~「もう一つ上の日本史」出版に伴い、勉強方法も変える必要が出たので、全面改訂突入します~

☞【昭和陸軍史を理解すれば近代史がわかる!】昭和陸軍の軌跡(川田稔、2011年、中公新書)【読書メモ・前編】

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第1章:政党政治下の陸軍ー宇垣軍政と一夕会の形成ー

1.二葉会と木曜会

★1921年(大正10年)10月、ドイツの保養地・バーデン・バーデンで陸軍士官学校同期の永田鉄山、小畑敏四郎、岡村寧次の3人が落ち合い、「長州閥打破」と「総動員体制の確立」を誓う。当時みな37歳。彼らがのちの二葉会の中心である。

※永田らが陸軍大学教官当時、山口県出身者は一次試験は受かっても二次試験は全員落第した。

※永田は大戦前後の欧州に6年いて、総動員体制について最も詳しくなっていた。

★1922年、山縣有朋死去。しかし、陸軍はいまだに長州の田中義一閥であった。山梨半造、田中義一、宇垣一成らが陸相に。

★1927年(昭和2年)11月頃、22期鈴木貞一らによって木曜会が組織。全12回、会合が開かれるが最も重要なのは1928年3月1日に行われた第5回会合。この日は東条英機も参加しており、対ロシアに備えて「満蒙に完全なる政治的権力を確立する」ことを目標とした。

※中国から必要なものは「物資」のみ。兵力は論ずるに足りず。また中国にとって満蒙は国力を賭してまで戦う場所ではないであろうとの認識。

※米国は南北アメリカ大陸で物資が十分にあるので、口出しはするかも知れないが国力を賭けてまで戦うことはないであろうとの認識。

※英国は満蒙問題と関係はあるが軍事以外の方法で解決可能と認識。

※その頃の中国政策は①満蒙特殊地域論(田中義一ら)、②国民政府統一容認論(浜口雄幸)、③満蒙分離論(関東軍)。満蒙領有論は①~③のどれとも違う。世界恐慌の前から計画されていたことにも着目。

★また、永田らは統帥権の独立では消極的であるとして、陸軍が組織として積極的に国政に介入していく必要があると考えていた。

★もともと永田鉄山、小畑敏四郎は「反長州閥」を誓う同志であった。

★第1次世界大戦を視察した永田は、次期大戦が「総力戦」として起こることを予測し、陸軍が組織として積極的に介入していく必要があると考えた。

★東条英機ら木曜会メンバーは、満蒙の確保を是としていた。

2.一夕会

★1929年5月、二葉会と木曜会が合流して一夕会結成。田中政権末期、浜口政権誕生1か月前である。①陸軍人事の刷新、②満州問題の武力解決、③荒木貞夫、真崎甚三郎、林銑十郎といった非長州系三将官の擁立を取り決める。

※3人の中心は真崎。薩摩の上原勇作閥を引き継ぐ。田中と上原は1924年(清浦内閣)での陸相選定をめぐって対立していた。以後、田中・宇垣と上原はしばし対立。のち、宇垣は宇垣派結成。

