~「もう一つ上の日本史」出版に伴い、勉強方法も変える必要が出たので、全面改訂突入します~

昭和史講義
『§2.普通選挙法成立と大衆デモクラシーの開始』(小山俊樹先生)

【これまでの教科書的な理解】

『普通選挙法…第2次護憲運動で清浦内閣打倒、加藤高明時代の1925年に成立。』

【まとめ】

普通選挙法実施により国民の政治参加は広まったが、同時に政党への失望にもつながった。政党への失望は軍部の台頭を認める下地にもなった

【関連年表】

1913 第1次護憲運動。桂内閣が打倒され、山本権兵衛内閣になる。(※1)
1914 シーメンス事件で第1次山本権兵衛内閣退陣。大隈内閣へ。第1次世界大戦勃発。(※2)
1923 虎の門事件の責任をとり、第2次山本権兵衛内閣辞職。清浦奎吾が首相に就任。(※3)
1924 加藤高明を首相とする護憲三派内閣が成立。(※4)
1925 普通選挙法を制定。以後、8年間、政党が内閣を組織する「政党政治」時代を迎える。(※5)

ソ連と国交回復、治安維持法。(※6)
1926 加藤高明死去、若槻内閣誕生。(※7)
1927 政権混乱、「憲政の常道」に基づき田中義一が首相に。(※8)
1928 初の普通選挙実施。(※9)

1議席差で政友会が上回るも、得票数は民政党が上回る。無産政党から8人の当選者。

(※1)この時は立憲国民党・犬養毅、立憲政友会・尾崎行雄が中心。尾崎行雄の「弾劾演説」は是非全文読まれたし。【コチラで】。

尾崎行雄は政党をコロコロ渡っているし、犬養の政党もコロコロ変わっているので政党名は覚えなくてもよいとは思うのだが、

<国民(立憲国民党)犬かい、政治の(立憲政友会)おうざ

というゴロがある。

複雑な政党名はこれで覚えた:コチラ

(※2)山本権兵衛が就任し、現役武官制の変更(引退後でもなれることに。これによりストライキの心配軽減)、官僚制度の変更など行うも海軍拡張計画の反対に遭い、さらにシーメンス事件がおきて1914年、退陣。

元老は大隈重信を指名し、大隈は期待に応え総選挙でも勝利。2個師団増設、海軍拡張案も成立させた。

★大隈は立憲同志会という小さな党しかもっておらず、御飾り。国防と財政という問題において増税しかないという時期において窮地に陥っていたのが解決されたのが第1次世界大戦勃発。軍拡案は政友会、国民党に反対をくらい総選挙となったがここで圧勝したため、2個師団、海軍拡張案を成立させることに。他国の戦争で財政難を乗り切ってしまったことが、軍部の増長にもつながる。元老と対立した大隈の後は寺内正毅(長州閥)内閣へ。

この時代については「シベリア出兵」でも

大隈(17代)の後は、寺内(18代)→原(19代)→高橋是清(20代)→加藤友三郎(21代)で、もう1回、山本に戻る。

やはり、コチラのゴロ合わせ。1年経っても覚えてる!

(※3)加藤友三郎(21代)→山本権兵衛(22代)→清浦奎吾(23代)である。加藤高明は19「25」年の普通選挙法が有名であるが、内閣を組織したのは1924年だし、第24代内閣総理大臣だし、「24」にもゆかりのある人物。

(※4)貴族院最大会派の「研究会」に協力を仰ぎ、以前より貴族院と親しかった衆議院最大多数党の政友会にも提携を呼びかけた。しかし、政友会(高橋是清)はこれを拒否。一方、床次(とこなみ)竹次郎らはこれに反対して、「政友本党」を結成。清浦を応援することとなった

↓↓

その結果、

<(清浦内閣&)政友本党(床次)
       vs
政友会(高橋)憲政会(加藤)革新倶楽部(犬養)

に。

衆議院解散して行われた総選挙で、

↓↓

<政友本党114>
   vs
<政友会101・憲政会154・革新倶楽部29>

となり、加藤連立内閣が誕生した。

第2次護憲運動はこれまで国民の政治的欲求に答えられていないと評価が低かったが、近年の研究では特権階級打破の呼びかけに都市の民衆や農村の青年層が呼応し、運動を下支えしていたとして、見直されつつある。

(※5)男子のみの参政権でも「普通選挙」と呼ぶのが一般的であるのに注意。身分、納税額の区別なく選挙を行うことを普通選挙と言う。当時の有権者は20%。

(※6)ソ連との国交回復により日本における共産主義拡大が予想された。「国体の変革」と「私有財産の否認」を掲げる結社を取り締まるために治安維持法が制定されたので、ソ連との国交回復と治安維持法はセットで覚えよう

(※7)普通選挙法成立で高橋是清は引退。田中義一が後を継ぐ。田中は次期政権を目指して加藤内閣には入らず、革新倶楽部を吸収合併して政友本党とも提携して多数派工作。閣内不一致による総辞職を導いたが、西園寺による首相推薦は加藤高明で変わらずであった。憲政会が単独与党に。しかし、加藤首相が議会中に急逝したため、若槻禮次郎蔵相が総裁を継ぎ、首相に任命された。

※加藤高明(24代)→若槻禮次郎(25代)→田中義一(26代)

(※8)「憲政の常道」とは1つの政党で政策が行き詰って総辞職となった、野党第一党の総裁が内閣を組織すると言うもの。この時、片岡蔵相の失言もあったにせよ、それだけではなく双方が足を引っ張り合って暴露合戦をしていた。最終的には台湾銀行救出が枢密院に断られたことが大きかったか。

<二大政党の重視点>

憲政会→民政党 立憲政友会
緊縮財政、重要産業統制法 積極財政、産業振興、税制改革
社会政策(労働争議調停法など) 地方分権
政治的権利の拡大 治安維持法強化

そのうえ、二大政党が1930年代に求心力を失ったのは党内の派閥争いもある。

(※9)選挙を運営する内務省官僚に与党の意向が強く反映され、野党の選挙違反を厳しく取り締まる。結果的には政友会164、民政党1701人(!)が選挙干渉で違反とみなされた。田中内閣不人気もあり、政友会217議席に対して、民政党は216議席。得票数では民政党が上回り、無産政党からは8人の当選者。その後も2回行われたが、不正の根絶は達成できなかった。公的な人物や、団体組織関係者が汚職、買収。普通選挙制度で国民の政治参加は拡大したが、政党への期待と失望は恐慌、社会不安の増大とともに軍部の台頭を準備する一因となっていく。

<憲政会(民政党)>若槻禮次郎・浜口雄幸ら…216
vs
<政友会(+政友本党+革新倶楽部)>田中義一ら…217

★試験的には普通選挙法「制定」が1925年、加藤高明内閣で、普通選挙法「実施」が1928年の田中義一内閣、というのがちょっとわかりにくいポイント。

加藤高明首相。写真はwikipediaより。対華21か条の時の外務大臣であったことから西園寺に嫌われてしまったため、首相就任は原敬より遅れた。のち関係修復?【コチラも

★憲政史家・倉山満先生は小山俊樹先生を「単なる若者」としているが…(倉山満「学校では教えてくれない満州事変」

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