~「もう一つ上の日本史」出版に伴い、勉強方法も変える必要が出たので、全面改訂突入します~

昭和史講義
『§11.日独伊三国同盟への道』
(武田知己先生)

【これまでの理解】

★「日独防共協定」は「対ソ連」という意味合いであることに対して、ドイツから提案された「日独伊三国同盟」は「対英米」が含まれるものである。

★海軍は「対英米」では勝てない可能性が強いことから三国同盟締結に反対していたが、ドイツとの連携を望む陸軍の一派の強硬な主張により三国同盟が締結されることになった。

【新たなまとめとして】

★日本とドイツはともにソ連への牽制という目的で防共協定を締結。これは「ヴェルサイユ=ワシントン体制」への挑戦にも応用されていく。
★ドイツはイギリスへの牽制という目的で防共協定強化を日本に提言。日本側は親独派の大島浩らが推進するも、本国は慎重であり大激論となる。
★独ソ不可侵条約で日本は混乱。これまでソ連を仮想敵国としてきたが、根底が崩れた。
★第2次世界大戦におけるドイツの快進撃を見て、日中戦争で泥沼にはまっていた日本はドイツとの連携を望んだ。第1次防共協定交渉と変わって、今度は日本が積極的にアプローチ。
★三国同盟は松岡洋右外相によるところが大きいが決して彼のスタンドプレーではない。これまでの日欧関係、防共対策の帰結である。
★しかし、この三国同盟によって英米を敵にしてしまった。
★それ以上に驚くべきことは三国は軍事同盟を結びつつも個別に大戦を戦い、まったく連携がとれていなかった「空洞同盟」であったことである。

【関連年表】

1936年11月 日独防共協定締結。
1937年11月 日独防共協定にイタリアが加わる。
1938年2月 リッベントロップが外相就任。
1938年7月 防共協定強化交渉第1次交渉が本格化
1939年5月 ドイツから非公表文書も含めたガウス案が出されるが、ここでも同盟の是非をめぐって紛糾。
1939年8月 独ソ不可侵条約
1939年9月 英独間で戦闘勃発
1940年7月 防共協定強化交渉第2次交渉開始
1940年9月 27日、ついに日独伊三国同盟が締結された。
1941年12月 真珠湾攻撃。日米開戦。

【日独交渉の中心人物】

★陸軍駐在武官(1934年~)の大島浩、ドイツ国防省防諜部長カナーリス、「ヒトラーの外交官」リッベントロップ、東京在住のディルクセン大使が、中心人物となって締結された。

★カナーリスの政治的意図が色濃かったが、そこに日本を引きずっていったのはほかならぬ大島であった。

★「防共外交」は当時、外務省の主流に位置した有田八郎、重光葵らが率先していた。

「反共外交」はヴェルサイユ=ワシントン体制否認の論理にも幅広く応用されており、ドイツやイタリアの外務省も「防共」というイデオロギーを介して、日独伊は接近した。

♨第1次世界大戦後のヴェルサイユ条約で鬱憤のたまったドイツと、ワシントン条約で鬱憤のたまった日本が、手を組んだ、というと非常にわかりやすいのだが、ワシントン条約で多くの軍艦を削らざるを得なかったのはイギリスも同じであるし、日本は第1次世界大戦における戦勝国であったということは押さえて、別個に考える必要があるのかな。

【ヒトラーの考え】

★日独伊三国防共協定は1938年初頭より強化交渉が続いた。

★ヒトラーは東方への生存圏拡大のため、極東でのイギリスの影響力を弱め、かつソ連を牽制する目的で日本との連携強化に着目していた。

♨ヒトラーの原文を読んで、ヒトラーが日本を利用するだけと見抜いていた井上成美の慧眼。【コチラ

【大島浩】

★明治以来、日本はドイツから多くを学んだ。

★特に陸軍関係者には親独派が多かった。

★明治から大正にかけて最大の親独派といわれたのは大島健一、大島浩の父である。

★大島の行動はドイツの意図に忠実であったが、国内は大島に対して疑念を抱いていた。

★有田八郎外相や米内光政海相は英仏を敵として対象とするものや、兵力援助義務について慎重であり、大島は激しく抗議した。

★イタリア大使に就任した白鳥敏夫など同盟推進派もいたが、紛糾は収まらなかった。

★公表される本文と、非公表でも構わない公文の二本立てで交渉をまとめようとするガウス案についての応酬も激しいものであった。

★大島、白鳥は訓令無視とも言うべき行動を取り続け、天皇はこれ以上訓令を無視するのであれば両大使を召還するよう政府に言っていたが、政府はなかなか断行せず。

♨なんという傲岸不遜!

