~只今、全面改訂中~

☞【序章:ロシア革命勃発の余波(1917-18年)】『シベリア出兵』(麻田雅文、2016年)

こんにちは。

今回ご紹介しますのは、「シベリア出兵」(麻田雅文、2016年)です。

極めて読みやすく、わかりやすく、おもしろかったです。

本気で「精読」するに値する書籍だと思いました。

さて、現在、ソ連崩壊に伴い、ソ連関係の資料の公開が次々と進んでいるそうです。

それによって、新たな近代史が生まれると思います。

そう考えますと、この領域は大注目です。

以下、読書メモです。

目次

<はじめに>

★シベリア出兵は1918年から。日本軍は1922年に撤兵するが、1925年の樺太北部撤退までをシベリア出兵と定義する。

★日本ではシベリア抑留に比べるとあまり知られていない。一方、ロシアではシベリア出兵を忘れがたき屈辱と捉えている。

<序章:ロシア革命勃発の余波ー1917年~1918年>

【1.英仏からの干渉の誘い】

第1次世界大戦の勃発

シベリア出兵は第1次世界大戦の延長にある。

※オーストリアとセルビアの間で生じたサラエボ事件に対してドイツが先手をとってロシアに宣戦布告。ロシアは西部戦線のフランスの強い要求に答える形で不十分な態勢のままドイツ領へ攻め込むも8月下旬のタンネンブルクの戦いで大敗。

日本の参戦と日露協約

★大隈内閣で外相を務めていた加藤高明はドイツを敵として参戦することを主張。

※イギリスのグレイ外相はドイツの仮装巡洋艦の捜索と撃破のための協力を求めたが、参戦までは望んでいなかった。(♨都合良い!)日本には参戦を思いとどまらせようとしたが、加藤外相は耳を貸さずに参戦でまとめあげ、8月23日、ドイツに宣戦布告。日本軍は10月には赤道以北のドイツ領南洋諸島を、11月には中国の青島を占領。巡洋艦と駆逐艦は地中海に派遣するものの、事実上、1914年末には終わっていた。【コチラも】

日本とロシアは共に連合国としてかつてないほど親密に。

ロシアが戦線離脱して単独講和を結ばないようにするために日本は大量の武器を供与。1916年7月には第4回日露協約が結ばれた。この第4回日露協約の内容はこれまでと異なり、当時公表されていなかった秘密条約として、日露両国に敵意を持つ第三国による中国支配を防ぐために、戦争となれば互いに援助することが約束された。第三国とはアメリカという説があるが、あえてなのか明示されていない

(♨この「武器代」がロシア革命で踏み倒されることになるとは思いもしなかったであろう。 )

ロシア帝国の崩壊

ロシア民衆は思わしくない戦況と食糧不足で不満が最高潮に達していた

※1917年3月8日の国際婦人デーにペトログラードの女性たちが開始したデモは市全体に波及。3月12日にペトログラードでソヴィエト(労働者と兵士の代表を集めた評議会)が誕生し、15日には臨時政府が組織された。

ニコライ2世は退位

※病弱な皇太子のことを考え弟に帝位を譲る。弟ミハイルは周囲に促され即位せず、臨時政府に服するよう国民に呼びかける。こうしてわずか1週間で300年続いたロマノフ王朝は幕を閉じた。

(のち、1918年6月にミハイル、7月にニコライおよびその家族は処刑。)

新たに発足した新政府(臨時政府は連合国側に立って大戦を戦い抜くことを宣言

(レーニンはまだ政権をとっていません。【コチラも】

※臨時政府をアメリカがまず承認、英仏伊も3月に承認。日本も3月には決定、4月に通知。

ロシア十月革命

しかし、臨時政府が打ち倒された

※打ち倒したのはポリシェヴィキと名乗るレーニンら共産主義者。二月革命をスイスで知ったレーニンはドイツの思惑もあり、ドイツ列車に乗りペトログラードへ到着していた。

10年ぶりの帰還。

★民衆は「パンと土地と平和」を求めていた。

※それを与えられない臨時政府に代わり、徐々に支持者を得たレーニンは11月7日(ロシア暦10月25日)から翌朝までに冬宮を占領。世界初の共産主義国家が誕生した。

レーニンは領土併合なし、賠償金なしの即時講和を提案するも各国は無視

♨そりゃそうだろう!

