こんにちは。
今回ご紹介しますのは、「図説 日米開戦への道」(平塚敏克、2011年、河出書房新社)です。
2011年とちょっと古め、しかも著者は学者ではない、そのうえ「山本五十六礼讃」…
なのですが、写真が豊富!なのと、「ステレオタイプ」が何なのかという点を知る面で非常に役に立ちました。
もっとも、「日中戦争が日米開戦につながった」とか、かなり早い段階であたかも「英米が一枚岩であった」かのような記述には、くらくらしてしまいますが…
同じ2011年の作品でも、川田稔先生の「昭和陸軍の軌跡」はそのあたり、しっかり書かれているので、やっぱり学者の本こそじっくり読むべきである、と改めて思うのですが、なんせ「写真が豊富」なのはありがたいです。
以下、読書メモ+♨雑感。
第0章:はじめに
日露戦争、第1次世界大戦を経て、日本は世界の五大国まで躍進したものの、日本は「資源貧国」という「弱点」があった。
軍事力を支える石油、石炭、銑鉄、銅は欧米からの輸入に頼っていた。一方、日本随一の輸出品である「生糸」の輸出先の90%はアメリカであった。
欧米依存の経済からの脱却を目指して中国大陸に足を踏み入れた。
第1章:三国同盟で対立する陸海軍首脳
【海軍三羽ガラスと日中戦争】
※「海軍三羽ガラス」とは米内光政、山本五十六、井上成美のこと。
♨「海軍三羽ガラス」という言葉は、当時から言われていたのか、阿川弘之さんの著作で生まれたのか、わからない。
※日中戦争における米内の立場について他書と相違がある。第2次上海事変を主導したのは米内のはず。
♨米内光政、山本五十六については全体的にちょっと美化され過ぎ。むしろ評価すべきは井上成美の一貫性。
【日独伊三国同盟締結で対立する陸海軍首脳】
「日中戦争の泥沼化で閉塞状態にあった陸軍は三国同盟にとびついた(?)。
一方、海軍はそんなことしたらアメリカと戦争になる可能性があるから反対した。
♨…これは、「ざっくりしすぎ」どころか、「間違い」。まず、陸軍は「とびついて」いない。英米を敵国とするドイツ案(1938.8)に対して、あくまでも対象をソ連だけにしたかったために態度を保留していた。陸軍もそこまでバカではない。
その間、ドイツは「同盟を結ばないのならソ連と不可侵条約を結ぶぞ」と脅しも入れていて、本当に独ソ不可侵条約を結んでしまった。(1939.8.23独ソ不可侵条約)。
そもそも三国同盟を主導したのは近衛首相(第2次近衛内閣)支持のもとでの松岡洋右(1940.9.27)であり、陸軍主導ではない。
この時、松岡の頭の中には「日独伊ソvs英米」があったが、現実には独ソ戦が始まってしまい、右往左往する羽目になる(1941.6.22)。
【コチラも。松岡だけを責められない:昭和史講義日独伊三国同盟】
♨「海軍善玉論」、「陸軍悪玉論」というのはステレオタイプ。ちなみに海軍の上層部の中にも日独同盟論を唱えている人たちがいた。
【右翼の暗殺リストに載った山本五十六次官】
記者会見で三国同盟に反対する理由を述べた山本は右翼の暗殺対象に。
新聞はこれを記事にすると陸軍から横ヤリが入るので掲載せず。
山本の発言内容は新聞記者と右翼活動家だけが知ることとなった。右翼と憲兵隊は結束。
【ノモンハン事件の勃発で勢いづく三国同盟推進派】
