~「もう一つ上の日本史」出版に伴い、勉強方法も変える必要が出たので、全面改訂突入します~

☞【シベリア出兵ならコレ!】『シベリア出兵~近代日本の忘れられた7年戦争~』(麻田雅文、2016年、中公新書)[前編]

きわめて良著。著者の麻田雅文先生は今後要チェック

「シベリア抑留」は知っていても「シベリア出兵」は知らない日本人は多いと言う。一方、ロシア人は「シベリア出兵」の歴史をよく覚えている。

…シベリア出兵はもともとはロシア革命に対処すべく、第1次世界大戦の作戦の一環として英仏に誘われた。

当初は出兵に踏み切らなかったが、日米ともに「チェコ軍の救出」を名目に出兵。各国が撤兵しても日本はその領土的野心からなかなか撤兵せず、得るものは少なく、犠牲は多大となった。

また、その失敗分析がおろそかであったことが泥沼の日中戦争に足を踏み入れてシベリア出兵の二の舞を演じることとなった

♨第1次世界大戦はざっくり言うと、「英仏露」vs「独(+トルコ)」なんだけど、ロシアが抜けると英仏がドイツを挟撃できなくなるので困る。結果だけを見るとレーニンはドイツから「送り込まれた」ともとれる。

♨それにしても、ソ連は革命後に結構追い詰められていた状態であったが、よく盛り返したものだと思う。

♨アメリカをないがしろにしたのはまずかった。

♨米騒動は起こるべくして起こったであろう。

冷戦終結で書類が次々に明らかにされ、ロシア関係の書物は今後、大注目と思われる。作者も要注目。

以下、読書メモ。書籍の方がはるかに読み易いが、読書メモをとるときは、こうやって、ちゃんと「文章」として(単語の羅列ではなく)残すことをオススメする。

目次

<はじめに>

★シベリア出兵は1918年から。日本軍は1922年に撤兵するが、1925年の樺太北部撤退までをシベリア出兵と定義する。

★イラクへの自衛隊派遣をシベリア出兵になぞらえる人もいるが、日本ではシベリア抑留に比べるとあまり知られていない。一方、ロシアでは逆でシベリア出兵を忘れがたき屈辱とより重きを置いて捉えている。

★冷戦時代はシベリア出兵をアメリカの首謀、と考えられていたが、近年は日本が首謀とする説が強い。

<序章:ロシア革命勃発の余波ー1917年~1918年>

【1.英仏からの干渉の誘い】

第1次世界大戦の勃発

シベリア出兵は第1次世界大戦の延長にある。

※オーストリアとセルビアの間で生じたサラエボ事件に対してドイツが先手をとってロシアに宣戦布告。ロシアは西部戦線のフランスの強い要求に答える形で動員も不十分なままドイツ領へ攻め込むも8月下旬のタンネンブルクの戦いで大敗。

日本の参戦と日露協約

★大隈内閣で外相を務めていた加藤高明はドイツを敵として参戦することを主張。

※イギリスのグレイ外相はドイツの仮装巡洋艦の捜索と撃破のための協力を求めたが、参戦までは望んでいなかった。(♨でも、これって十分、参戦を望んでいたんじゃないの?)日本を思いとどまらせようとしたが(♨これは逆と思っていただけに意外。)加藤外相は耳を貸さずに参戦でまとめあげ、8月23日、ドイツに宣戦布告。日本軍は10月には赤道以北のドイツ領南洋諸島を、11月には中国の青島を占領。巡洋艦と駆逐艦は地中海に派遣するものの、事実上、1914年末には終わっていた。

★日本とロシアは共に連合国としてかつてないほど親密に。

ロシアが戦線離脱して単独講和を結ばないようにするために大量の武器を供与。1916年7月には第4回日露協約が結ばれた。この第4回日露協約の内容はこれまでと異なり、当時公表されていなかった秘密条約として、日露両国に敵意を持つ第三国による中国支配を防ぐために、戦争となれば互いに援助することが約束された。第三国とはアメリカという説があるが、あえてか明示されていない。 ♨まさか、この武器代がロシア革命で踏み倒されることになるとは。

ロシア帝国の崩壊

★ロシア民衆は思わしくない戦況と食糧不足で不満が最高潮に達していた。

※1917年3月8日の国際婦人デーにペトログラードの女性たちが開始したデモは市全体に波及。3月12日にペトログラードでソヴィエト(労働者と兵士の代表を集めた評議会)が誕生し、15日には臨時政府が組織された。

★ニコライ2世は退位。

※病弱な皇太子のことを考え弟に帝位を譲る。弟ミハイルは周囲に促され即位せず、臨時政府に服するよう国民に呼びかける。こうしてわずか1週間で300年続いたロマノフ王朝は幕を閉じた。(のち、1918年6月にミハイル、7月にニコライおよびその家族は処刑。)