(追記:レーニン=「ドイツからの使者」と考えればロシアとドイツの停戦も合点がいく)

ドイツとソヴィエト政府の単独講和

★革命で混乱するロシアをドイツ軍が襲う。

※ドイツ軍優位の状態でレーニンは停戦交渉にトロツキーを派遣。

1918年3月3日、「ブレスト=リトフスク条約」が結ばれる。

※ウクライナの独立と巨額の賠償金が提示されたが、レーニンの強い希望で受諾が決定。

♨これが1つの世界史的ターニングポイント。トロツキー一世一代の仕事、か。

英仏のロシア干渉の動機

東部戦線の消滅は西部戦線にとっては脅威

※ロシアに支援した軍需物資がソビエト経由でドイツに渡るのは何としても阻止しなくてはならなかった。さっそく3月中にイギリスは派兵。

★アメリカは当時、孤立主義であったが、1917年2月にドイツが中立国の商船にも潜水艦攻撃を再開したこと、ドイツがメキシコと結んでアメリカに攻め込ませようとしている情報を得て(ツィンメルマン電報事件)、1917年4月6日、ドイツへ宣戦布告していた。

日本とアメリカへの出兵の誘い

★1917年12月、英仏は日米へシベリア派兵依頼をするが、日米とも乗らず。

アメリカの出兵拒否

★民主的ではない国家に対する干渉はウィルソンの行いたいことであったが、ウィルソンは1914年にメキシコ政権に内政干渉して失敗した苦い経験がある。また、すべてのロシア領土からの撤退を1918年1月の「14カ条の平和条約」で呼びかけていた。

★1918年3月7日、アメリカ政府「今、ロシアに干渉するのは得策か疑わしい」との覚書が日本政府に送られる。

【2.派兵か、自重かー揺れる政界と世論】

山縣有朋の反対

元老山縣有朋は撤兵案が定まらないとして強く反対

※ロシア革命は日本にとって対岸の火事ではない。南樺太、朝鮮、南満州とは陸続き。山縣にとっての理想は中国、アメリカ、イギリスとの共同出兵。

♨結果的に山縣の考えは正しかった。

寺内首相も消極的

★ロシアとドイツの連合軍が東に進攻した場合は戦う必要があるが現在では大義名分がないと反対。

※田健治郎逓信大臣は日本がロシア東部を占領すれば良い、という意見を出したが山縣は相手にせず。

本野外相の出兵論

★武力貢献してこそ英仏と並び立てる、として積極出兵を唱える。

※これには原敬が真っ向から反対して却下。

それでも出兵を求める本野外相

★あきらめきれない本野は再度意見書。西部戦線での情勢が変わり、陸海軍は支持にまわる。

※1918年4月の閣議。西部戦線におけるドイツ優勢を聞き、アメリカも参戦を考え始めていた。

外相辞任の裏に元老あり

★結局、出兵の意見は通らず、本野は4月12日に辞任。(9月17日に病死)。

※本野の意見は「帝国の繁栄」というあまりにも自己中心的なものであった。表向きは辞任だが、辞任「させた」のであろう。

(♨元老というシステムはしっかり働いていたと考える。)

「出兵九博士」の賛成論

★国内も出兵をめぐって賛否両論であった。

※衆議院議員の戸水寛人(とみずひろんど)は日露戦争の時も出てきたが、この時も強硬論。

与謝野晶子の予言

★「積極的自衛策」に踊らされてはいけないと与謝野晶子は説く。

※さらに、その後、国が自滅する可能性までも指摘。

反対派の論客たち

★しかし、出兵を控えた1918年夏にマスメディアは締め上げとなる。

※「東方時論」の中野正剛、「東洋経済新報」の石橋湛山、「中央公論」の吉野作造が反対派の論陣を張る。石橋はロシア革命を明治維新にたとえて批判。

後藤新平外相の出兵支持

★本野の後任は後藤新平。1906年満鉄の初代総裁でもあり、ロシア帝国の上流階級とは交流が深い。

本野と同じくロシア帝国に郷愁があるため、ロシア革命には否定的。連合国の出兵をひそかに待つ「穏健派」がいることを理由に出兵をアピール。ただ、アメリカの決定を待つ方針。

