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☞【なぜ米国は対日石油禁輸したか、なぜ日本は対ソ開戦しなかったか】「漸進的南進方針と独ソ戦の衝撃」(『昭和陸軍の軌跡』§8.)

こんにちは。

今回ご紹介しますのは、「なぜアメリカは対日石油禁輸したのか、そしてなぜ日本は対ソ開戦をしなかったのか」についてです。

多少乱暴ですが、一言で申しますと、アメリカが対日強硬策に踏み切った理由は、

「日本の対ソ開戦」を阻止するため

でした。

ソ連が日独に挟撃されて崩壊すると、おそらく次はイギリスも崩壊し、今度は日独にアメリカが挟まれる形になり、アメリカの国際的立場が低くなるという危険性からです。

そしてこれにはアメリカ内部に潜り込んだソ連・コミンテルンのスパイたちの暗躍もありました。

一方、「なぜ日本が対ソ開戦しなかったのか」も乱暴ながら一言で述べますと、

「英米との対決が先」

と考えたためです。

南部仏印を英米が抑えると、日本の国防計画が根本から崩れるため、日本は南部仏印進駐を急ぎました。

その背景には武藤が、これにより対ソ戦に逸る田中新一を抑えることができるとも考えていたこともあります。

もっとも日独伊三国同盟も日独が連動して動くというような強い軍事同盟ではなかったことも、対ソ開戦しなかった理由の1つです。

以下、「昭和陸軍の軌跡」第8章:「漸進的南進方針と独ソ戦の衝撃」をベースにさせて頂きました。

第8章:漸進的南進方針と独ソ戦の衝撃ー田中新一参謀本部作戦部長の就任

1.英米可分から英米不可分へ

★1940年10月10日、田中新一は「シナ事変処理要綱」を起案。

※シナ事変の単独解決の望みは絶たれたので、大東亜新秩序を建設することで二次的に解決しようと考えた。これが11月13日の御前会議で正式決定。南方政策としては仏印・タイを第1段階とした。

★1941年2月、陸軍省は「対南方施策要綱」作成。海軍に提示。

※これは英米可分論にたっていて、戦争相手を英蘭に限定するとしていた。しかし、海軍は「英米不可分」として同意せず。最終的に6月6日に「英米不可分論」で正式決定。南方武力行使は「自存自衛」の場合のみと限定。南方英領への攻撃はただちに対米戦争を意味すると判断。

※「自存自衛」とは、対日禁輸措置を受けるか、国防上容認できない軍事的対日包囲態勢が敷かれた時に限る、と。

(すでにアメリカは屑鉄と航空用ガソリンは対日禁輸されていた。)

※アメリカにとって、イギリスが負けるとドイツが欧州を制覇することになりドイツがアメリカを脅かすとしてイギリスを支援。

★1941年4月18日、野村吉三郎駐米大使から「日米諒解案」が打電。

※「対南方施策要綱」陸海軍案作成の翌日、日ソ中立条約から5日後、独ソ開戦の2か月前。近衛も武藤も非常に歓迎。これで救われた、と武藤も考えていた。一方、留守にしていた松岡は自分が感知しないところでまとめられたことに不快感を示し、5月12日、独自の修正案を作成し提示。

★1941年6月12日、アメリカから修正案。

※東亜新秩序の否定などが盛り込まれており、日米諒解案とのギャップに驚く。

英米可分論は「不可分論」で落ち着く。
(だからといって、対英戦を辞めるというわけではない。)

「日米諒解案」は野村駐米大使の判断で第1報でハル四原則などが伝えられなかった。松岡の修正案後、アメリカは硬化。「東亜新秩序の否定」などより厳しいものになっていた。

2.独ソ戦と武藤・田中の対立

★1941年6月22日、独ソ戦開始。

※その2週間前にドイツ大使大島浩から開戦は確実と知らされていた。

<独ソ戦へのそれぞれの対応>

田中新一(陸軍中央) 武藤章(軍務局) 海軍 松岡洋右(外務省)
対ソ戦へ意欲 静観 対英米戦も辞さず 即座にソ連攻撃

※近衛は松岡を排除する形で第3次近衛内閣を組織。松岡は独自の政治勢力をもっておらず、以後、政治的影響力は減衰。

対ソ戦準備が認められて、田中らは関東軍特種演習(関特演)