1939年5月、ノモンハン事件。日本は大敗北(?)。
♨…近年の研究では日本だけではなく、ソ連も大打撃を受けていたという。スターリンはその事実を公表しなかった。
※「ノモンハン事件により、陸軍はより三国同盟早期実現を望むようになった」というのは単純すぎ。
【表面化してきた日米対立と経済制裁】
ルーズヴェルトは日独を侵略国として非難(1937.10.5)(「隔離演説」)。
♨…それよりも注目すべきは、1939年7月26日の日米通商航海条約の廃棄。要は日本への経済制裁だが、その理由は日中戦争に対してだけではなく、6月14日に日本の北シナ方面軍が天津のイギリス租界を封鎖したことにもよる。封鎖理由の1つはこの地域で使われている法幣がポンドとリンクしているため日本の経済支配が進まないこと、反日派の温床になっていることなどに加え、親日派中国人銀行支店長の暗殺犯を日英の共同捜査で逮捕したものの、イギリスが犯人受け渡しを拒否した件なども挙げられる。日米は経済的な結びつきがあったものの、アメリカはイギリスを選択することを表明した件とも言われる。
第2章:ドイツのソ連侵攻と日本政府
【雲散霧消した三国同盟】
ドイツの目的はポーランド侵攻。そのために背後のソ連と手を組んだ。驚いたのは日本。
<日独ソ・略年表>
1938年8月 | ドイツから三国同盟提案 |
1939年5月12日 | ノモンハン事件(~9月15日停戦協定成立) |
1939年8月23日 | 独ソ不可侵条約 |
1939年9月1日 | ドイツ、ポーランド侵攻 |
1940年9月27日 | 三国同盟成立 |
1941年4月13日 | 日ソ中立条約 |
1941年6月22日 | 独ソ戦開始 |
【政府の中枢から去る「海軍三羽ガラス」】
平沼内閣総辞職に伴い三羽ガラスは海軍省を去り、それぞれの地位へ。
♨米内は軍事参議管、井上は第四艦隊司令長官、山本は連合艦隊司令官。連合艦隊司令官は海軍軍人にとって憧れのポスト。右翼からの刺客を遠ざけようと言う米内の考えもあった、という。
♨しかし、まあ、日露戦争時の児玉源太郎と比べると「お役所仕事」感はぬぐえない。
【ドイツの快進撃と日本の南進策】
ドイツの前にフランス降伏、イギリスも大部分が本国へ撤退。ドイツの勝利は確実に見えた。
♨合言葉は「バスに乗り遅れるな」。当時の内閣であった米内内閣は三国同盟に消極的であったため、陸軍大臣が辞任、内閣不一致で米内内閣は総辞職となり、第2次近衛内閣が成立。外相は松岡洋右。
【日本陸軍の北部仏印侵攻】
1940年、ドイツのフランス占領に伴い、北部仏印もドイツ占領下に。日本は援蒋ルート監視団を派遣するも、日本軍部隊が独断で北部仏印進駐。
※この富永少将らの暴走に対して、アメリカも抗議。1940年9月23日、ハル国務長官は「脅迫による仏印の現状変更は認めない」とするも、その4日後、三国同盟に調印。
【三国同盟ついに締結】
海軍大臣及川古志郎も同意。山本らの努力も水の泡。
♨及川古志郎がはっきりと「できない」と言えなかったことが悪かった論。
山本五十六の
「これまで英米の資材で賄っていたものをどうやって賄うのか?」
という意見(正論)も
及川古志郎
「まあ、いろいろとご意見もありましょうが…」
と引き下げてしまった。
こんなんで国論が決まってしまったのか??