★1929年8月、岡村寧次が陸軍省人事局補任課長に就く。人事に対して大きな権限を持つこのポストに岡村が選ばれたことは、のちに主要ポストを一夕会が占める契機に。

★1929年、二葉会と木曜会が合流して一夕会を形成。

★同時期、岡村寧次(永田、小畑と同期、バーデンバーデンの誓いの同志)が、大きな人事権を持つ陸軍省人事局補任課長についた事で、一夕会は勢力を伸ばす。

第2章:満州事変から五・一五事件へー陸軍における権力転換と政党政治の終焉

1.満州事変前夜

★1930年11月14日、浜口雄幸が東京駅で銃撃された日でもあるが、幣原外相は「満州における鉄道問題の件」と題する方針案を関係機関に示す。

※これは日中融和的なもの。これは対ソ連を考えていた陸軍にとってはとても飲める条件ではなく、修正案を加えて同意。

★1931年3月、「三月事件」。宇垣陸相を首班とする軍事政権を樹立するクーデターが計画されたが、最終的に宇垣の同意が得られず未遂に終わる。

※重藤千秋参謀本部シナ課長、橋本欣五郎同ロシア班長、大川周明ら民間右翼による謀議。当時、浜口に代わり幣原が臨時首相を務めるも、度重なる失言で議会が混乱していた。3月10日、病体をおして浜口が復帰し議会は沈静も、体調悪化で総辞職し、4月13日に若槻禮次郎内閣成立。

★1931年9月18日、柳条湖事件。

※陸軍の動きに対して批判的であった国内世論も、朝鮮人と中国人の衝突に際して中村大尉が殺害される事件(中村大尉事件)が明るみになると、対中強硬姿勢に。

★浜口雄幸首相襲撃事件→幣原臨時首相下での混乱→宇垣一成を担ぐクーデター事件(三月事件)→若槻禮次郎内閣成立→柳条湖事件。

2.柳条湖事件と陸軍中央

★関東軍は一晩で奉天、長春など満鉄鉛線18都市を占領。関東軍・石原、板垣らは全満州軍事占領を企図していたが、張学良軍40万に対して関東軍は1万。林銑十郎率いる朝鮮軍の助けが必要であった。そして実際に朝鮮軍が越境してきたが、内閣は不拡大方針。永田らは予算などの都合で内閣の同意の得られない朝鮮軍の越境には反対していたが若槻内閣は陸相辞任による内閣総辞職を回避するために容認。事後承認となる。

★陸軍中央は北満州への派兵は反対。これに対して石原らは満州全部の制圧を考えており、満蒙を独立国として保護国とする方針が政府に受け入れられなければ「一時日本の国籍を離脱して目的達成に突進する」とまで言う。

★南陸相や金谷参謀総長らによる新政権運動への不関与指示に関わらず、永田らは新政権樹立の方向に走る。宇垣派も新政権樹立は容認の姿勢。

★9月22日、国際連盟は日中双方に事態不拡大と撤兵を通告。しかし、10月8日には軍中央の許可なく関東軍による錦州爆撃。国際社会に衝撃。若槻内閣は方針転換して南満州軍事占領と新政権樹立は容認。ここまでは国際社会で受け入れられるギリギリのラインと踏んだ。

★政府は不拡大方針であったが、石原莞爾は「日本国籍を離脱してでも」と満州保護国化を目指す。国際連盟は撤兵を通告。

3.犬養政友会内閣の成立と荒木陸相の就任

★若槻内閣、南陸相、金谷参謀総長が関東軍の動きに引きずられたのはここまで。関東軍はチチハルへの進撃を企図したが、軍中央首脳部はソ連との衝突を避けるべくこれを阻止。錦州はイギリス権益も関与することもあり、宇垣派もこれには反対。

★1931年10月17日、「十月事件」。

※橋本欣五郎ら桜会メンバーが荒木貞夫を首班とする軍事政権を樹立しようとクーデター計画。事前に露見して未遂に終わった。永田らは「抜かずに内閣にすごみを聞かせる方が得策」と計画阻止の方向で動いていた。

★1931年10月末、安達謙蔵内相は政友会との協力内閣を打診。犬養毅政友会総裁も「政友会だけで陸軍を変えることはできない。連立でないとダメだ」としていたが、井上準之助蔵相、幣原外相ら閣僚が強く反対、安達と対立。閣内不一致となり、12月1日、若槻民政党内閣は総辞職。

★1931年12月13日、元老西園寺公望の推薦により犬養内閣に。ここで一夕会の政治工作により荒木貞夫が陸相に。荒木は就任するや、宇垣派閥を一掃。さらに錦州占領(1月3日)、北満ハルビン占領(2月5日)が実施。

