~只今、全面改訂中~

こんにちは。

今回ご紹介しますのは、「日中戦争の拡大」についてです。

北京周辺にとどまっていた紛争(【コチラ】)が上海に飛び火し、さらに拡大を招きます。

「満州建国の真実」第9章「日支不戦を唱えた石原莞爾の挫折」を参考にさせて頂きました。

【年表】日中戦争第2R(1937.8.9~9.27)

1937年日本中国
8.9川越茂(駐華大使)と高宗武(国民政府外交部アジア局長)の公式和平会談実現「大山事件」発生@上海(※1)
8.10日本海軍、巡洋艦4隻、駆逐艦16隻、海軍陸戦隊2500人を上海へ派兵。

陸軍にも派兵要請。石原が反対。(※2)
8.13第1次近衛内閣、上海に2個師団派兵決定「第2次上海事変」(※3)
支那軍5万が日本海軍陸戦隊本部を攻撃
8.14「自衛抗戦表明」
支那空軍、海軍陸戦隊本部および日本艦隊爆撃
8.15日本海軍航空隊、報復爆撃

近衛内閣暴支膺懲(ぼうしようちょう)」声明(※4)
8.17「北支事変」から「支那事変」と呼称変更
8.18昭和天皇、積極的短期解決を唱導(※5)
8.23上海派遣軍2個師団の上陸苦戦
9.10上海派遣軍、陸軍中央に増援要請

石原莞爾、海軍軍令部第一部長近藤信竹に不拡大案を示すも拒否される
9.11陸軍、三個師団増派

石原莞爾、作戦部長辞任申し出(※6)
9.27石原莞爾、参謀本部転出
関東軍参謀副長へ

(※1)大山事件

和平会談同日に「大山事件」勃発。

これは海軍陸戦隊中隊長・大山勇夫中尉および斉藤要蔵一等水兵が自動車で移動中に、支那保安隊の乱射を受けて射殺される事件のことです。

事件のあった上海には日本人が3万人ほどいましたが、それを守る日本軍はわずか2500人。

そのうえ、中隊長まで殺害される状況でしたので、日本海軍は危険を感じて増派をします。

さらに陸軍にも派兵を要請します。

(※2)米内光政海相 vs 石原莞爾

米内海相が杉山陸相に陸軍派兵を依頼しましたが、陸軍参謀本部作戦部長・石原莞爾は反対します。

(ちなみに石原莞爾は満州事変から満州にいるイメージがあるかも知れませんが、この時は参謀本部ですので東京にいます。実質的にトップでした。)

反対理由は、

・上海へ派兵すれば全面戦争になる
・支那軍はドイツ軍事顧問団の指導、装備を得て強化されている
・日本陸軍は上海・華中での作戦を計画したことがない

これに対して、武藤章作戦課長は、

・上海の在留邦人を支那兵の蹂躙に委ねるなど言語道断

としますが、石原は、

・上海の日本人の身を案じるなら全員引き揚げれば良い。損害を補償してやった方が戦争するよりよほど良い

と主張。

しかし、最終的に石原の意見は押し切られます

(※本書では、外務省は「海外紛争地からの在留邦人引き揚げマニュアル」を作成していなかったから、とされておりますが、wikipediaによりますと、紆余曲折を経て8月19日までに2万人が日本へ引き揚げております。)

(※ちなみに上海と日本の関係は満州事変期の「第1次上海事変」より継続して険悪で、小さな紛争はいくつもありました。)

(※3)第2次上海事変へ

さて、ドイツ製の装備をした支那兵による攻撃開始により、名古屋第3師団、善通寺第11師団の派兵が決定。

日本海軍航空隊も報復攻撃を行い、「第2次上海事変」と呼ばれる紛争に拡大します。

この戦いは「第2次日独戦争」とも呼ばれているそうです。

(※「第1次」は第1次世界大戦)

ドイツは中国を支援し、毒ガスまでも持ち込んでいたそうです。

上海に派遣された2個師団は苦戦を強いられ、陸軍中央に増援を要請しております。

(※蒋介石の目論見としては上海でこのような紛争が起きれば国際社会は中国に味方すると考えていました。)

中国が金を払う限り支援、支援。
日本に味方する中国人も処罰せよ!
米内は「予算がない」と言う賀屋蔵相を怒鳴りつける。中国の南方は海軍の縄張りという意識があったか?

(※4)暴支膺懲声明

1937年7月の通州事件(@北京市通州区)を含む数々の支那軍による常軌を逸した残虐行為に、第1次近衛内閣は「暴支膺懲声明」を発表します。

「支那の不法暴虐は至らざるなく、在留邦人の生命財産が危殆に陥るに及び、隠忍の限度に達す。支那軍の暴戻を膺懲(ようちょう:こらしめる)ため、断乎たる措置をとる」

(※5)昭和天皇

昭和天皇は上海に事件が飛び火した段階で拡大防止は困難と悟っておられました。

重点的に兵を集め、支那軍に大打撃を加えて、和平に導き、速やかに時局を収拾する方針が良いのではないか、という「積極的短期解決」を唱導され、

上海に派兵をためらう石原を非難します。

(※どうすることが正しかったのかは定かではありませんが・・・)

(※6)石原莞爾、辞任

石原莞爾は、海軍軍令部第一部長・近藤信竹を訪れ、

「上海に兵力をつぎ込んでも、戦況打開は困難。」

と和平に協力するように求めましたが、拒否されます。

そして、9月11日、陸軍は金沢第9師団、東京第101師団、高田第13師団の3個師団増派。

孤立無援を認識したのか、不拡大が困難と諦めたのか、石原は辞任を決意しました

まとめ

★『大山事件』から『第2次上海事変』が勃発。戦火は北支にとどまらず、華中にも拡大。

★石原莞爾はなおも不拡大を模索しますが、叶わず、辞任に至りました。

つづいて、上海・南京陥落と「トラウトマン工作」。↓