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☞【南北朝時代第2期㉒:1353年1-6月】『南朝軍、足利直冬・山名師義らを得て2度目の京都侵略!』

こんにちは。

今回ご紹介しますのは、「南北朝時代第2期㉓:1353年1-6月」です。

山名師義、足利直冬らを得た南朝軍は息を吹き返し、再び京都を奪還します。

義詮は敗北、先に逃がしていた後光厳天皇とともに美濃国(岐阜県)まで逃げます。

正平8年/文和2年(1353年)1-6月 年表

1/-足利直冬、南朝に帰順

※直冬は九州での戦で敗れて山陰地方に移っていた。
1/5佐々木道誉、蟄居

※前年の摂津国における南朝方との戦いで息子たちが敗北した責任をとる
1/10迫山合戦@備前

※南朝に転じた山名師義軍に、石橋和義が大敗
4/2摂津・河内の戦い

※猛威を振るう南朝軍に対して土岐頼康・仁木義長が対応に当たったが敗北
※義詮自ら出陣しようとするが結局中止
5/20北条時行処刑

※北条高時遺児。享年25。
※御内人である長崎駿河四郎、工藤二郎らとともに。おそらく2人は得宗被官の長崎氏、工藤氏の子孫。鎌倉幕府滅亡後20年も行動を共にしていたと考えられる。
※武蔵野合戦で尊氏に捕まってしまった。
※以後、北条残党の活動は消える。

♨実は処刑を逃れて伊勢国に逃れたという説もあり。そして、その末裔が伊勢氏盛こと「北条」早雲…。
6/6義詮、後光厳天皇を比叡山に行幸させる

※山名時氏が山陰道を東上し、石塔頼房が石清水八幡宮に進出してきたため
6/9神楽岡・吉田河原の戦い

※南朝軍、ついに京都侵攻。義詮がこれを迎え撃つが敗北。
※直義による師直暗殺計画の際に土壇場で師直を救った行政官僚である粟飯原清胤が戦死
※義詮は近江国坂本に逃れる
6/12京都西山の戦い

※高師詮が山名軍との戦で戦死
※高師詮は高師直の遺児。丹後・但馬守護であった。これにて師直の系統は断絶。
※鎌倉幕府でも見られた「御内人政治」の終焉でもある。
6/13義詮、後光厳天皇とともにさらに東へ逃げ美濃国垂井へ

※この際に佐々木京極秀綱(佐々木道誉息子)が土民に討たれる
※土民たちは新田氏の庶流、堀口貞祐に率いられていた
足利直冬
よし、中国地方に戻って戦力を立て直すとするか。

なんなら南朝に下っても良い。

山名師義
南朝は直冬さまのこと、大歓迎のようですぞ。
北畠親房
ふはははは!

このまま京都へ向かえー!

足利義詮
ううう、旧直義党が息を吹き返したか。。。

そして直冬、私もお前を兄弟とは認めないぞ!

覚悟しろっ!

佐々木道誉
そうは言うても、直冬はさすが尊氏さまの息子じゃ。。

あっしの力じゃどうにも止められない…

息子も死んでしまったし、どうすれば良いものか…

後光厳天皇
私、後光厳天皇です。

父や兄が南朝に連れ去られてしまったので、急遽、天皇になることになりました。

今は逃げないといけませんが、いつか平和を実現したいと思います。

足利義詮
うううっ、天皇、またいつか京都に戻りましょう!
石塔頼房
ふん、義詮なんてひとひねりだ!
足利尊氏
ま、時行くんはここで処刑させてもらうよ。

これ以上、荒らされては困るもんでね。

北条時行
ふふふ。

僕が「逃げ上手の若君」と呼ばれていることはご存知かな。

※北条時行が処刑を逃れて伊勢国に渡り、その末裔である伊勢氏盛が「北条早雲」であるという異説もあります。