※1931年1月28日の上海事変は列強の注意を満州からそらすべく行われた。日中両軍の衝突。

※若槻退任前日に国際連盟はリットン調査団派遣決定。

★1932年5月15日、「五・一五事件」。

※犬養毅は満州独立国家を基本的には了承していたが、国際社会への配慮から正式承認には消極的であった。

※五一五事件により斎藤実が首相に。陸相には荒木、教育総監に林銑十郎、参謀本部は真崎が掌握しており、一夕会が推す三人が事実上陸軍のトップを占めることに。

※永田は政党政治を否定。

★1932年9月15日、日満議定書により、満州国正式承認。

※公式的な位置づけとしては「非道極まる排日、度重なる張学良の挑発に対して余儀なく、東洋の盟主たる日本が民族の生存権を確保」と言ったところか。

★1932年10月2日、リットン調査団により満州国不承認の報告。

※場合によっては国際連盟脱退することはやむなしと考えていた。

★1933年2月24日、国際連盟総会にて決議を不服とした松岡洋右ら退場。

※翌日から熱河省への軍事介入開始。熱河省は張学良の影響の強い地域であったが、満州国編入を試みていた。

★1933年3月4日、熱河省省都である承徳を占領、なお長城線まで迫る。

★1933年3月27日、国際連盟脱退が正式に通告。

★1933年5月3日、長城線を突破し北京に迫る。

★1933年5月31日、塘沽停戦協定締結。一般にここまでが満州事変期とされる。

★安達謙蔵内相は連立内閣で対応することを望んだが、井上準之助蔵相、幣原喜重郎外相の反対で閣内不一致となり若槻内閣解散。犬養毅内閣となる。

★1932年5月15日、青年将校らにより犬養毅暗殺。政党政治は終わりを告げる。海軍出身の穏健派、斎藤実が首相に。

★日満議定書で満州国承認されるも、国際連盟のリットン調査団により不承認。国際連盟脱退へとつながる。

第3章:昭和陸軍の構想ー永田鉄山

1.国家総動員論

★欧州での第1次世界大戦を視察した永田は国家総力戦の必要性を意識。

※具体的な内容としては、国民動員、産業動員、財政動員、精神動員。1927年、田中義一内閣時においてその準備機関である「内閣資源局」が設立される。

★また、どの国も敵国となり得ることがあり、それに対しての準備が必要であることも意識。

♨でも、それってダントツの覇権を握らない限り不可能では?と思ってしまうが…

★兵器の機械化、機械戦への移行を認識。

※従来の肉弾戦、精神主義を批判するものでもあった。現状、飛行機保有台数は欧州各国と20倍以上も差があった。工業化を推進するためにも資源が必要であり、日本は資源を確保する必要があると感じていた。

★第1次世界大戦を視察した永田は次期大戦にあたり、資源の確保が急務と考えていた。

2.国際連盟批判と対中国政策

★浜口ら政党政治家は大戦が起きれば日本は危ういので、ワシントン体制や国際連盟などの力によって戦争を回避する方向に尽力した。一方、永田は「戦争不可避論」をもっており、ドイツを口火に再戦となると考えていた。

※国際連盟は「力」を「法」でおさめようとするものであり、「力」という点では疑問をもっていた。

★宇垣は不足の物資は英米から輸入し、次の大戦でも英米と一緒に戦う英米協調路線で動いていたが、永田が目指していたのはあくまでも自主独立。

★政党政治家は次期大戦は回避可能と考えていたが、永田は次期大戦は不可避と考えていた。

★宇垣は不足の物品は輸入しようと考えており、次期大戦が起きても英米とともに戦うつもりでいたが、永田はあくまでも自主独立を目指していた。

第4章:陸軍派閥抗争ー皇道派と統制派

1.陸軍中央における派閥対立

★1933年4月頃、永田と小畑の対立が表面化。これにより統制派と皇道派の抗争開始。

※真崎と荒木は親しく、真崎は佐賀系、小畑、山下らは土佐系で佐賀系と土佐系は仲が良い。当初、永田ら一夕会は宇垣系に対して真崎、荒木らを擁立して実権を掌握しようとしたが、逆に彼らは永田と小畑の個人的な対立に乗じて一夕会の土佐系、佐賀系を抱き込み、彼らを有力ポストに就けて皇道派を形成。

