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☞【二二六事件の背景を知る!】『§7.二・二六事件と昭和超国家主義運動』(筒井清忠先生)

こんにちは。

今回ご紹介しますのは、1936年の「二二六事件」です。

昭和史講義(2015年)より第7章、二・二六事件と昭和超国家主義運動(筒井清忠先生)をベースにさせて頂きました。

二二六事件

勢力を失った皇道派と青年将校が結びつき、国家改造を掲げて起こしたクーデター。

クーデターは失敗。皇道派は粛清。統制派が中心に。(宇垣派も失脚)

青年将校の精神的・理論的中心となった北一輝は処刑された。

【付け加えるべき視点】

★1918年に老壮会が結成されているように平等主義的思想活動は以前からあった。

★これらの活動の理論的指導者が北一輝。西田税は彼を慕う陸軍青年将校であった。

★北一輝らは荒木陸相に期待していたが、思うような成果が得られない。

★一方、陸軍内部も皇道派と統制派に分かれて派閥争いが生じた。

★陸軍士官学校事件以後、皇道派が追い込まれるが、青年将校グループと結びつくことでクーデターを実現しようとしたのが二二六事件である。

★しかし、昭和天皇がクーデターを拒否。

★北一輝は事件の中心人物ではないが、協力したという理由で処刑された。二二六事件は統制派と皇道派の争いだけではなく、国家社会主義運動との関連性も考えるべき。

(★ちなみに、五一五事件は「海軍青年将校」、「陸軍士官学校生」、「愛郷塾」の人々が起こしたもので、北一輝らのグループは関与していない。)

【年表】老壮会結成(1918)~二二六事件(1936)

1918 「老壮会」が結成される。(※1)
1919 猶存社」が結成される。(※2)
1921 「朝日平吾事件」がおきる。(※3)
1922 西田税と北一輝が面会。(※4)

コミンテルン日本支部として日本共産党結成される。
1924 アメリカで「排日移民法」。
1929 世界恐慌(10月)

奉ソ戦争(7ー12月)(※6)
1930 ロンドン海軍軍縮条約(1-4月)
1931 三月事件(3月)(※7)
「郷詩会」という会合が開かれる。(8月)(※8)
満州事変(9月)
十月事件(10月) (※9)
荒木貞夫が陸軍大臣に就任。(12月)
1932 血盟団事件(2-3月)
五一五事件(5月)(※10)
1934 荒木貞夫陸軍大臣辞任。後任に林銑十郎。(1月)(※11)
永田鉄山が軍務局長に。(3月)
「陸軍士官学校事件」。(11月)(※12)
1935 真崎教育総監罷免。(7月)
相沢事件。(8月)(※13)
1936 二二六事件(2月)(※14,15,16)

(※1)老壮会

★大正時代は国会議事堂を取り囲んで内閣が総辞職した「第1次護憲運動」など、「群衆の反乱」が起こった時代でもある。

★満川亀太郎、大川周明が中心となりイデオロギーを問わずに集まった結社が「老壮会」である。国内外における貧困層の救出、平等主義が満川の主張であり、この時期は左右両翼の人々が集まっていた

(※2)猶存社

老壮会の中から、左翼的アナキズム、共産主義とは一線を画した平等主義をもった国家主義的運動を展開しようと考えた満川と大川が作る

★新しい運動のためには新しいリーダーが必要ということで、上海にいた北一輝を迎え入れた。

右翼運動が左翼・リベラルと決別したのは1919年の猶存社以後と言われます。

【北一輝】

★もともと平民社の周辺にいた社会主義的傾向をもった人物(満川、大川も)であったが、のち宮崎滔天(辛亥革命を支援:1871~1922)、宋教仁(中国国民党を設立、議院内閣制を目指すも暗殺される:1882-1913)らとともに中国の革命運動に挺身。

