~「もう一つ上の日本史」出版に伴い、勉強方法も変える必要が出たので、全面改訂突入します~

開戦時の軍令部総長は永野修身で海相が嶋田繁太郎。(おまけに陸軍は杉山元。)一番大事な時期に、なぜ彼らのようなものがトップだったのかわからないが、彼らのようなボンクラだったからこそ、トップになれたのであろう。

★結局、誰かが選ぶわけだから、選ぶ人間の眼力に依るところが大きい。伏見宮の任命責任は問われかねない。

【永野修身】

写真はwikipediaより

略年表

1880 高知県、士族の家の四男として生まれる。
1898 海軍兵学校(28期)に2位の成績で入学。
1900 卒業時も2位。
1904 日露戦争。(※1)
1909 海大入学。
1913 ハーバード大留学。
1920 アメリカ駐在。
1921 ワシントン会議随員。
1930 軍令部次長。部長は谷口尚真。
1931 ジュネーブ会議全権。
1935 ロンドン会議全権。
1936 海軍大臣。
1937 連合艦隊司令長官。
1941 軍令部総長。(※2)
1945 終戦。
1947 A級戦犯容疑者であったが、拘置所で肺炎を患い死去。66歳。

(※1)開戦時の現役将官で日露戦争をちゃんと経験した者は山本五十六と永野修身くらい。日露戦争では乃木希典軍に協力し、軍艦の大砲を陸に上げて、山越しに撃ったらたまたま命中。「心眼で撃った」とのことであったが、これで名が売れた。

(※2)海軍大臣と連合艦隊司令官、軍令部総長をやったのは永野だけ、というのが自慢であった。しかし、昭和天皇に杉山がグダグダな説明をしているところに珍妙な助け舟を出すなど、極めて凡庸。そして、それら要職にいても永野が何かしたことはない。そんな永野を総長にしたのは伏見宮であるが、そんな永野だからこそ伏見宮は組し易かったのであろう。軍令部総長も米内がなる予定のところを伏見宮の「永野が良い」という一意見で吹っ飛んだ。

【嶋田繁太郎】

写真はwikipediaより

略年表

1883 東京都出身。幕臣で神官の家の長男として生まれる。(※1)
1904 海軍兵学校(32期)卒業。191人中27位。日露戦争にも従軍。(※2)
1915 海大卒業。
1916 イタリア駐在。
1932 上海駐在。
1935 軍令部次長。
1941 東条内閣の海相に。(※3)
1944 軍令部総長。海相辞任。
1945 予備役に。
1948 東京裁判で1票差で死刑を逃れる。(※3)
1976 死去。満92歳。

(※1)神官の家系であったことから、毎朝、明治神宮と東郷神社をめぐって出勤していたという。それよりちゃんと仕事すべきところで仕事して欲しかった。

(※2)同期に山本五十六、堀悌吉ら。山本との仲は決して良くなかったという。

(※3)嶋田は元々非戦論者であったが、伏見宮に呼ばれて豹変。「海相一人が戦争に反対した為に戦機を失しては申し訳ない」と参戦へ。陸軍に宥和的で「東条の副官」と呼ばれていたりもした。

(※4)死刑となった武藤章はこの時の高笑いを聞く。いかなる心境であったか。

書籍はコチラ

次章は山本五十六編