★1941年8月9日、対ソ戦実行断念。

7月28日の南部仏印進駐に対して、8月1日、アメリカが石油の対日全面禁輸を発動したため。対米対応が第一に

※南部仏印進駐により、英領シンガポールも射程圏内、オランダ領インドネシアにもにらみ。
(※南部仏印進駐は日仏間の協定成立により武力行使を伴わない平和進駐となった)

★1941年7月25日、在米日本資産の凍結(26日に在英、27日に在蘭)

※横浜正金銀行の戦略物資購入資金が凍結。

★1940年9月27日、日独伊三国同盟

独ソ戦開始後、「ただちに対ソ開始」を目論む田中新一の考えのもと、大規模な軍事演習が行われた。

しかし、南部仏印進駐に対するアメリカの経済制裁が決定すると、対ソ戦は断念された。(8月)

1941年9月、ついに三国同盟締結

3.南部仏印進駐とアメリカの対抗措置

★武藤の発言から南部仏印進駐は田中らが「しゃにむにソ連にとびかかりそうなのでそれを防ぐのが狙い」と話していた。しかし、実際は、田中は仏印との軍事衝突は想定内と考えており、対ソ戦を阻止する力にはなっていなかった。力になったのはアメリカの南部仏印進駐による対日石油全面禁輸

もし米英が南部仏印を確保すれば日本の国防計画は南から崩れていくので、南は「必然」と考えていた。

(東南アジアのゴム、錫など米英が必要としているものもあったため先手をうつ可能性は十分考えられた。)

★アメリカにも対日強硬派と知日派に分かれていて、強硬にいけば日本は折れると考える側と、そんなことをしたら開戦になるという側で論争が起きていた。米国は欧州第一主義をとっていたが、強硬意見が採用された。これはもしソ連がドイツに敗れ、イギリスもドイツに敗れたらアメリカは欧州での足掛かりを失うからである。そのため、関特演に強い危機感を抱いていた。

(つまりはソ連の崩壊を止めることが対日開戦のリスクより重視された。

近年の研究成果により、対日強硬派はソ連のスパイであったりもすることが判明。このあたりのことは江崎先生の著作に詳しい。【コチラ

南部仏印進駐は、日本側にとっても対ソ開戦を避けるためのものであったし、南部仏印進駐に対するアメリカの対日石油全面禁輸も日本の対ソ開戦を避けるためのものであった。(対ソ戦による、イギリス崩壊を避けるため)

★以後、対米戦回避をめざす武藤と、対米開戦を主張する田中で激しく衝突。

一般に日米戦争は中国市場の争奪をめぐる戦争と思われがちであるが、実際はイギリスとその植民地の帰趨をめぐってはじまったのだ

(1930年代後半までの海軍力は日本がアメリカを上回っており、アメリカとしても日本との衝突は避けたかった。)

ドイツのイギリス攻撃が本格化すると日本を中国にくぎ付けにするために重慶政府の援助を行った

日本が中国を制覇すれば、東南アジアの英領はすべて日本のものになる可能性がある。

アメリカが日独伊三国同盟の締結に神経をとがらせたのは、そのような背景があった。

南部仏印進駐は、対ソ開戦派の田中一派の行動を抑制する目的があった。

また、南部仏印進駐に対するアメリカの対日石油禁輸は、日本をソ連に向かわせないという目的があった。

(これには米国内に潜り込んだコミンテルンのスパイの暗躍が知られる。)

もし日独の同盟がしっかりしたもので、独ソ開戦同時に日本も対ソ開戦していたら(中国を捨ててでも?)、どうなったでしょうかね。

そう考えると、本当に「日中戦争」が余計だったと思いますし、命を賭して戦うと決めたら、相手を絞らないとダメ、ということがよくわかりました。

もっとも、日独で東西から攻めてもソ連が敗れたかどうかはわかりません。

↓非常に興味深い記事を見つけました。NewSphere様の記事。↓

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