こんにちは。
今回ご紹介しますのは「伏見宮博恭王」。
古代ならまだしも、日本にこんな皇族がいたなんてちょっとビックリしました。
「お飾り」などではなく、リアルに「軍人」なのです。
(それも海軍きっての好戦派!)
地位が高いだけに「厄介」だったことでしょう。
人事においても「艦隊派」が優遇され、「条約派」はどんなに優秀でも左遷されてしまったり・・・。
「昭和陸海軍の失敗」を参考にさせて頂きました。
【年表】伏見宮(1875年~1946年)
1875 | 出生。(大正天皇より4歳上。) |
1886 | 海軍兵学校入学(16期)。 |
1889 | ドイツ留学。(~1895) |
1904 | 日露戦争に参戦。 ※負傷までしている。他の皇族とは明らかに異なる経歴。 |
1932 | 海軍軍令部長に就任。 「艦隊派」寄りの人事介入を行なう。(→1933~大角人事)(※1) |
1933 | 軍令部を強化し、海軍省の権限を弱める。(※2) |
1938 | 脳出血で右半身麻痺。 |
1941 | 軍令部部長を退く。(※3) |
1946 | 死去。70歳。 |
(※1)軍令部長時代の大角人事
陸軍参謀総長に閑院宮戴仁親王が就任したことから海軍もバランスをとるために伏見宮博恭王が軍令部長に就任しました。
時代は、ワシントン海軍軍縮条約(1922)、ロンドン海軍軍縮条約(1930)の流れです。
海軍内でも「条約派」と「艦隊派」に分かれておりましたが、伏見宮博恭王はその立場を利用して大角岑夫海軍大臣に圧力をかけて「条約派」を左遷しました。
海軍は元々は「超エリート集団」でして、「加藤友三郎」、「岡田啓介」、「堀悌吉」といったラインがその系譜にあたるのですが、堀悌吉が左遷させられてしまったことは国家にとって痛手だったことでしょう。
残った多くは「艦隊派」か「イエスマン」、といった状況です。
伏見宮が決戦論者でなければ海軍の状況はずいぶんと変わっていたであろう、
と言われております。
(※2)軍令部強化
海軍には軍政を司る海軍省と、軍事を行なう軍令部に分かれておりましたが、伏見宮の軍令部長時代に軍令部の権限が強化されました。
(昭和天皇はこれを懸念しておりましたが、実際にそうになってしまいました。)
(※3)後任に永野修身を指名・・・
そんな伏見宮博恭王でしたが、1938年に脳出血を発症し、1941年に退陣します。
しかし、もしも、もう1年長くやっていたら開戦責任を問われて、天皇家の存続に関わっていた可能性もあっただけに良かったのかどうか・・・。
後任は米内光政が就任しそうでしたが、永野修身が指名されました。
(より言うことを聞きそうだったからでしょうか・・・)
【おまけ】その後の伏見宮家
戦後、GHQのもとで皇籍離脱となりました。
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