~只今、全面改訂中~

こんにちは。

今回ご紹介しますのは、「なぜ政党内閣は復活しなかったのか:近衛内閣編」です。

岡田内閣の時は、「政党内閣への準備内閣」という側面がありましたが、「二二六事件」で頓挫してしまいました。【コチラ】

次のチャンスは林内閣の後を継いだ近衛内閣の時代です。(岡田→広田→林→近衛)

「教養としての昭和史集中講義」、「総力戦のなかの日本政治」を参考にさせて頂きました。

【年表】第1次近衛内閣誕生(1937.6.4)~大政翼賛会創立(1940.10.12)

1933.3.23ヒトラー、全権委任法
この頃、近衛文麿、貴族院議長就任
「昭和研究会」も創設される
1936.2.26二二六事件
近衛自身は皇道派寄りで、皇道派の処罰に不満
1936.11.25日独防共協定
1937.6.4第1次近衛内閣誕生(※1)
1937.7.7盧溝橋事件、日中戦争へ(※2)
1938.1.16第1次近衛声明(国民政府を対手とせず)
1938.4.1総動員法公布
1938.11.3第2次近衛声明(東亜新秩序)(※3)
1938.11.第3次近衛声明(近衛三原則)
1939.1.5近衛首相、辞任
1939.4.30政友会分裂
1939.8.23独ソ不可侵条約
1939.10.18価格統制令公布
※この時期、米や石炭などが不足
1940.2.2斎藤隆夫「反軍演説」
1940.3.7斎藤隆夫、議員除名(※4)
1940.6.1矢部貞治と近衛、政治体制確立についての会談(※5)
1940.7.6社会大衆党解党、大政翼賛会に合流(※4)
1940.7.7奢侈品等製造販売制限規則(七・七禁令)
1940.7.22第2次近衛内閣誕生
1940.7.30立憲政友会解党、大政翼賛会に合流(※4)
1940.8.15民政党解党、大政翼賛会に合流(※4)
1940.8.28新体制準備会
1940.9.27日独伊三国同盟
1940.10.12大政翼賛会発会式(※4,6)

(※1)1937年6月4日、近衛内閣誕生

軍人ではない

政党政治家ではない(=利権にズブズブではない)、

高貴(公家の出身)

と言う点で、近衛は民衆の支持を受けました。

しかし、近衛自身は特定の政党の支持があったわけでもなく、軍にも影響力があるわけでもなく、支持基盤が脆弱でした

近衛自身もそのことをよく理解しており、近衛は大衆の支持を得られてこそ政権運営できると認識しておりました。

【民政党・斉藤隆夫の愚痴】

近衛人気がすさまじかったために、政党はそれに便乗してしまいました。

近衛人気に対抗できるだけの人材は民政党にも政友会にもいませんでした。(第3党の社会大衆党は早々に近衛支持)

民政党の斎藤隆夫(のちに反軍演説)は、「せっかく政党内閣が復活するチャンスなのに、政党にやる気がない」(当時の党首は町田忠治)と日記に愚痴をこぼしております。

この斎藤隆夫議員は、のちに日中戦争を批判する「反軍演説」を行なうのですが、彼の「議員除名採択」をめぐって、各党は仲違いして、「(近衛を中心とする)一国一党制」か「否」か、という流れになります。

(※2)1937年7月7日、盧溝橋事件勃発

近衛内閣成立間もなく日中戦争がはじまりました。

もっとも、日本にとっては仮想敵国はソ連でしたので、長引かせるつもりなどありませんでした。

そのため一気に軍事力を投入して和平に持ち込もうとしましたが、交渉過程の問題もあって、和平が実現されません。【コチラも】

それどころか、首都・南京制圧という事実に国民が湧き上がってしまったのです

また、戦争により景気も刺激されました。

失業率問題も解消されます。

こうなると、民衆は「戦争支持」と考え、戦争を止めるにはそれなりの戦果が必要、もちろん賠償金も必要と考えているうちに、ずるずると日中戦争が拡大していきます。

(※3)1938年11月3日、東亜新秩序声明(第2次近衛声明)

「第1次近衛声明」で一度は蒋介石との交渉の道を閉ざしてしまった近衛でしたが、その後、「東亜新秩序に参加するのであれば交渉する」という姿勢をみせます。

(蒋介石への呼びかけとは別に汪兆銘に接触しておりました。【コチラも】

勝ったと思った戦争がまだ続いている状況を国民に説明するうえでも、旗印が必要だったのでしょうか。

「東亜新秩序」声明は後付けのような気もします。

もっとも、この声明は、「昭和研究会」の蝋山政道(東京帝国大学行政学者)教授の「東亜共同体論」(1938秋)がベースになっていると考えられます。

「東亜共同体論」の内容としましては、「欧米諸国からアジアを解放する」というものでしたが、アジア侵略を続けながら発したことに大きな矛盾がありました。

これは非常に難しい問題ですね~。
こうなってしまった今、どうすれば良かったのかわかりません。

(後世から見ると、正解の1つは満州だけ残して大規模な撤退だったのでしょうが、局地的な戦争に勝ち続けている段階でそれを行なって皆を納得させるのは至難の業かも。)