♨宋教仁暗殺の黒幕は孫文であった、という説もあるらしい。(当時の中国国民党のリーダーは孫文ではなく、宋教仁)。より民主主義的な彼がトップであったら全く歴史は変わっていたであろう。

★1919年の反日運動で、先頭に立っているのがかつての同志たちということを知るや、日本を立て直す決心を固め、「国家改造案原理大綱」を記し、大川周明が秘密出版した。

★「国家改造案原理大綱」の基本は、天皇の大権発動により、日本を平等な社会にしていくということで、まず天皇の名の下にクーデターを起こし、3年間憲法を停止し、両院を解散して戒厳令を敷く間に、貴族院、華族などの特権的な制度を廃止、治安警察法・新聞紙条例などの法律も廃止、私有財産は一定以上は認めず、土地は公有化する。また、地主・小作関係の不平等の解消、労働者の待遇改善、児童の教育権なども保全するというものであった。

★最終目的は列強により支配されている植民地でも平等主義を実現することである。

(※3)朝日平吾事件

★朝日平吾という青年が安田財閥当主の安田善次郎に、貧困な労働者向けのホテルを造れと要求、断られたため刺し殺し、自分も自決したという事件。

★遺書の内容から北一輝の影響が強く感じられた。

(※4)「軍人」と「北一輝」の関係

★世界的な軍縮の中で、自らの存在意義を問いた陸軍の青年将校らは北一輝の思想に傾倒していく。

彼らは軍人が中心となり、全世界に社会変革を起こすことを生きがいと考えるようになった

★西田税が最初に北一輝と親しくなり、彼を通じて若い青年将校らが面会をしていった。

★排日移民法では国民的義憤を招き、さらにロンドン海軍軍縮条約がその感情を増幅させる。

★また、昭和恐慌で失業者が増加、就職難、農村における女子の身売りなどがおき、特権をもった財閥へ批判の目が向けられた。

【日本共産党】

1922年、日本共産党が設立。1919年、世界革命の本部としてコミンテルンが結成されたが、その日本支部である。為政者にとっては間接統治の脅威にさらされたこととなる。(北一輝とは関係ない)

