こんにちは。
今回ご紹介しますのは、『日本人はなぜ戦争へと向かったのか』(2011年、NHK出版。2015年、新潮文庫)です。
人事の話は身近ですので、いろいろ面白かったです。
以下、読書メモです。
【山県有朋から一夕会へ】
「日本の陸軍は、ほとんど山県さんがやっていた。山県さんの意見が参謀総長なり、陸軍大臣なりに暗々のうちに伝わって、進められた。だから、大部分の人はほとんど勉強しない。山県さんがおって、そしてペン先のように動いただけで、目を開いてモノをやるということがないわけだ。」
(鈴木貞一元陸軍中将、企画院総裁)
山県の死後、頭角を表してきたのが、永田鉄山でしょうか。
永田は人事に着目します。
そして大佐以下の人事のほとんどを課長が決めていることをつかむと、
一夕会から課長を送り込むための工作をはじめ、
ついに岡村寧次を陸軍省人事局補任課長に就任させることに成功しました(1929)。
以後、永田鉄山は「陸軍省軍務局軍事課長」、東条英機は「参謀本部編成動員課長」に就任するなど、一夕会の影響力が増していきます。
【荒木陸相時代の混乱】
陸軍には「陸軍省」と「参謀本部」がありました。
陸軍省
参謀本部
近年、軍事的な作戦を立案する「参謀本部」よりも、政府に近い「陸軍省」に人事的な重きを置くことで軍の暴走に歯止めをかけていたことがわかりました。
通常、陸軍省でも参謀本部でも上に立つ人間は大抵の場合、軍務局長や軍事課長、総務部長といった事務方キャリアを積んでいますが、
満州事変後の混乱を収めることを期待されて陸相に就任した荒木貞夫【コチラ】は、
要職である陸軍省陸軍次官や陸軍省軍務局長に参謀本部系の人材を登用するしたうえ、
参謀総長には閑院宮を担ぎ出してロボット化を謀るなどして、混乱を招きました。
また、荒木自身も陸軍省での実務経験がありませんでしたが、
教育総監含めた陸軍省トップ3が軍政業務経験のない人物で占められるという異常事態をも引き起こしました。
※参謀本部の実質トップとなる参謀次長には仲良しの真崎甚三郎。作戦課長には自らと同じくロシア駐在経験のある小畑敏四郎(土佐閥)を起用するなど極端な派閥人事を行いました。
※荒木の政策に否定的だった永田は「参謀本部情報担当」となり本流から外れました。
【荒木退陣後の相沢事件】
そのため、荒木のやり方に不満を持つ政府関係者、皇族も多く、荒木派はついに退陣となります。
後任に選ばれた林銑十郎は、悪評高くなってしまったいわゆる「皇道派」を中央から避けます。
そして、永田はようやく軍務局長に選ばれました。
しかし、逆襲を狙った皇道派は、大量のビラとともに、永田を「陸軍腐敗の象徴」と攻撃します。
これに共鳴した相沢三郎中佐が、永田を日本刀で斬殺した事件が相沢事件(1935年)でした。
【二二六事件の余波】
さらに、二二六事件(1936年)後、皇道派は完全に除外されましたが、
以後の人事は、「党派色が薄い」ことが、実務能力よりも優先されます。
そのため、陸軍省は軍政業務経験のない人材で占められるような、歪んだ人事となりました。
まとまる力の弱いゆえに、独裁的な力を求める動きも生じた。
【酒井隆と統制の効かない現地軍】
また、陸軍内の内向きの競争原理も問題でした。
酒井隆(陸軍士官学校20期、陸軍大学校28期卒業)はシナ駐屯軍参謀長時代、親日系新聞社社長の相次ぐ殺害に際して、上官である梅津美治郎の留守中に勝手に軍を動かし、示威行動をとりました。(1935年5月)
功を焦ったとも言われます。
酒井ら天津軍の動きに関東軍も刺激され、板垣征四郎(16期)は「冀東防共自治政府」を樹立します(1935年12月)。
中央は満州事変で強い態度に出られなかった前例からいずれも承認せざるを得ず、酒井隆に至っては帰国後昇進しました。
陸軍中央は関東軍を抑えるために隣の天津軍を増強するという手段を用いました。
天津軍が3倍に増強されたことで関東軍の南下はとまりましたが、現地では反日運動が激化し、関東軍は北部へ向かうこととなります。
誤算はさらに続き、一夕会、皇道派であった牟田口廉也が天津軍歩兵第一連隊長に就任すると、やはり功を狙い、盧溝橋事件を拡大します。
内向きの競争原理により軍部は暴走したのです。
※ちなみに当時、陸軍中央で関東軍の暴走を止めようとしていたのが石原莞爾でした。
【深みにはまる日中戦争】
日中戦争で撤兵が進まなかったのは、現地の反発がありました。
アメリカは撤兵が進まないことを理由に通商条約を破棄しましたが、
武藤章軍務局長は、軍に対して強く出ることができませんでした。
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そして、数々の反対を押し切って行われた1938年4月の「徐州作戦」は、日本軍が深みにはまった最大の原因とも言われております。
徐州作戦に積極的だったのが寺内寿一、畑俊六、武藤章ですが、彼らはその後、中央で出世しています。
彼らが中央に帰ってきて、現地を統制できるわけないでしょう。
軍人が軍人を処罰するのは限界があったとも言えます。
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【次章は陸軍編2】