ソヴィエト政府による日米出兵阻止

★モスクワがとった対策の1つはアメリカと結び、日本の行動を抑制しようとしたこと。

※トロツキーによる。米英仏からの援助が確保できればドイツとの講和条約を反故にするとした。レーニンも日米の仲を裂くのが基本方針。

★もう1つは、日本に好餌をちらつかせること。

6月14日、日本が出兵しないことを宣言してくれればロシアが日本に譲渡を約束した満蒙の利権を譲ることはもちろん、サハリン州や沿海州でも利権を提供するなどと表明。しかし、後藤新平は取引には応じず。

【3.陸海軍の現地工作】

海軍とシベリア出兵

こうした論争や外交交渉の背後ですでにロシアへの干渉は始まっていた

※日本海軍は要請があれば在ウラジオストク邦人の保護のために出動する義務がある。しかし、この時、すでにアメリカ、イギリスは動いていた。イギリスの派遣はなかなか腰をあげない日本を揺さぶるためのものとも言われているが、日本は他国に沿海州を制圧されると脅威になるので大慌てでウラジオストク入港準備に入る。

ウラジオストクへの軍艦派兵

★中ロ国境のブラゴヴェシチェンスクにも革命が波及しており、密命を受けた石光真清がコサックと日本人義勇兵による蜂起を計画。

※コサックはロシア帝国への忠誠心に篤く、当初、反革命的色彩が強かった。3月7日、蜂起はいったん成功。革命政権のムーヒンは捕らえられた際に「シベリアはロシアの植民地です。反革命に一時は屈することがあっても本国が安泰である限り必ずいつかロシアの手に戻るでしょう」と言う。

★1918年1月12日、戦艦「石見」がウラジオストク入港。

※イギリスより2日早い。一度マニラに引き上げていたアメリカ船も3月1日に再入港。これらはシベリア出兵を告げるものではないが、軍艦が他国の港に無通告で入港すること自体が主権の侵害。ブレストリトフスクで交渉中のトロツキーも警戒。

海軍陸戦隊の上陸

★4月5日、陸戦隊は上陸。この暴走に寺内首相は激怒。

※3月、加藤司令官は現地で「武力威圧のもとに温和派を幇助」することを東京に進言するが政府や軍部はアメリカの出方を懸念して慎重。そんな折、4月4日、日本人が経営する貿易会社が何者かに襲われ日本人3名が死傷される事件が発生。これに乗じて加藤司令官は独断上陸を決定。翌日、陸戦隊(533人)が上陸し市内を警備。午後にはイギリス(50人)も上陸。

レーニン「日本軍はきっと攻撃してくるだろう。これは避けられない。おそらく例外なくすべての同盟国が彼らを支援するだろう。」

参謀本部の出兵論

★出兵に際してどの組織よりも積極的だったのは陸軍参謀本部。

※陸軍の中枢は陸軍省と参謀本部からなる。陸軍省は軍政部門でトップは陸相、参謀本部は軍令部門で、天皇直属。参謀総長がトップ。

★参謀総長は上原勇作、参謀次長は田中義一陸軍中将。

※上原は薩摩閥、田中は長州閥であったが、二人三脚で進める。ほかにもロシア担当の宇垣一成陸軍少将も派兵主張。10月革命が起こったのちに出兵計画が具体化するも、年が明けると反革命派政権樹立、必要なら「シベリア独立」達成という方向に舵を切る。

出兵の黒幕としての田中義一

田中はシベリア東部を掌握、占領後は各地で親日政府樹立を目指す計画をまとめる(3月)。

※田中は出兵の利点として、

①ロシア人の敵対感情でドイツやオーストリアの東進を阻止できる、

②中国を日本の味方にして大戦後の中国をリード、

③連合国への信義を果たす、

④豊かなシベリアの天然資源を手にいれる、

と一石四鳥に考えていた。

日本と中国の軍事協定

★田中は欧米が注視するウラジオストクではなく中国と軍事協定を結び北満州から出兵することを提案。

日中接近の背景には中国政府が1917年8月14日にドイツに宣戦布告して日中が同じ陣営だったことがある。さらに寺内首相の私設秘書・西原亀三による多額の資金供与(西原借款)も有利に働く。

★1918年5月16日、日華陸軍共同防敵軍事協定が結ばれる。

※3日後に海軍も。これにより中国軍もウラジオストクに派兵。日本と中国政府は作戦領域を分担。ザバイカル州とアムール州では日本軍が指揮し、中部モンゴルからシベリア東部は中国側が指揮することを1918年9月6日に決定。こうして中国と手を結んだことでたとえアメリカが派兵地域や兵力を限定しても日本側はザバイカル州への出兵には別の大義名分ができた。

