~只今、全面改訂中~

☞【南北朝時代第2期㉓:1353年7-12月】『尊氏、鎌倉府を入間川に移して関西へ!』

こんにちは。

今回ご紹介しますのは、「南北朝時代第2期㉓:1353年7-12月」です。

尊氏は東国の統治を鎌倉府に任せて、西国へ向かいました。

鎌倉府では足利基氏のサポート役(関東執事)として畠山国清が選ばれました。

さらに、鎌倉府の首都は、上杉憲顕ら旧直義党の勢力が強い北関東に睨みを効かせるために、入間川(埼玉県狭山市)に移転しました。

この体制は「薩埵山体制」と呼ばれます。

正平8年/文和2年(1353年)7-12月 年表

7/10足利義詮、反撃に転じ、美濃国垂井から出陣
7/23赤松則祐、石橋和義軍、摂津国西宮まで進出し、義詮をサポート
7/24山名時氏・師義親子、石塔頼房ら南朝軍、京都から没落
7/25赤松則祐、石橋和義、松田信重(備前守護)軍、入京
7/26足利義詮も入京
7/28足利基氏、畠山国清を率いて鎌倉を発ち、武蔵国入間川に本拠を移転

※尊氏は畠山国清を「関東執事」に任命。同時に、河越直重を相模守護に任命。
※畠山国清は武蔵守護にも任命されたと考えられる。
※尊氏が鎌倉府に恩賞授与権を与えたことで、鎌倉府による東国統治がスムーズに。

【河越直重】河越家は平安時代より続く武蔵国の武士団の棟梁の家系。直重は武蔵野合戦で尊氏方の先鋒をつとめ、新田軍を撃破する。その後の笛吹峠の戦でも新田義宗を越後へ、宗良親王を信濃へ敗走させる活躍を見せ、相模国守護に任命される。
7/29足利尊氏、鎌倉を発つ

※西国の不安定さを知り、東国を離れることに。これにより1年10ヶ月続いた「東西分割統治」が解消される。
※河越直重、鎌倉の留守を任される。
9/-足利尊氏、美濃国垂井に到達し、後光厳天皇に拝謁

※後光厳天皇はまだ垂井にとどまっていた。
※垂井は古代史でも有名な「不破関」のある場所で、関ケ原の近くでもある。岐阜県の西側。
9/21足利尊氏、義詮とともに後光厳天皇を奉じて入京

※義詮も京都から迎えに来る。
※関東から小山氏政、結城直光、佐竹義篤、武田信武らも付きそう。
12/-足利直冬、年末までに石見国に移動
足利尊氏
義詮、そろそろ反撃に出な。

僕もそっちに行くからさ。

足利義詮
わかりました!

しかし、東国は大丈夫なんでしょうか…

足利尊氏
うーん。

火種を抱えていないわけじゃないけど、

手は打ったから大丈夫だよ。

山名師義
うーん、相手が勢いづいてしまったわい。

軍を立て直すとするか。

後光厳天皇
尊氏どの、ありがとう!
畠山国清
尊氏さま、東国は私にお任せ下さい!

しっかり基氏さまをサポートします。

上杉の野郎にもにらみをきかせますよ。

足利基氏
嫌だな。。あんな、筋肉バカ。。

小さい頃から世話になってる憲顕の方がやりやすいんだけど…

上杉憲顕
基氏さま、私、戦に敗れて、出家しましたー
河越直重
はははっ

上杉め、公家は公家らしくしてろっての

関東の平和は武家が守る!