第3章:山本五十六長官の真珠湾奇襲構想
【日米対立で苦悩する山本連合艦隊司令長官】【山本戦略と真珠湾奇襲攻撃構想】【世界初、空母主体の第一航空艦隊の誕生】
略
♨私は真珠湾攻撃が正しかったとは思えない立場である。もちろん、その後のミッドウェーもそうであるが。
【日米了解案と日ソ不可侵条約】
野村吉三郎駐米大使はハル国務長官との会談後、「日米了解案」を本国へ打電。しかし、「交渉に着く前提」であるハル4原則には触れず。自分の留守中に日米了解案がまとめられたことに怒った松岡外相はより強硬な修正案を出すが、これがアメリカを逆撫で。松岡更迭、第3次近衛内閣成立となる。ここで日本は南部仏印進駐へ。
<日米了解案>
★日本軍の中国からの撤退
★中国の満州国承認
★蒋介石政権と汪兆銘政権の合流
★新たな日米通商航海条約締結など
<ハル四原則>
★あらゆる国家の領土保全と主権の尊重
★内政不干渉
★通商機会均等
★平和的な手段に拠らない太平洋の現状不変更
<日米関係略年表>
1936年1月15日 | 艦隊派主導でロンドン・ワシントン軍縮会議の改定行わず |
1939年7月26日 | 米国務長官より日米通商航海条約破棄通告 |
1940年9月27日 | 三国同盟成立 |
1941年4月18日 | 野村駐米大使より「対日了解案」打電 |
1941年5月12日 | 松岡外相が修正案提示 |
1941年6月12日 | 松岡の修正案に対して、アメリカからの修正案 |
1941年7月18日 | 松岡外相だけ更迭して第3次近衛内閣成立 |
1941年7月25日 | 在米日本資産凍結 |
1941年7月28日 | 南部仏印進駐 |
1941年8月1日 | 石油の対日全面禁輸 |
1941年10月11日 | 近衛らは日米会談を申し込んでいたが、完全拒否 |
1941年11月26日 | ハル・ノート提示 |
1941年12月8日 | ハワイ真珠湾攻撃 |
【孤立する山本長官】、【開始された奇襲訓練と軍令部の容認】
略
【東条内閣の登場と開戦決定】
<ハル・ノート>
★日本の中国、仏印からの撤退
★蒋介石政権以外の中国政権の否認
★三国同盟の無効化など
【機動部隊の単冠湾集結】、【ハワイ領事館のスパイ「森村正」】
略
第4章:「トラ・トラ・トラ」ワレ奇襲ニ成功セリ
【第一次攻撃隊一八三機、真珠湾に向かって発艦す】、【戦端をきった特殊潜航艇と米駆逐艦の死闘】、【攻撃隊長機が打電した「トラ・トラ・トラ」】、【炎上するパールハーバーに第二次攻撃隊が突進】
略
【南雲機動部隊はなぜ第二撃を行わなかったのか】
ミニッツ元帥
「攻撃目標を艦船に集中した日本軍は、機械工場を無視し、修理施設には事実上、手を付けなかった。日本軍は湾内の近くにある燃料タンクに貯蔵された450万バレルの重油を見逃した。長いことかかって蓄積した燃料の貯蔵は米国の欧州に対する約束から考えた場合、ほとんどかけがえのないものであった。この燃料がなかったならば、艦隊は数ヵ月に渡って真珠湾から作戦することは不可能であったであろう」
※いずれにしても短期間で米艦隊は甦る。重油貯蔵施設は地中にあったため素通りしてしまったのであろう。
第5章:「8月15日」への道
【アメリカの宣戦布告】
最後通牒は遅れ(…)、アメリカ世論は燃え上がった。
【東南アジアを席捲する日本軍】、【ミッドウェー海戦の惨敗】
略
【戦局の分水嶺ガダルカナル島の戦い】
日本兵2万のうち1万5000人は餓死。制空権は奪われる。天皇の裁断で「転進」決定(1942年12月31日)。
【撤退はまずいので転進と名前を変えた。苦し紛れ。瀬島龍三。】
♨山本五十六撃墜死。(1943年4月16日)
【玉砕の島々】、【米軍の日本本土空襲開始】
略
【ポツダム宣言と無条件降伏】
1945年8月9日、ソ連は対日中立条約を破棄し、130万の極東軍が満州になだれ込む。この日の夜より御前会議。最終的に8月14日、天皇の決断があり、15日、ポツダム宣言受諾受諾玉音放送。【コチラも。国内クーデターの可能性もあった。:昭和史講義】
♨もっとも、これで終わりではなく、そのあとソ連が攻め込んで来たりもするのだが!9月2日、米艦ミズーリ号上で降伏文書調印。
(雑感)
★日本が「資源貧国」であることは今後も変わらない。じゃあ、その中でどうやって生きていくか、を考えることは今後も重要であろう。
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