【外務省内部の対立】

★防共協定強化交渉において、主流派と呼ばれる有田らは英仏を対象から除外すること、武力発動の回避を目指して抵抗した。

★一方、革新派と呼ばれる中堅層は「徹底排英、対ソ解決は結局、戦争」という強硬論を宇垣外相に主張している。

【ドイツへの期待】

★日米開戦前の駐英大使であった重光葵は英国の衰退とドイツの台頭を強く認識。

★重光よりはるかに親英米的な「ナチス嫌い」の東郷茂徳ですら、ドイツとの軍事同盟には反対としつつも外交的にドイツ利用を試みる心理はあった。

【ドイツと中国の関係】

★ドイツが中国を支援していたことは複雑な1930年代を知る上でも重要であろう。

★孫文の時代から中国はドイツとの関係を大事にする土壌があった。

★中国(国民党)を最も重要なアジアのパートナーとみなす考えがドイツの伝統的なエリートの間にあった。

★日中戦争開始当初もドイツの軍事顧問団はおり、日本は実質的な同盟国であるドイツに鍛えられて指揮された中国軍と戦っていたのである。

【リッベントロップ外相就任】

★日中戦争においてドイツが日本と中国を両天秤にかける姿勢は日本もさすがに苦言を呈した。

♨そりゃそうだ!

★しかし、1938年2月、リッベントロップが外相に就任すると、ドイツのアジア政策は日本寄りとなった

★満州国は承認され、夏にはトラウトマン駐華大使を引き上げさせた。

【リッベントロップの思惑】

★リッベントロップが期待したのは日中戦争における日本の勝利ではなく、日本が極東でイギリスへの牽制勢力となってくれることである。

【三国同盟は一度、断ち切られる】

★第1次交渉も複雑であったが、独ソ不可侵条約とその後の第2次世界大戦勃発により、三国同盟問題は一度断ち切られることとなった。

【防共協定強化交渉第2ラウンド】

★1940年7月から第2次交渉が再開。

★新外相となった松岡洋右によるリーダーシップが大きい。

★この交渉の特徴は日本から積極的に働きかけられたにも関わらず、ドイツが冷淡であったことである。

★大島も白鳥もその頃には帰国していたが、白鳥は松岡との意見の相違があり、大島も交渉には関わらなかった。

★つまり、これまでの経緯を知らない松岡が主導したのである。

★ここでの焦点は自動参戦義務と対米開戦回避の可能性の二点である。

★第1の「自動参戦義務」は松岡の強引な手法によりドイツが譲歩した形となった。しかも、そのことはリッベントロップには話す時間すらなかったという。結果、解釈がどうとでもとれる曖昧なものとなった。

★第2の点について、松岡が甘い見通しをもっていたわけではなかったものの、これを機に南進政策を進めることに積極的であった。

★南進政策は対英米となる可能性があると考えられたが、三国同盟がその抑止力となると考えていた。

♨松岡洋右という人はとにかく、「ずーっとしゃべっている」ような人であったらしい。

【三国同盟締結】

これが日本の岐路であったことは異論ないであろう

★しかし、これを松岡のスタンドプレーと考えるよりは、1930年代の欧州政治の産物であったり、日本国内においては防共外交の系譜の産物であったと考えるべきだろうか。

【西園寺公望の随想】

★日独防共協定締結直後の西園寺公望

「どうも日独条約はほとんど十が十までドイツに利用されて、日本は寧ろ非常な損をしたように思われる。で、一体親独ということは従来藩閥中にあるのであって、全体の日本人の気持というものがやっぱり英米と親しもうとする気持ちの方が強いように思われる」)

「原田日記」第5巻

【海軍の親独感情】

★親独感情は陸軍だけにあると思いきや、海軍にも存在した。

★実は明治時代から海軍はドイツの影響を受けており、第1次大戦後も日独海軍の交流が行われていたし、ワシントン会議後にはドイツから積極的に潜水艦用法を学んでいる。

★日本でそれを先導したのはワシントン軍縮に反感を抱く艦隊派であった。

★ドイツとの間にはヴェルサイユ=ワシントン体制への対抗というメンタリティーが共鳴していた。

★野村直邦、小島秀雄、遠藤喜一ら、ドイツ駐在武官経験者は軍令部第一課を中心とした国策・外交などの政策立案の担当部局にいた。

★1937年から1939年まで軍務局長だった井上成美は「三国同盟問題における課長以下の態度が皆ドイツ寄り」と言っていた。

【三国同盟の結果】

★複雑な過程を経て結ばれた三国同盟であったが、強固な軍事同盟すらなかった

★イタリアとのコミュニケーションはゼロに等しかった。

★「空洞同盟」、「絶えざる摩擦、嫉妬、互いの不信感、明白な裏切り行為によるおらが国本位の政策」などとも呼ばれている。

三国は同盟国であるにも関わらず、結局、第2次世界大戦を個別に遂行した

★三国同盟締結の衝撃は英米との戦争への道の決定的な転機であったこと以上に、ほとんど全く機能しなかった同盟が実際に結ばれた事実そのものにあった

★あれほどこだわった自動参戦義務、対米開戦回避をめぐる紛糾はなんだったのだろうか、と思わせる。

次章は近衛新体制運動