(※6)奉ソ戦

ソ連は軍事力で満州北部の権益を拡大しており、関東軍にとっては脅威となった

★南からは蒋介石の北伐軍が日本の南満州の権益を脅かしており、日中関係は険悪に。

(※7)三月事件

★北一輝が青年将校と結びつく一方、大川周明はより階級が上の中堅将校と結びつきを強めた。

★1930年1月、トルコでトルコ革命を見た橋本欣五郎中佐が帰国。桜会という軍人結社を結成。大川は思想的リーダーとなった。

★1931年3月、陸軍大臣宇垣一成を首班とする内閣を目指すクーデターを画策するも失敗。

(※8)郷詩会

★北や西田の青年将校グループ、井上日召のもとに貧困青年たちが集まって結成された血盟団グループ、橘孝三郎を中心にした農村青年グループ「愛郷塾」が集まった。

満州情勢の打開のために関東軍が何か起こしたら、国内でも革命を起こす準備を始めた

(※9)十月事件

満州事変に連動するという形で行われたが、具体性は不明。

★陸軍青年将校たちは桜会メンバーは単に自己の権勢欲を満たそうとしていることに過ぎない存在として訣別していく。

♨のちに台湾で共産党と戦った一夕会・根本博も呆れるほど。

(※10)五一五事件

海軍の青年将校、陸軍士官学校の学生、「愛郷塾」の人々による

★裁判となったが「特権階級打倒に農民と共に立ち上がった純真な青年将校」というイメージが連日報道される。

★昭和維新運動の宣伝のような場になり、青年将校らはスター扱い。

北、西田の影響下にある陸軍青年将校グループはこの動きには乗っていない

★これは、前年暮れに陸軍大臣になった荒木貞夫に期待していたからであろう。

コチラも:五一五事件

(※11)荒木貞夫陸相

★九州閥(反長州閥。上原→真崎の流れ)、一夕会系(反長州閥。)、青年将校グループ(北、西田ら)いずれも期待している状況であった。

★しかし、偏った九州閥人事を行い、荒木たち「皇道派」と、永田鉄山ら「統制派」の対立を生む。

青年将校グループが期待した経済政策は高橋是清蔵相に押さえつけられる

(※12)陸軍士官学校事件

★青年将校運動の中心人物、磯部浅一、村中孝次らをクーデター計画容疑で憲兵隊が検挙する。

★責任問題となり皇道派を次々と左遷。真崎罷免。

(※13)相沢事件

★真崎罷免の黒幕を永田鉄山と考えて、皇道派の相沢三郎中佐が統制派の永田鉄山を斬る。

青年将校グループとも親しかった。

(※14)二二六事件

★追い詰められた皇道派が起死回生に行う。

★計画では岡田啓介首相、高橋是清蔵相を暗殺、自分たちと立場の違う首相を選ぶ可能性のある元老・西園寺公望、斎藤実内大臣、鈴木貫太郎侍従長、牧野伸顕内大臣も暗殺、渡辺錠太郎教育総監ら軍内の反対派も暗殺。

(のち西園寺暗殺は中止になった。)

★そして、陸軍大臣川島義之より宮中に皇道派寄りの政権樹立の要望書を渡す。

(→真崎とも親しかった加藤寛治、皇道派に同情する伏見宮と打ち合わせ、平沼騏一郎内閣を作ることを伏見宮から天皇に進言した。)

★しかし、昭和天皇および木戸幸一内大臣秘書官長が、これらの提言を拒む。

石原莞爾参謀本部作戦課長は、青年将校たちに同情的な面もあったが鎮圧。結局、クーデターは失敗。

★29日には鎮圧。(♨うるう年。)

五一五事件の時、国民は首謀者たちに同情的でしたが、二二六事件では経済が好調だったので否定的でした。

(※15)戒厳令

二二六事件では戒厳令が敷かれました。

1905 日比谷焼打ち事件
1918 米騒動
1936 二二六事件

(※16)二二六事件後の勢力変化

★事件後、皇道派は決定的に勢力を失い、代わって石原莞爾を中心とした石原派(満州派)が台頭。石原は翌年の宇垣内閣の流産、林銑十郎内閣組閣に関わるが、林内閣組閣がピークであり、日中戦争がはじまると今度は石原自身が左遷される。

北一輝、西田税は中心人物ではなかったが、協力したという理由で処刑

【旧・統制派の争い】

★のち、東条英機、武藤章冨永恭次ら、かつて永田鉄山のもとで「統制派」として結集していた人々が軍の要職に就いたが、彼らは決して結束があったわけではない。

(彼らを「統制派」と呼ぶのは不適切。むしろ「皇道派以外」とするのが正しいか?)

一夕会メンバーについてはコチラ

【皇道派その後】

★皇道派は陸軍内での影響力は失ったが、近衛文麿が皇道派寄りであったため、その影響は残り、荒木貞夫、柳川平助の入閣があった。

★太平洋戦争中には親英米派の吉田茂らと「反東条」で結束もした。

★終戦後の東久邇宮内閣には小畑敏四郎が入閣。

【昭和の超国家主義運動のその後】

★二二六事件は失敗したが、この運動がもっていた平等主義的発想は様々な形で受け継がれていった。

★これらの運動では

英米=「植民地支配特権大国」=「貧窮にあえぐ民衆の敵」=「天皇周辺の親英米派

vs

アジア」=「弱小隷従地域」=「植民地支配にあえぐアジアの解放を求める一派

という構造を生み出した。

この発想はとても強く、太平洋戦争の一因になったとも考えられる

北一輝は中国と協力しながら米英と戦う選択は予期できたであろうが、中国と戦争しながら米英と戦うことなど予想できなかったであろう。

北一輝の影響を受けた人物として岸信介が挙げられる

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