(※4)「一国一党論」への動き

社会大衆党の麻生久、亀井貫一郎らはナチス・ドイツに魅せられて一大新党である「第日本党部」を作ろうと考えておりました。

1938年頃のことです。

総裁は近衛文麿を予定しておりました。

しかし、近衛自身にやる気がなく「近衛新党」構想は潰えます。

また、政友会も久原房之助が1936年頃から一国一党を考えていました。

1939年、中島知久平らの「中島派」と「久原派」に分裂しましたが、いずれも一国一党論者であり、こうした流れは大政翼賛会に吸収されていきます。

武藤章
ちなみに私も「一国一党」論者です。
親軍的な、ね。

他方、近衛周辺でも木戸幸一、有馬頼寧らによって新党構想が考えられておりましたが、「政党」に「する」か「しない」かが争点ともなりました。

「政党」になれば、軍人・官僚・教員などは入れません。

一方、「政党でない」となると、ただの民衆啓蒙運動になってしまう可能性があります。

「昭和研究会」の東京帝国大学政治学者の矢部貞治教授をはじめとして、様々な議論がなされましたが、

最終的に、

【大政翼賛会】

・大政(天皇による政治)翼賛の臣道実践
・総裁は内閣総理大臣の職にあるものが就任する
・中央本部、中央協力会議をおき、道府県、郡、市町村に支部を置く

という、ドイツ型とは全く違ったものとなりました。

そして、翼賛会は政党ではなく、「公事結社」となり、いまひとつ曖昧な存在となります。

しかしながら、結局、すべての政党が「大政翼賛会」に合流しました。

結果、既成政党のシステムもそのまま取り込んでしまいます。

そのため、「大政翼賛会」はただ枠組みが大きくなって、中身はまとまりに欠けた組織となりました。

【大政翼賛会役員】

・総裁は近衛文麿
・役員には閣僚、貴族院議員、衆議院議員、軍人、ジャーナリストなど

武藤章
何だか、ただ1つの党にいくつもの派閥がある、「普通」の政党のような・・・
【翼賛会=幕府論】

もちろん、大政翼賛会に批判した人たちもおりました。

京都大学憲法学者の佐々木惣一です。(東の美濃部、西の佐々木とも呼ばれておりました。)

・幕府とな特定の一家の者が恒久的に政治を行なうと定まっている制度。
・特定の一家とは団体も同じ。
・帝国憲法では特定の団体に恒久的に政治を担当させるとは書いていない。
・このままでは翼賛会という組織が政権を担当し続けることになる。
・これは幕府と同じである。

 
翼賛会はその後も批判されますが、そのうち、「経済新体制運動」へとつながり、こちらも財界の大反発を招きます。

(すんなりと翼賛政治に移行した、と考えていたらおお間違い!)

観念右翼(蓑田胸喜、三井甲之ら)からは天皇親政を否定するとみなされ、

政党政治家(鳩山一郎ら)からは議会を否定するとみなされ、

財界(小林一三ら)からは社会主義とみなされ、

各方面から反対がありました

これらの批判を受け、1941年4月の改組で、大政翼賛会は政治性を失い、事実上、戦争協力のための政府の外郭団体となりました

当初の政治新体制の目標とは程遠い結果でした

(※5)矢部貞治

矢部貞治は新体制運動に大きな影響を与えておりました。

【矢部貞治】(やべ ていじ:1902-1967)

・鳥取県出身。東京大学法学部教官、「昭和研究会」に参加。
・いわゆる「革新派」
・「一時的に独裁が必要」という結論に達する
・イギリス中心の世界秩序に疑問
・日中戦争を肯定

(※6)「1940年型体制」論

こうした「新体制運動」の過程で、官僚機構による産業統制、金融制度、労使関係、企業経営などの分野で新しいシステムができました。

これが、高度経済成長に至るまで日本経済の発展を支えたのではないか、という論点があります。

現代の管理型社会はこの時代から来ているのではないか、ということです。

また、「総動員体制」なども戦争のためにそうした、的な文脈で語られることが多いのですが、実際は数々の社会問題に対して、戦争を想定してない時代からそうした動きがあった、ということは意識しておく必要があると考えます。

まとめ

★政党は近衛人気に便乗し、政党内閣制を復活させる気がなかった。

 

★新体制は「政党」であるべきか、「政党でない」べきか議論がなされたが、最終的に「公事結社」という曖昧な存在になった。

★「大政翼賛会」への批判もあったが、結局、すべての政党が大政翼賛会に合流した。

★すべての政党が合流したために、結局、派閥が生じて、ナチスのような中央集権国家とは程遠いものとなった。

★もっとも、大政翼賛会による影響は少なくない。

★のち、右翼からは天皇親政批判、経済界からは共産主義、鳩山一郎ら合流しなかった政治家からは議会政治の否定と批判を受け、1941年4月には政治性を失う。しかし、戦後の高度経済成長は新体制に参加した官僚たちによる可能性が大きかったであろうこと指摘されている。

コチラも。