♨いきなり皇道派vs統制派だったのではない。まず一夕会vs宇垣派があってのそれ。

★小畑の考えは、ソ連が国力を回復して満蒙を狙ってくる前にソ連に攻撃を加えると言う論。1936年前後の開戦を企図。一方、永田は満蒙経営を安定させてからという考え。

★永田の方が多数であったが、荒木陸相はこれまでの小畑との関係から小畑を支持。これで五相会議に臨むが、高橋是清首相、広田弘毅外相らにより押さえつけられる。

★小畑は対ソ強硬、対中慎重。永田は対ソ慎重、対中強硬。これは資源的な解決を中国に求めていたためである。(小畑は中国問題に対しては英米との協調が必要としていたのに対して、永田はアメリカ優位の海軍条約は許容せざるものとしていた。)

  小畑敏四郎(皇道派) 永田鉄山(統制派)
出身母体 土佐系 なし
ソ連戦略 ソ連は国力回復したらすぐに攻めてくるであろうから先制攻撃して極東部隊を壊滅させる ソ連はいずれ敵となるだろうがしばらくは攻めてこないであろうから満州国発展が先決
日ソ不可侵条約への対応(※1) 否定的 積極的
北満鉄道への対応(※2) いずれ手に入れるので、買収すれば資金援助につながるので反対 日本と満州で買収すべき
中国戦略 排日運動は米英が日本の極東政策を認めるまで減ることはないだろうから、米英との関係を重視し、貿易していく。 排日運動には断固とした態度で臨む。対ソ戦は国運を賭する大戦争となるが、中国はそのための「資源確保」。
対米政策(※3) 日本の大陸政策に干渉するのであれば排撃すべしと考えたが、基本的には国交親善。   米の経済力による極東支配は排撃すべき。米はアジアに死活的利害を持たないため戦争にはならず、政治的に解決可能であろう。
対英政策 紛争の圏外に置くべし 紛争の圏外に置くべし

(※1)1932年、ソ連から再提議→結局、謝絶

(※2)東支鉄道:1933年、ソ連から売却案→1935年に妥結

(※3)1936年はロンドン・ワシントン条約の改定時期であるが、海軍は日米必戦論に立つ加藤寛治ら艦隊派がすでに両条約の廃棄を決定していた。

★永田と小畑は国際戦略をめぐって対立。永田は資源的な問題を中国に求めていたため、対中強硬論であった。一方、小畑は中国には慎重、対ソ連には強硬論。永田らを統制派、小畑らを皇道派と呼ぶ。

2.隊付青年将校と陸軍パンフレット

★皇道派、統制派とは別に、青年将校の間に国家改造を目指す政治的グループが形成。彼らは北一輝の影響を受けた西田税を結節点として運動を本格化。(1931年8月~)

★このメンバーが、1932年の血盟団事件(井上準之助、三井財閥の団琢磨を暗殺)、五・一五事件を引き起こす。

※民間から井上日召が加わる。

★1932年11月、一夕会中堅幕僚と青年将校グループの会合があり、青年将校グループの政治工作をとがめたところ、「軍中央部は我々の運動を弾圧するつもりか!」と、会議が決裂。

