~「もう一つ上の日本史」出版に伴い、勉強方法も変える必要が出たので、全面改訂突入します~

★「対中国」という点で米内光政を「良識派」として良いかわからないが、少なくともアメリカの実力を正しく把握していた。

井上成美こそ、正当な「良識派」。一貫して三国同盟には反対であったし、一貫して日米開戦に反対。(その点、山本五十六は「半年や1年なら暴れてみせましょう」と言うなど脇が甘い。)

【試験に役立ちそうなポイント】

★米内光政:対中強硬。日中戦争拡大時の海相である。ドイツとの三国同盟には「英米と戦争になったら勝てない」と反対。そのため陸軍と不仲になり、首相時は陸軍により総辞職に追い込まれた。米内の次の首相が近衛である。

★井上成美:米内光政、山本五十六とともに「海軍三羽烏」(三国同盟反対:英米開戦反対)と呼ばれる(誰が呼び始めたかわからないが)。3人のうち、もっとも一貫性があるのは彼だが、試験にはおそらく出ない。

【米内光政】

写真はwikipediaより

略年表

1880 岩手県盛岡藩士の家に出生。
1898 海軍兵学校入学(29期)。
1901 海軍兵学校を125人中68番の成績で卒業。(※1)
1905 日露戦争従軍。日本海海戦にも参戦。
1912 海大入学(12期)。
1914 海大卒業。
1915 ロシア駐在。
1920 ドイツ駐在。
1930 閑職の間にひたすら読書。
1936 連合艦隊司令長官。(※2)
1937 林内閣、近衛内閣、平沼内閣において海相。

第2次上海事変を拡大。(※3)
1938 トラウトマン交渉打ち切りを強く要望。近衛声明につながる。多田駿と対立。

11月には五相会議で海南島攻略の合意を得る。(※4)
1939 ドイツ、イタリアとの同盟に反対。(※5)
1940 予備役となり内閣総理大臣に。陸軍の横やりのため、半年で総辞職。(※6)
1941 予備役のまま太平洋戦争開戦。現役復帰案も出たがなかなか実現せず。(※7)
1944 現役復帰し小磯内閣で海相に。鈴木内閣でも留任。
1945 終戦へ尽力。戦後の東久邇宮内閣・幣原内閣でも海相となり海軍の幕引きを行う。
1948 肺炎により死去。68歳。高血圧、帯状疱疹も彼を弱めた。

(※1)「グズ政」と呼ばれていた。

(※2)わずか2ヶ月で司令長官を退職することになったが、これは海相に末次がなることを海軍次官の山本五十六が防ぐべく米内を推挙したためのようだ。

(※3)第2次上海事変に関しては、予算がないと言う賀屋興宣蔵相を怒鳴りつける。中国の南方は海軍の縄張りという意識もあったのかも知れない。また、中国側の挑発も一因か。

(※4)総辞職をちらつかせて近衛声明に加担。海南島攻略は「海の満州事変」とも言われる。1939年2月に占領。南進には賛成。もたもたしていたら陸軍にとられるという懸念もあった?少なくとも「海軍は平和的」という考えは誤り

(※5)しかし、これは1年先延ばしになっただけである。米内自身は親ソ派ということもあってか、ソ連と組むべきと考えていた。山本は海軍司令長官に転属させているが、そうでもしなければ同盟派推進派将校により殺害されていたであろうとの配慮から。また、平沼内閣時代の五相会議で天皇に「米英仏ソを敵に回して勝算は?」と聞かれた時に、「日本の海軍は独伊には勝てても英米に勝てる見込みはない。」とハッキリ言い、同盟締結を遅らせた。しかし、これは陸軍の怒りを買い、海軍はいつ攻撃してくるかわからない陸軍との開戦準備を整えたほど(!)。

(※6)それまでの経過もあって、陸軍との関係は最初から悪かった。就任当日から米内おろしの計画が練られた。ただ畑陸相とは通じるものがあり、東京裁判においても畑俊六を庇う姿勢がみられた。

(※7)伏見宮の次の軍令部長になりかけていたが、伏見宮の「永野がいい」で吹っ飛んだといわれる。

【井上成美】

写真はwikipediaより

略年表

1889 宮城県仙台市、旧幕臣の家にて出生。11男。
1906 海軍兵学校入学(37期)。
1909 海軍兵学校卒業。成績は179人中2位。
1918 スイス駐在。
1922 海軍大学校を特例で入学。
1924 海軍大学校卒業。
1927 イタリア駐在。(※1)
1933 軍令部の権限強化をめぐって南雲忠一(軍令部代表)と激論。最終的に伏見宮の意見で軍令部権限強化に。大角人事にも影響。(※2)
1936 二二六事件。海軍省内で指揮。
1937 軍務局長に就任。

日中戦争拡大。
1939 三国同盟反対。(※3)
1940 航空部への転属を願い、海軍航空本部長に。一方、井上の意に反して三国同盟は締結される。(※4)
1941 「新軍備計画論」をまとめる。日米開戦。最後まで開戦反対で動いた。(※5)
1942 海軍兵学校校長に。(※6)
1945 終戦。英語塾で食いつなぐ。貧しい生活が続く。
1953 胃潰瘍で大量吐血。千葉大の中山教授により手術成功。
1975 86歳で死去。老衰。

(※1)この時、イタリア人たちの嫌な面を散々見たことが、のちの三国同盟反対にも影響している。外見は立派でも中身がないと喝破

(※2)南雲には殺害までほのめかされている。やはり井上の意見の方が正しかったのだが。

(※3)ドイツ語に堪能であったため、『我が闘争』を原書で読むことができた。その際、訳本で省かれた、ヒトラーが「日本人を想像力の欠如した劣等民族、ただしドイツの手先として使うなら小器用・小利口で役に立つ存在」と書いているところに着目し。彼の偽らざる対日認識はこれであり、ナチスの日本接近の真の理由もそこにあるのだからということも付け加えて、同盟に反対。もちろん日本経済が米英に依存していることも反対の理由。

(※4)及川古志郎海相。最終的に三国同盟を認める代わりに予算をくれ、となった。井上は「二二六事件を起こす陸軍と仲良くするは強盗と手を握るが如し。もう少ししっかりして欲しかった。内閣なんか何回倒してもよいではないか。」と直言。

(※5)新軍備計画論は航空主兵論の井上ならでは。太平洋戦争を正しく予見していたが及川海相ら上層部には理解不能であったことが悔やまれる

(※6)戦下手であったとも言われるが手堅い戦法をとった。

次章は永野修身・嶋田繁太郎編