こんにちは。
今回ご紹介しますのは、「対米開戦時の海軍トップ」についてです。
日米開戦時、海軍の「軍令部総長」は永野修身、「海相」は嶋田繁太郎でした。
一番大事な時期に、彼らがトップだった理由は、「伏見宮に選ばれたから」のようです。
以下、『昭和陸海軍の失敗』(2007年、文藝春秋)海軍編第4章『必敗の日米開戦をなぜ?』を参考にさせて頂きました。
【永野修身】(ながの・おさみ)
永野修身の略年表
1880 | 高知県、士族の家の四男として生まれる。 |
1898 | 海軍兵学校(28期)に2位の成績で入学。 |
1900 | 卒業時も2位。 |
1904 | 日露戦争。(※1) |
1909 | 海大入学。 |
1913 | ハーバード大留学。 |
1920 | アメリカ駐在。 |
1921 | ワシントン会議随員。 |
1930 | 軍令部次長。(部長は谷口尚真。) |
1931 | ジュネーブ会議全権。 |
1935 | ロンドン会議全権。 |
1936 | 海軍大臣。 |
1937 | 連合艦隊司令長官。 |
1941 | 軍令部総長。(※2) |
1945 | 終戦。 |
1947 | A級戦犯容疑者であったが、拘置所で肺炎を患い死去。66歳。 |
(※1)
開戦時の現役将官で日露戦争をちゃんと経験した者は山本五十六と永野修身くらいだったと言われます。
日露戦争では乃木希典軍に協力し、軍艦の大砲を陸に上げて、山越しに撃ったところ、たまたま命中しました。
「心眼で撃った」と言ったそうですが、これで永野修身の名が売れました。
(※2)
「海軍大臣(海相)」と「連合艦隊司令官」、「軍令部総長」の3つを経験したのは永野だけ。
しかし、昭和天皇にグダグダな説明をしている杉山に珍妙な助け舟を出すなど、「極めて凡庸」という評価。
また、要職にいても永野が何かしたことはないとも。
永野を総長に指名したのは伏見宮ですが、伏見宮にとって、永野は組し易かったのでしょう。
(※軍令部総長は米内光政がなる予定でしたが伏見宮が「永野が良い」と意見して変更されました。)
★日米開戦時の軍令部総長。
★伏見宮の指名による。
【嶋田繁太郎】(しまだ・しげたろう)
嶋田繁太郎の略年表
1883 | 東京都出身。幕臣で神官の家の長男として生まれる。(※1) |
1904 | 海軍兵学校(32期)卒業。191人中27位。日露戦争にも従軍。(※2) |
1915 | 海大卒業。 |
1916 | イタリア駐在。 |
1932 | 上海駐在。 |
1935 | 軍令部次長。 |
1941 | 東条内閣の海相に。(※3) |
1944 | 軍令部総長。海相辞任。 |
1945 | 予備役に。 |
1948 | 東京裁判で1票差で死刑を逃れる。(※4) |
1976 | 死去。満92歳。 |
(※1)
毎朝、明治神宮と東郷神社をめぐって出勤していたといいます。
(※2)
同期に山本五十六、堀悌吉ら。山本との仲は決して良くなかったといいます。
(※3)
嶋田は元々非戦論者でしたが、伏見宮に呼び出されて豹変してしまいました。
最終的に「海相一人が戦争に反対した為に戦機を失しては申し訳ない」と言って開戦に賛成してしまうのです。
また、陸軍に宥和的であったため、「東条の副官」と呼ばれていたりもしました。
もっとも、前任者の及川古志郎の非も多いと思うけどね…
(※4)
死刑を免れたとき高笑いをしたそうです。
一方、死刑となった武藤章はこの時の嶋田の高笑いを聞いておりました。
いかなる心境だったことでしょうか。
★及川古志郎の辞職に伴い、海軍大臣に就任。10月に就任して、12月に開戦。
★もともとは非戦派だったが、伏見宮に説得されて開戦に賛成した。
【書籍はコチラ】