※永田らは軍の統制という観点からも好ましくないと考えていた。

★1934年7月、政界疑惑(帝人事件)で斎藤実内閣総辞職。岡田啓介内閣に。1月に病気の荒木から陸相を継いだ林は留任。永田はこの際に軍務局長になっていた。

★1934年10月、陸軍パンフレット「国防の本義と其強化の提唱」が発行。永田の指示。

※「平時」も国家統制すべきとの考えに立っていた。(それまでは平時は「準備」と「計画」としていた。)真崎は「国家社会主事思想」として忌避。

★統制派、皇道派とは別に「青年将校」グループも存在。彼らの政治介入は軍の統制を乱すとして永田らは忌避していた。

★帝人事件で斎藤内閣は総辞職し、岡田啓介内閣に。この時期、永田は軍務局長になっており、陸軍パンフレット「国防の本義と其強化の提唱」発行。平時も国家統制すべきとの考えに立っていた。

3.派閥抗争の激化と永田軍務局長の暗殺

★1935年2月、天皇機関説が問題に。機関説の否定は衆議院を満場位置で可決。右翼、国家主義団体、在郷軍人会を中心に国体明徴運動が展開された。4月には真崎から機関説は国体に反すると全軍に通達。さらに運動は岡田内閣打倒まで飛び火。

★1935年8月3日、岡田内閣は運動の圧力を受けて第1次国体明徴声明を発する。

※この運動の背景には皇道派、統制派の争いに加え、宇垣派の争いがしのぎを削っていた。林、永田らにより罷免へ追い込まれた真崎による逆転を狙った倒閣運動と考えられる。

★1935年8月12日、永田鉄山暗殺。真崎罷免の黒幕が永田軍務局長であるという怪文書をもとに、憤激した相沢三郎中佐によるもの。相沢は青年将校グループとも真崎とも親しかった。

★1935年10月15日、第2次国体明徴声明。

これにより国体明徴運動は衰え、真崎の倒閣の試みは失敗に。

★1935年2月、天皇機関説問題が持ち出される。この背景には真崎による内閣転覆運動という側面もある。

★1935年8月、真崎罷免の原因が永田にあると考えた相沢三郎により、永田鉄山暗殺。

★岡田内閣は運動の圧力を受け、国体明徴声明(第1次、第2次)を発表。

第5章:二・二六事件前後の陸軍と大陸政策の相克ー石原莞爾戦争指導課長の時代

1.華北分離工作と二・二六事件

★1933年の塘沽停戦以後、斎藤、岡田内閣のもとで日中関係は小康状態。国連やアメリカが対日制裁に動かない状況から蒋介石も対日融和に軌道修正。

★1935年、華北分離工作開始。関東軍主導で華北地域の勢力圏化を意図する工作が開始。6月に国民党勢力を河北省、チャハル省より排除。

※この華北分離工作は永田の構想の延長線上にあるものであった。ちなみにこの年の3月にはナチスが再軍備宣言。ヴェルサイユ条約破棄。次期大戦勃発の予兆と華北分離工作は無関係ではないだろう

★1935年11月、河北省に親日政権樹立。冀東防共自治政府ができる。

★1936年2月26日、二・ニ六事件。国家改造を掲げた青年将校グループが斎藤実内大臣、高橋是清大蔵大臣、渡辺錠太郎陸軍教育総監を殺害、鈴木貫太郎侍従長に重傷。結局クーデターは失敗。彼らにつながりがあったとされ、真崎、荒木、小畑ら皇道派は予備役へ編入され、事実上、陸軍から追放。ついでに南ら宇垣系も予備役に。

★二二六事件後に成立した広田弘毅内閣における陸軍トップは寺内寿一陸相、閑院宮参謀総長、杉山元教育総監という顔ぶれで政治色が薄く、中堅幕僚層の意向が強く反映される布陣となった。ここで発言権を増していたのが武藤章(永田直系の統制派)、石原莞爾(統制派ではないが非皇道派一夕会)。

★1936年5月、軍部大臣現役武官制が復活。武藤、石原らの圧力。

※1913年、山本権兵衛内閣以来、現役武官に限定されることとなった。

★1936年2月26日、青年将校グループにより二二六事件。つながりがあったとされた皇道派の面々や、宇垣派は予備役に。陸軍の中心は武藤章と、石原莞爾に。広田内閣のもと、軍部大臣現役武官制を復活させる。

