~只今、全面改訂中~

【井上成美】

写真はwikipediaより

略年表

1889 宮城県仙台市、旧幕臣の家にて出生。11男。
1906 海軍兵学校入学(37期)。
1909 海軍兵学校卒業。成績は179人中2位。
1918 スイス駐在。
1922 海軍大学校を特例で入学。
1924 海軍大学校卒業。
1927 イタリア駐在。(※1)
1933 軍令部の権限強化をめぐって南雲忠一(軍令部代表)と激論。最終的に伏見宮の意見で軍令部権限強化に。大角人事にも影響。(※2)
1936 二二六事件。海軍省内で指揮。
1937 軍務局長に就任。

日中戦争拡大。
1939 三国同盟反対。(※3)
1940 航空部への転属を願い、海軍航空本部長に。一方、井上の意に反して三国同盟は締結される。(※4)
1941 「新軍備計画論」をまとめる。日米開戦。最後まで開戦反対で動いた。(※5)
1942 海軍兵学校校長に。(※6)
1945 終戦。英語塾で食いつなぐ。貧しい生活が続く。
1953 胃潰瘍で大量吐血。千葉大の中山教授により手術成功。
1975 86歳で死去。老衰。

(※1)この時、イタリア人たちの嫌な面を散々見たことが、のちの三国同盟反対にも影響している。外見は立派でも中身がないと喝破

(※2)南雲には殺害までほのめかされている。やはり井上の意見の方が正しかったのだが。

(※3)ドイツ語に堪能であったため、『我が闘争』を原書で読むことができた。その際、訳本で省かれた、ヒトラーが「日本人を想像力の欠如した劣等民族、ただしドイツの手先として使うなら小器用・小利口で役に立つ存在」と書いているところに着目し。彼の偽らざる対日認識はこれであり、ナチスの日本接近の真の理由もそこにあるのだからということも付け加えて、同盟に反対。もちろん日本経済が米英に依存していることも反対の理由。

(※4)及川古志郎海相。最終的に三国同盟を認める代わりに予算をくれ、となった。井上は「二二六事件を起こす陸軍と仲良くするは強盗と手を握るが如し。もう少ししっかりして欲しかった。内閣なんか何回倒してもよいではないか。」と直言。

(※5)新軍備計画論は航空主兵論の井上ならでは。太平洋戦争を正しく予見していたが及川海相ら上層部には理解不能であったことが悔やまれる

(※6)戦下手であったとも言われるが手堅い戦法をとった。

海軍大将井上成美 [ 工藤美知尋 ]価格:2,420円
(2021/9/4 14:07時点)
感想(0件)

次章は永野修身・嶋田繁太郎編