特務機関の誕生

★現地でも大規模な出兵のために「特務機関」が設置された。

※すでに1914年には鉱山技師に化けた陸軍の軍人がザバイカル州に送られ、情報を参謀本部に送っていた(早っ!)。1917年2月からはハルビンで黒沢準陸軍中佐が各地の諜報員をまとめていた。彼が初代機関長とみなされる。

ちなみに海軍では米内光政がその役を担っていた(ただし陸軍に比して小規模)。

参謀本部による現地工作

参謀本部は将来の親日政権で擁立するめぼしい人材を発掘しようとする

※中島正武参謀本部第二部長はまずハルビンへ。ハルビンは満州中心部、中東鉄道沿いにあり、中国領内にあるもののロシア人によって築かれた街である。中東鉄道の現地責任者はドミートリー・ホルヴァート陸軍少将(1859~1937)。ロシア帝国各地で鉄道敷設を指揮し、1903年~ハルビンに赴任し、彼の統治下のもとでハルビンは繁栄。

【ドミートリー・ホルヴァート】(1859~1937)

貴族出身。工兵の将校として鉄道の敷設に長じていた。1903年からハルビンで中東鉄道の経営に携わり、2018年に反革命政権の首班となる。

中国軍によるハルビン占領

★レーニンは1917年12月1日にハルビンのソヴィエトに権力奪取を命じる。

※ハルビンのポリシェヴィキを束ねていたのは27歳のマルテミヤン・リューチン。ソヴィエトの食糧不足は解決されておらず、穀倉地帯の満州が目をつけられた。リューチンはホルヴァートと会見し譲歩を引き出すも各国の駐ハルビン領事団が反対。

★中国が領事団の要請に応じる形で派兵。

※12月26日、リューチンらを拘束、シベリア追放。中島少将は極東真に人物なし。忍耐してホルヴァートを支持するしかない」と報告。

♨この言葉が全てを物語ってる?もっとも遅れて英雄(?)現れるが。

ブラゴヴェシチェンスクで内戦を誘因

★事実、3月12日にはアムール河のロシア艦隊を味方に付けた革命派の反撃で反革命軍は撤退。

アタマン・セミョーノフと日本

★他にもザバイカル州のコサック頭領・セミョーノフも支援も頓挫。

※10月革命後、彼は反革命政権樹立を目指す。しかし、敗退。

★1918年7月、結局ホルヴァートが日本の参謀本部(特に田中義一)、ロシアの反革命派に担がれて「全ロシア臨時政府」を沿海州で発足。

※もっとも沿海州の中心部ウラジオストクはチェコ軍に占領されている状況。

【グリゴリー・セミョーノフ】(1890~1946)

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ザバイカルのコサック出身。ロシア革命後に私軍を組織してザバイカル州を日本軍と共に占領。1920年秋に極東共和国軍に敗れ、亡命した。

【年表】<1917年>

  • 3・15 ニコライ2世退位。臨時政府発足  (二月革命
  • 3・27 寺内内閣、臨時政府承認を閣議決定 
  • 4・6 アメリカ、ドイツに宣戦布告 
  • 6・6 臨時外交調査委員会が発足 
  • 11・7 十月革命。ソヴィエト政府が発足 
  • 12・3 フランス、日米連合軍のシベリア鉄道占領を提案するも日本拒否

【年表】<1918年1月~4月>

  • 1・8 ウィルソン米大統領、14カ条を発表 
  • 1・12 戦艦「石見」、ウラジオストクに入港 
  • 3・3 ブレスト=リトフスク条約。ドイツとソヴィエト政府が講和 
  • 3・21 ドイツ軍、西部戦線で大攻勢を開始 
  • 4・5 ウラジオストクに日英の陸戦隊が上陸 
  • 4・23 本野一郎に代わり後藤新平が外相に

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【追記】安彦先生が「シベリア出兵」を描く!

知らなかったけど、ガンダムの安彦良和先生が、最後の連載に「シベリア出兵」を選んだそうだ。 ↓↓

http://news.kodansha.co.jp/7714

さすが、目の付け所が違う。石ノ森章太郎先生にしてもそうだが、歴史に挑む姿勢に気骨を感じる。(2019/8/19記)

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