★欧州ではナチスが躍進しており、次期大戦勃発の可能性が現実味を帯びる。関東軍は華北分離工作、親日政権樹立。

2.石原の対ソ戦略と対中国政策の転換

★1937年3月、石原が作戦部長に。

※作戦課長時代の石原は日本の在満州勢力がソ連の1/3以下ということを知り愕然。強い危機感を抱く。ソ連の極東攻撃を断念させるべく、米英協調を考える。(一方、最終的にはアメリカと世界最終戦争に至ると考えていた。)しかし、対ソ戦優先の考えは南進を重視する海軍に受け入れられず、「南北併進」が国策となった。(1936年8月、広田内閣での五相会議にて。)石原は独自に国防政策を推し進める。1936年に作成した「日満産業五か年計画」は1937年5月に「重要産業五か年計画」として陸軍省に移管。重工業中心の発展を目指す。

★石原は満州国を一党独裁の国家にしようと考えていた。ちなみにその時期はまだナチスは現れていない。この考えはのちに武藤章の一国一党論にもみられる。(武藤のこの論はナチスの経験も吸収。)永田にはこのような考えはなかった。

★1936年11月、広田内閣によって日独防共協定が締結。

※ナチスの再軍備宣言に岡村寧次らは敬服の年を示していた。石原も対ソ牽制のために日独の協力を望んでいた。(ただ、石原は欧州戦争絶対不介入論者であり、日独伊三国同盟との結びつきはない。石原の構想は南方進出による資源の確保のちの世界最終戦争であり、対ソは極東攻勢を断念させることが目的。)

★1937年1月、華北分離工作中止へ。

石原の方針転換。1つは米英への配慮、もう1つは中国におけるナショナリズムの高まり。(1935年11月、イギリス財政顧問リース・ロスの助言に基づき国民政府は銀本位制から管理通貨制度へ移行し貨幣制度を統一。これにより中央政府の経済基盤が安定し、国民政府による政治統一が急速に進行。→1936年12月には西安事件も起き、第2次国共合作へ。)石原は日中協和を目指す。(アメリカの大陸介入を断固阻止していた永田と異なり、石原は中国の新国家設立に米英と協力することを良しともしていた。このことは永田の後継である武藤章との対立の一因。華北分離工作は武藤の案でもありさらに対立。)

★1936年5月、関東軍は内蒙軍政府を樹立。

※しかし、中国軍に敗退。内部でも反乱。石原ら戦争指導課は関東軍に内蒙工作中止を主張するも、武藤情報主任参謀と対立。(華北分離工作や内蒙工作を巡る石原と武藤の対立が日中戦争における拡大不拡大をめぐる対立にもつながる。)

★1936年3月、ナチスのラインラント進駐。

※前年にはイタリアがエチオピアに侵攻しており、国連が経済制裁を実施したが、1936年5月にエチオピア併合。石原は欧州大戦には関与すべきでないとし、20世紀後半に想定した日米世界最終戦争に向け、東亜連盟によってアジアを固めるべきとの方策をもっていた。介入不可避論をもっていた永田との違いでもある。

★1937年1月、腹切り問答。広田内閣総辞職。

※政友会浜田国松議員による陸軍批判が寺内寿一陸相の怒りを買い、政党と陸軍が対立。解散を主張する寺内と反対する閣僚の閣内不一致で広田内閣総辞職。後継は西園寺公望らの意向で宇垣一成。しかし、石原らの妨害で組閣ならず。小磯国昭ら旧宇垣派将官は幕僚らの意向に沿って動いており、陸相就任を断る。現役武官制が有効に作動した結果でもある。

★林銑十郎内閣成立も4ヶ月で総辞職。

※石原の推薦する板垣は陸相になれなかった。これは梅津美治郎がそれをすると序列が乱れるとのことであった。(板垣の先輩が梅津であり、梅津は首席、板垣は優等6名にも入らず。)石原の影響力に影が差し始める。

