~「もう一つ上の日本史」出版に伴い、勉強方法も変える必要が出たので、全面改訂突入します~

昭和史講義
『§12.近衛新体制と革新官僚』(牧野邦明先生)

【これまでの理解】

★近衛内閣にはソ連共産党のスパイが多数まぎれていた。

【新たにまとめるとすれば】

★当初はナチスやソ連共産党のような強い党を実現して戦争を乗り切ろうと考えていたが、既存政党をほとんど取り込むことで既存の秩序も取り込んでしまった

★天皇大権に関わるとして観念右翼から批判を受け、議会軽視と政党政治家より批判を受け、財界からは社会主義だと批判を受け、大政翼賛会は単なる「精神運動」となる

★とはいえ、何らかの統制が必要な状態に経済が陥っており、ある程度の統制はされることとなった。

日本ファシズムは単なる官僚制の異常な戦時適応

★中心人物の1人であった迫水久常は戦後、所得倍増計画のブレーンとなる。

コチラも:昭和陸軍の軌跡

【関連年表】

1940年7月 第2次近衛内閣成立。
1940年10月 大政翼賛会成立。
1940年12月 経済新体制確立要綱から「資本と経営の分離」が削除。
1941年1月 企画院事件
1941年4月 改組により大政翼賛会は政治性を失い、戦争協力のための政府の外郭団体となった。
1943年11月 企画院廃止。
1945年4月 鈴木貫太郎内閣において迫水久常が内閣書記官長となる。
1945年8月 終戦。

【新体制運動】

★新体制運動とは一国一党式の政党を作り、強い政治指導力を発揮することと、経済を公益優先にして私益を追求する資本家からの企業の経営を切り離して国家の方針に従って経営すること。

★第1次近衛内閣の1938年夏にも社会大衆党、陸軍中堅層、革新官僚により近衛新党の結成が目指されていたが、内務省や既成政党の反対で失敗していた。

★このような一国一党式の政党を作ろうとした背景には、当時の不安定な世界情勢に加えて成功しているように見えたナチスやソ連の影響もあったであろう。

【当時の経済状況】

★当時、「赤字国債」と、「軍事費の増大」という財政膨張に苦慮していた。

★高橋是清は財政膨張を抑えていたため、陸軍の反発を招き、二二六事件で暗殺された。

★広田弘毅内閣では大幅な軍事予算増額を受け入れ、より財政膨張となった。

★景気は過熱気味となり、市場が逼迫し、日中戦争開始時には各種の統制が緊急課題となっていた。

★新体制運動にはこれらを変革することが期待された。

【革新官僚とは】

★近衛体制を推進した官僚群を指すことが多いが、定義はさまざまである。

★岸信介、迫水久常らがこれにあたるが、それぞれの経歴や志向は異なる。

★1939年10月から「月曜会」と呼ばれる集まりがはじまり、革新官僚たちと武藤章、岩畔豪雄などの陸軍軍人らの勉強会がスタートした。「革新官僚」が1つの集団として現れてくる。

【革新官僚台頭】

★内閣、議会、財界が強力であれば革新官僚の出番は少ない。

★しかし、当時は元老制度が弱体化、既存政党は相次ぐ汚職などで国民の信頼を失っており、政党と財界も高度国防国家建設をめぐって対立しており、権力の空白状態が続いていた。

【新体制運動2】

★社会大衆党が真っ先に解散。

★既存政党も新体制運動内部での主導権を握るためにあえて解散し、ほぼ全政党が解散して新体制運動に参加した。

★統制のために大日本帝国憲法の改正も目指された。

【大政翼賛会】

既存政党のほとんどを取り込んだということは、逆に既存の秩序を取り込むこととなった

観念右翼からは一国一党は天皇から権力を奪うものだと攻撃を受けた

★党ではなく全国民的な組織として大政翼賛会が成立したが、近衛は綱領や宣言を発表せず、「臣道実践」という曖昧な方針を表明するにとどまった。

【経営と資本の分離】

★1940年10月に出された会社経理統制令は完璧な法令であったといわれる。

★迫水の下で、下村治が主に作成。のち下村は池田勇人のブレーンとなる。

【新体制運動への反発】

★観念右翼(蓑田胸喜、三井甲之ら)からは天皇親政を否定するとみなされ、政党政治家(鳩山一郎ら)からは議会を否定するとみなされ、財界(小林一三ら)からは社会主義とみなされ、各方面から反対もあった。

★文部省国民精神文化研究所員の山本勝市は「利潤は経営合理性の指標であり、それを抑制することはむしろ非効率な経済になるとする」と批判。経済新体制への理論的批判として大きな反響を与えた。

★阪急電鉄創始者であり、第2次近衛内閣で商工大臣だった小林一三は次官の岸信介と対立。

★明治維新や大日本帝国憲法を否定し、旧体制へ復帰するものという点でも批判。

【近衛首相の動揺】

★新体制運動への批判から近衛首相は消極的に。

★1940年に閣議決定された経済新体制確立要綱から「資本と経営の分離」が削除。革新色は大きく後退した。

★なおも右翼からの批判はやまず、1941年4月の改組で、大政翼賛会は政治性を失い、事実上、戦争協力のための政府の外郭団体となり、当初の政治新体制の目標とは程遠い結果となった。

★結果として各種の個別の経済統制や国民動員のための枠組みであった。

【企画院事件】

★1941年1月から4月にかけて企画院で経済新体制確立要綱原案作成に関わっていた調査官たちが治安維持法容疑で検挙される。

【企画院廃止】

★革新官僚と呼ばれたものたちは、それぞれの職務に戻るなどして、1943年11月には企画院は廃止され、業務は商工省と統合されて軍需省に移管された。

★ネットワークとしての革新官僚は事実上消滅した。

【鈴木貫太郎内閣】

★岡田啓介の推薦で娘婿の迫水が内閣書記官長となる。

★左翼分子による共産革命を警戒していた近衛からは警戒された。(♨あれ、もともとは自分も言っていたのでは?)

★鈴木内閣を「終戦内閣」ではないかと警戒していた陸軍は元革新官僚の迫水を歓迎。

★最終的には迫水らによって終戦への道が開かれる。

【迫水久常】

★戦後は経済統制に否定的になる。

★「統制というのは人間が神様のマネをすることだ(つまり不可能だ)」

→【迫水久常略年表】

1902年 東京都にて出生。
1925年 大蔵省入省。
1936年 岡田内閣秘書官在任中、二二六事件に遭遇し、岡田首相の救出に奔走、成功した。
1941年 企画院へ出向。
1945年 鈴木貫太郎内閣で内閣書記官長。(当時、史上最年少)玉音放送を起草した人物として知られる。
1947年 公職追放。
1951年 公職追放解除、翌年衆議院議員に。
1960年 池田内閣で経済企画庁長官。
1961年 郵政大臣。
1977年 没。

写真はwikipediaより。

【日本ファシズム】

★「日本ファシズムはファシズムに値するほどの異常性を表現したものではなく、近代日本の伝統的な官僚制の異常な戦時適応に過ぎない」(橋川文三)

★新体制運動の経験は国民の私益を抑圧するのではなくむしろ利用することで国民所得を増加させていった戦後の政策にも影響していると考えられる。

次章は日米交渉