内閣誕生には難色を示す。

自身が首相にならない限り、閣僚は送らないと強硬な態度を示し、閣僚に選ばれた床次竹二郎、内田信也、山崎達之輔は政友会を離れた。

(民政党からは2人だったため、岡田啓介が最初から民政党寄りであったわけではない。)

岡田内閣の主な仕事は「政友会」対策となってきます。

※「天皇機関説問題」が浮上したのもこの時期です。この時期、美濃部達吉は「憲政の常道」に失望しており、政党・軍部・実業界・勤労階級の代表からなる「円卓頭会議」を提唱していました。

【内閣審議会】

重要国策問題を審議する。政友会対策も行なう。

下部組織が内閣調査局。各省のエリート官僚が調査官として集められた。局長には吉田茂が就任。

内閣審議会は次の広田内閣で廃止も、内閣調査局は存続し、企画局(1937年5月)、企画院(1937年10月)へと拡大強化され戦時体制の構築に関わる総合国策の立案機関として活動し、内閣制が官僚中心のものへと転換するきっかけともなった。

そして、岡田は「民政党」と「社会大衆党」を中心とした連立政権を模索します

「社会大衆党」は選挙のたびに得票数を伸ばし、1936年2月20日の第19回衆議院議員総選挙で22議席を獲得しました。

【社会大衆党】

無産政党を結集して、1932年設立。第3極として出発した。

主な党員として、麻生久、安倍磯雄、片山哲、鈴木文治。

のちに全体主義に走り、それに反発した安部、片山、鈴木は除名。
大政翼賛会にいち早く参加。日本社会党の源流。

※立憲政友会もこのままではダメだ、もう少し社会政策も充実させねば、と思っていましたが・・・

しかし、「二二六事件」勃発で、すべてが変わります。

「二二六事件」は皇道派と統制派の争いという見方をされますが、ともに「反・政党」という点では一緒でした。

この混乱を統制派が解決したことで、陸軍統制派の発言力が増すことになるのです。

混乱を受けて岡田内閣は総辞職。

後継首相には枢密院議長・一木は政敵の平沼騏一郎を推しましたが、元老・西園寺がこれを嫌い、近衛文麿を推挙します。

近衛は西園寺と意見が合わなかったことに加え、軍部への対応に自信が持てなかったことから辞退しました。

結果として、岡田内閣で外務大臣を務めた広田弘毅が首相となり、非政党内閣が誕生しました。

【広田弘毅】

外務省では吉田茂と同期。
広田内閣の組閣には陸軍がはじめて本格介入しました。
そして、軍部主導の外交政策が行なわれることとなります。

まとめ

岡田内閣の次は政党内閣、という流れがあったが「二二六事件」で頓挫。

「二二六事件」を「陸軍統制派」が解決したことで、陸軍統制派はその後、影響力を増し、広田内閣の「閣僚選び」、「外交政策」にまで口を挟むようになる。

【岡田内閣時代の主な出来事】

首相就任(1934.7.8)
陸軍パンフレット(1934.10)
陸軍士官学校事件(1934.11.10)
ワシントン海軍軍縮条約脱退通告(1934.12.29)
天皇機関説事件(1935.2~)
国体明徴運動(1935.4~)
内閣審議会設立(1935.5.11)
華北分離工作(1935.11~)
相沢事件(1935.8.12)
ロンドン海軍軍縮条約脱退通告(1936.1.15)
第19回衆議院議員総選挙(1936.2.20)
二二六事件(1936.2.26)
内閣総辞職(1936.3.9)