★1937年6月4日、近衛文麿内閣成立。

★石原は国際情勢を見て華北分離工作を中止。しかし、華北分離工作は武藤の案でもあったため、両者は対立することに。

3.盧溝橋事件と石原・武藤の対立

★1937年7月7日、盧溝橋事件。

★腹切り問答で広田内閣解散。林銑十郎内閣を経て、近衛内閣誕生へ。近衛内閣のもと、盧溝橋事件勃発。

第6章:日中戦争の展開と東亜新秩序

1.戦争の拡大と戦線の膠着

★7月28日、日本軍総攻撃。翌日には北京・天津ほぼ制圧。

※なおも派兵に積極的な武藤に対して、石原はなおも拡大反対。

★1937年8月17日、米内海相主導で不拡大方針放棄の閣議決定。

※石原は華北だけに限定しようとしていたが、海軍による上海での戦闘で日本軍も多数被害。引くに引けない状況に。

★1937年9月27日、石原は作戦部長を辞す。

※拡大派が圧倒的多数となっていた。石原は満州に転出。後任の多田らが慎重路線を継ぐも、方針が定まらず現地での軍の独走を許すことに。

★次々、増派。

※本土には近衛師団と第7師団(旭川)のみ。対ソ防備から精鋭部隊は満州に配置され、上海方面には現役兵率の低い編制装備の劣る部隊が派兵。しかもソ連の出方を警戒して逐次投入。これらにより上海では多数の被害となった。

★1937年12月、南京事件。

※兵站準備がほとんどなかったので現地で略奪が横行。当時、駐華ドイツ大使トラウトマンによる和平工作が行われていたが、南京占領後、日本はより厳しい条件を提示。

★1938年1月16日、近衛声明。「国民政府を対手とせず」と、交渉打ち切り。

※多田駿参謀次長はただ一人打ち切り反対を主張していたが、杉山陸相、近衛首相、広田外相ら強硬論は崩せず。最終的に米内海相が近衛らをサポートして内閣総辞職をちらつかせることで多田も折れた。以後、泥沼に入る。

★1938年4月、国家総動員法。電力管理法。

★1938年12月、当分の間、現占領地の治安維持に主眼を置く方針に。

※既に中国軍の主力は奥地に。日本軍は占領地を増やしても占領地の治安維持に配備するしかできなく、進出しても中国軍は分散退却し、日本軍が原駐地に戻ると帰還するということの繰り返しであった。広い中国を制圧するには兵力の絶対量が不足していたのだ。

★日中戦争不拡大を唱える石原は孤立し、辞職。(※石原、満州に転出。東条と仲違いしたのはその後の満州にて。)

2.近衛内閣の東亜新秩序声明とその影響

★1938年11月3日、近衛内閣は「東亜新秩序」声明を発表。

※第1に、日中戦争の目的は日本、満州、中国による東亜新秩序の建設。第2に、国民政府が従来の反日政策を放棄するなど一定の条件を満たせば新秩序建設への参加を拒まない、という内容。→これはワシントン体制の原則を事実上否定するものであった。また、一定の条件を満たせばというのは国民政府内で長く蒋介石と主導権を争ってきた汪兆銘を首班とする新政権を念頭に置いている。

★1938年12月29日、汪兆銘は重慶を脱出し、中国各方面に和平の通電を発したが同調者は少なかった。

※期待に反して反蒋介石派の軍隊も動かず。日本側の企図は挫折。

※ワシントン体制の否定は必ずしも米英と軍事的に敵対することを意図するものでもなかった。また、永田、東条、武藤、田中らはドイツ駐留経験があるが、それだからといってナチスと連携するかどうかは、この時点では別物であった。しかし、当然、アメリカもイギリスも反発。米英とも中国に借款供与し援助。ソ連は以前からも援助していたがさらに援助。

