こんにちは。
今回ご紹介しますのは、「南北朝時代第2期⑰:1351年11月」です。
幕府と南朝が電撃合体しました。
「正平の一統」と呼ばれます。
幕府側は尊氏ではなく、義詮と佐々木道誉が主導したと言われておりますが、
「幕府の存続」の明言化を求めた尊氏と、「直義追討」を求めた義詮の関係はぎくしゃくしたものとなりました。
観応2年/正平6年(1351年)11月 年表
11/2 | 赤松則祐、正式に尊氏方に帰参。 南朝使者・忠雲僧正入京。 |
11/3 | 正平の一統(南朝と室町幕府の合体) ※足利義詮、忠雲僧正と対面。南朝との和平締結。 ※足利義詮と佐々木道誉が主導し、尊氏は脇に追いやられていた様子。 ※尊氏が南朝に下った家臣を取り戻そうと、南朝に降伏した形式をとったことで生じた。 【講和条件】 ①元弘一統の時代に回帰する ②直義を追討する ※幕府の存続については明言されておらず。 ※結論から先に言うと、翌年閏2月(わずか4ヶ月)で正平一統は破綻した。 |
11/4 | 足利尊氏、仁木頼章・畠山国清らを率いて東国へ出陣 ※ほか仁木義長、千葉氏胤、武田信武、二階堂行珍らも参戦。 |
11/7 | 北朝消滅 ※崇光天皇、皇太子直仁親王廃される ※南朝の「正平」元号が使われることに。 |
11/8 | 足利尊氏、義詮の東国下向を阻止 ※饗場命綱丸と朽木某を京都に派遣 |
11/10 | 足利義詮、再び東国出陣を試みるが実現せず ※尊氏と親子の間で意思疎通が図れていない。 ※京都の守備のためか、直義を守るためか? |
11/15 | 足利直義、鎌倉到着 ※関東は上杉憲顕の勢力圏内。 ※鎌倉公方足利基氏(尊氏の実子、直義の養子)は直義を温かく迎える(当時12歳) |
11/16 | 伊達景宗(尊氏方)、中賀野掃部助(直義方)を攻撃@駿河 ※すでに前哨戦が開始。 ※駿河国府中に攻め込まれ、中賀野は久能山に撤退。 |
11/22 | 奥州にて陸奥国広瀬川の戦い ※直義方の奥州探題・吉良貞家が、北畠顕信(南朝・宇津峰宮・鎮守府将軍)の軍に大敗。 ※吉良貞家は本拠の多賀城を放棄した。 ※正平一統により尊氏軍と南朝軍が合同で直義方と戦った。 ※ほどなくして吉良貞家は尊氏に帰参。 |
11/26 | 尊氏軍、遠江国掛川まで進出 |
11/29 | 尊氏軍、駿河国薩埵山に到達。 ※駿河国守護今川範国、及びその息子の了俊も尊氏方に加わる。 直義が京都に攻め上がるとの情報が入り、義詮、再び東国に出陣しようとする |
ううむ。。。
過去のことは水に流して、正式に尊氏さまの味方につこう。
過去のことは水に流して、正式に尊氏さまの味方につこう。
私は南朝にも顔が効きますゆえ、南朝との橋渡しは私がします。
則祐、ありがとう!
南朝との交渉は父ではなく、私を通してくれ。
え、なんでなんで?
仲悪いの??
則祐、どうも尊氏様は直義様とまた組もうとしているみたいなんだ。
でも、義詮様は直義様が憎くてしょうがないのよ。
舅の道誉さまのお頼みとあらば、そう致します。
忠雲僧正にも伝えておきますな。
義詮、、、
お前はまだ人を見る目が甘い。。。
南朝が我々を裏切らない保証があるのか?
その証拠に「幕府の保全」を条項に入れていないだろ??
奴ら、武力行使あり得るぞ。決して京都を離れるでない。
なーに、大丈夫ですよ。向こうも戦はこりごりでしょう。
それより私は直義おじさまを討ちに関東に下ります!
。。。わかってないなー。
だから、それをしたら、京都がガラ空きになって、南朝が京都に攻め込んで来るって言ってんだよー。
そんな!
講和してすぐですよ!
そんなことあるわけないでしょう!!
うーん、言っても無駄か…。
こちら関東です。
直義おじさん、久しぶりー!!
元気ー??
おー、基氏、大きくなったなー。
私もいろいろあって、以前のように元気ではなくてな、
もしかしたら病気かも知れん。
うん!じゃあ僕がついてる!
でもお酒は程々にしてね!
ありがとう、、
それとな、、、
それとな、、、
お前の実のお父さん、
つまり尊氏兄さんに追われているんだ、、、
えええ、、、
あんなに仲良かったのに…
あんなに仲良かったのに…
尊氏が何を考えてるのかわからんが、
この混乱に乗じてついに北朝を潰してやったわい。
この混乱に乗じてついに北朝を潰してやったわい。
かっかっかっ。
The Shogunate and the Southern Court were combined.