こんにちは。
今回ご紹介しますのは、「南北朝時代第2期㉑:1352年3-12月」です。

細川顕氏を総大将とする幕府軍が南朝を京都から追い出します。
しかし、石清水八幡宮攻防戦での恩賞の少なさを理由に山名氏が南朝に寝返ってしまいました。
東北でも幕府軍が盛り返す中、
九州では直義方残党となっていた足利直冬が撤退を余儀なくされました。
正平7年/観応3年・文和元年(1352年)3-12月
3/2 | 新田義宗、鎌倉から撤退 |
3/9 | 足利義詮、近江国を出発 上杉朝定(32)、信濃国で死去 ※前年の備中国における高師泰との戦いで負った傷が元か。 |
3/12 | 足利尊氏、鎌倉へ帰還 ※これを機に「正平」元号を用いるのをやめて、北朝の元号である「観応」を復号。 |
3/15 | 足利義詮、京都を奪回 ※後村上天皇ら南朝軍は八幡へ撤退。男山に立て籠もる。 |
3/21 | 足利義詮、東寺に本陣を置き、石清水八幡宮への攻撃開始 ※南朝側も激しく抵抗し激戦となる。 ※義詮側は細川顕氏が総大将を務める。ほか、義詮側には細川清氏、山名時氏、山名師義、赤松則祐、土岐頼康。 |
3/- | 吉良貞家、陸奥国府を南朝から奪回 ※1353年5月に北畠顕信と戦い宇津峰城を陥落させる |
4/25 | 幕府軍、石清水八幡宮に火を放つ |
5/11 | 石清水八幡宮、陥落 ※兵糧の欠乏に苦しめられたうえに投降する武将も多く戦意喪失。 ※後村上天皇はかろうじて賀名生に帰還。 (※閏2月からの一連の戦いを「八幡の戦い」or第4次京都合戦と呼ぶ) |
7/5 | 細川顕氏、急死 ※立派に務めをまっとうした。 |
8/17 | 弥仁王、後光厳天皇となり即位、北朝が再建される ※南朝に連れ去られた上皇たちは賀名生まで連れて行かれて、義詮は奪回できず。 ※光厳上皇の第3皇子であり、僧侶になる予定であった弥仁王に白羽の矢が。 |
9/27 | 北朝、「文和」を元号とする |
11/- | 摂津国にて楠木正儀、石塔頼房ら南朝軍が摂津守護赤松光範軍を撃破 ※赤松光範は直義の北陸没落に従うなど直義方であったが、この頃までには尊氏方に帰参していた。 ※南朝側は京都攻略時は公家が作戦を指揮したそうだが、今回は石塔頼房が主導権を握っていた。 足利義詮、佐々木京極秀綱(佐々木道誉嫡男)および、その弟の高秀を派遣するも敗北 |
11/- | 山名氏、南朝方に寝返り、出雲国・備前国へ侵入 ※石清水八幡宮包囲戦で山名師義(時氏の息子)が大活躍したにも関わらず恩賞が認められなかったことによる ※佐々木道誉への怒り ※出雲国では守護代吉田厳覚を追い出し、備前国鳥取荘への侵入では備後国の上杉重季も合流し、勝利を重ねる |
11/24 | 大宰府攻城戦開始 ※九州では足利直冬(直義方)、一色道猷(北朝・九州探題)、懐良親王(南朝)の三つ巴の戦いになっていた。直義を失った直冬が追い込まれることとなった。 |
12/- | 足利直冬、長門国豊田城へ没落 ※大宰府攻城戦は翌年2月1日まで続くが、直冬は一足先に脱出。 |

義詮、東は片付いたから、次はそっちの番だ。
京都の奪回の方法はもうわかってるでしょ。

はい、、
いろいろすみません。。。
いろいろすみません。。。

うんうん、
京都を奪回したら一気に石清水八幡宮を攻撃だっ
京都を奪回したら一気に石清水八幡宮を攻撃だっ
総大将は顕氏でいいんじゃない?

わが命にかえましても、南朝を殲滅させます

やってやりましょう

せっかく南朝との間を取り持ったと思ったのに…

むむむ、ちょっとこっちも無理がある
しょうがない退却するか

公家どもが考えた作戦じゃ拉致があかない
楠木どの、今度は私の作戦で場所変えましょう

南朝を撃破した!
これでかつての敗戦の名誉回復できた。。

顕氏、ご苦労であった。。
御冥福を祈る。。

岩清水攻防戦で活躍したのは顕氏どのだけではないでっせ。
佐々木殿、私への報酬がちっと少なすぎやしないですかね。

えー、こんなもんじゃないの??

はっ?
やってやるわ

直義おじさんが死んでしまったことで劣勢に立たされた。。。
元いた中国地方に転進しよう。。

久しぶりの登場です。
父・後醍醐天皇の地方戦略によって九州に派遣されておりました懐良親王です。
紆余曲折を経て、ようやく戦う準備が整ってきました。
このあと、私が活躍するとはまだみんな思っていないでしょうけど。