※それまでアメリカは日本への輸出額が中国への輸出額の7倍であり日米和平を望んでいた。イギリスは欧州危機に際して日本に妥協的態度を取らざるを得なかった。

★1939年9月30日、統制派の武藤章が陸軍省実務トップの軍務局長に就任。

※既に課長レベルまでは統制派が優位であったが、武藤の就任と、冨永恭次が参謀本部作戦部長に就任したことで統制派が圧倒的な影響力を持つことに。

★1940年7月、統制派最年長の東条英機が陸軍大臣となる。

★日本にとって、日中戦争はあくまでも次期大戦に備えての軍需資源と経済権益の確保が目的であったため、兵力は100万に達していなかった。(※太平洋戦争前後では400万。)第2次大戦は昭和17年くらいであろうと予想していた。

★1938年3月、ナチスドイツのオーストリア併合、9月、ミュンヘン会談でひとまず大戦勃発回避。

※それもあって余力を残しておく必要があった。

★1938年8月、ドイツからソ連のみでなく、英米も対象とした日独伊三国同盟案が提示。

※ドイツとしては対ソ戦に備えるとともに、アジアに広大な植民地を持つイギリスを日本が背後から牽制するという狙いがあった。満州国の承認、中国への武器輸出禁止など、親日政策を打ち出す。陸軍はソ連だけを対象としたかったが、ドイツはあくまでも米英も含めることを要望。ドイツ案を受け入れる形となったが、外務省や海軍は強く反対。

★1939年1月、ドイツとの同盟をめぐって閣内不一致となり、近衛内閣総辞職。平沼内閣へ。

★1939年4月、リッベントロップ外相は日本が同盟に躊躇するならドイツはソ連と不可侵条約を結ぶかもしれないと警告。

※日中戦争へのソ連の介入を恐れる陸軍は焦燥。しかし、やはり外務省、海軍の同意は得られず。

★1939年8月23日、独ソ不可侵条約締結。平沼内閣は三国同盟交渉打ち切りを決定して総辞職。

★1939年9月1日、ドイツがポーランド侵攻。9月3日、英仏がドイツに宣戦布告。

※このような状況下での武藤章の軍務局長就任である。(9月30日)武藤はかなり明確な戦略をもっており、以後、武藤がリード。

★1939年6月、天津英仏租界の封鎖。

※英仏租界が日本の北京臨時政府の管理通貨である連銀券を使わず、国民政府の法幣を使用。この法幣がポンドとリンクしており、英仏租界が日本側による華北経済支配を困難にしていると考え、武藤は天津英仏租界の封鎖を実施した。イギリスは欧州大戦に備えて大幅に譲歩した(7月23日)が、アメリカがバックアップ(7月26日)して姿勢変化。交渉は無期延期に。

★1939年7月26日、アメリカ政府が日米通商条約破棄を通告。

※ルーズベルトによる警告。対日経済制裁を示す。これによりイギリスの態度が変化したが、以後、日本はイギリスが中国における資源確保と市場支配に対する障害として強く認識されることに。利害関係という点で最も衝突したのがイギリス。また、アメリカはイギリス重視と言うことが明らかになった件でもある。当時、日本は多くの資源をアメリカから輸入していたのだ。これは日米関係の悪化から来るのではなく、日英関係の悪化から来たものであると言うこともポイントである。

★日中戦争拡大。欧州では第2次世界大戦勃発。日中戦争が長引く原因として天津英仏租界の封鎖を狙ったが、これに対してアメリカがイギリスのバックアップを明言。対日経済制裁を示す。(後述するが、アメリカとしてはイギリスがドイツに負けると欧州での足掛かりを失うので困るのであった。また、日本は中国にくぎ付けにしておくのが得策と考えていた。日独とソ連が戦争して日独が勝ち、アメリカが日独に挟まれるというのが最悪の事態。【コチラも】)

★ドイツからはソ連だけを対象とした防共協定から、英米をも対象とした日独伊三国同盟を提案。

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