★新たに発足した新政府は連合国側に立って大戦を戦い抜くことを宣言。

※臨時政府をアメリカがまず承認、英仏伊も3月に承認。日本も3月には決定、4月に通知。

ロシア十月革命

★しかし、臨時政府が打ち倒された。

※打ち倒したのはポリシェヴィキと名乗るレーニンら共産主義者。二月革命をスイスで知ったレーニンはドイツの思惑もあり、ドイツ列車に乗りペトログラードへ。

10年ぶりの帰還。

★民衆は「パンと土地と平和」を求めていた。

※それを与えられない臨時政府に代わり、徐々に支持者を得たレーニンは11月7日(ロシア暦10月25日)から翌朝までに冬宮を占領。世界初の共産主義国家が誕生した。

レーニンは領土併合なし、賠償金なしの即時講和を提案するも各国は無視。 ♨そりゃそうだろう! (追記:レーニン=ドイツからの使者、と考えれば合点)

ドイツとソヴィエト政府の単独講和

★革命で混乱するロシアをドイツ軍が襲う。

※ドイツ軍優位の状態でレーニンは停戦交渉にトロツキーを派遣。

1918年3月3日、ブレストリトフスク条約が結ばれる。

※ウクライナの独立と巨額の賠償金が提示されたが、レーニンの強い希望で受諾が決定。 ♨これが1つの世界史的ターニングポイント。トロツキー一世一代の仕事、か。

英仏のロシア干渉の動機

★東部戦線の消滅は西部戦線にとっては脅威。

※ロシアに支援した軍需物資がソビエト経由でドイツに渡るのは何としても阻止しなくてはならなかった。さっそく3月中にイギリスは派兵。

★アメリカは当時、孤立主義であったが、1917年2月にドイツが中立国の商船にも潜水艦攻撃を再開したこと、ドイツがメキシコと結んでアメリカに攻め込ませようとしている情報を得て(ツィンメルマン電報事件)、1917年4月6日、ドイツへ宣戦布告していた。

日本とアメリカへの出兵の誘い

★1917年12月、英仏は日米へシベリア派兵依頼をするが、日米とも乗らず。

アメリカの出兵拒否

★民主的ではない国家に対する干渉はウィルソンの行いたいことであったが、ウィルソンは1914年にメキシコ政権に内政干渉して失敗した苦い経験がある。また、すべてのロシア領土からの撤退を1918年1月の「14カ条の平和条約」で呼びかけていた。

★1918年3月7日、アメリカ政府「今、ロシアに干渉するのは得策か疑わしい」との覚書が日本政府に送られる。

【2.派兵か、自重かー揺れる政界と世論】

山縣有朋の反対

★元老山縣有朋はどう撤兵するのかの案まで立っていないとして強く反対。

※ロシア革命は日本にとって対岸の火事ではない。南樺太、朝鮮、南満州とは陸続き。山縣にとっての理想は中国、アメリカ、イギリスとの共同出兵。 ♨結果的にこの考えは大当たりであったのだが。やはり直感って正しい。

寺内首相も消極的

★ロシアとドイツの連合軍が東に進攻した場合は戦う必要があるが現在では大義名分がないと反対。

※田健治郎逓信大臣は日本がロシア東部を占領すれば良い、という意見を出したが山縣は相手にせず。 ♨夢があるようなないような。

本野外相の出兵論

★武力貢献してこそ英仏と並び立てる、として積極出兵を唱える。

※これには原敬が真っ向から反対して却下。

それでも出兵を求める本野外相

★あきらめきれない本野は再度意見書。西部戦線での情勢が変わり、陸海軍は支持にまわる。

※1918年4月の閣議。西部戦線におけるドイツ優勢を聞き、アメリカも参戦を考え始めていた。しかし、アメリカの出兵賛同は不可能。

外相辞任の裏に元老あり

★結局、出兵の意見は通らず、本野は4月12日に辞任。(9月17日に病死)。

※本野の意見は「帝国の繁栄」というあまりにも自己中心的であり、これでは後世まで大義名分が立たないとした。表向きは辞任だが、辞任させたのであろう。(♨元老というシステムはしっかり働いていたと考える。)

「出兵九博士」の賛成論

★国内も出兵をめぐって賛否両論であった。

※衆議院議員の戸水寛人(とみずひろんど)は日露戦争の時も出てきたが、この時も強硬論。

与謝野晶子の予言

★「積極的自衛策」に踊らされてはいけないと与謝野晶子は説く。

※さらに、その後、国が自滅する可能性までも指摘。

反対派の論客たち

★しかし、出兵を控えた1918年夏にマスメディアは締め上げとなる。

※「東方時論」の中野正剛、「東洋経済新報」の石橋湛山、「中央公論」の吉野作造が反対派の論陣を張る。石橋はロシア革命を明治維新にたとえて批判。

後藤新平外相の出兵支持

★本野の後任は後藤新平。1906年満鉄の初代総裁でもあり、ロシア帝国の上流階級とは交流が深い。

本野と同じくロシア帝国に郷愁があるため、ロシア革命には否定的。連合国の出兵をひそかに待つ「穏健派」がいることを理由に出兵をアピール。ただ、アメリカの決定を待つ方針。 ♨ちょっと意外でもあったが、ロシア帝国とのつながりを考えたら、ということか。

ソヴィエト政府による日米出兵阻止

★モスクワがとった対策の1つはアメリカと結び、日本の行動を抑制しようとしたこと。

※トロツキーによる。米英仏からの援助が確保できればドイツとの講和条約を反故にするとした。レーニンも日本とアメリカの仲を裂くのが基本方針とした。

★もう1つは、日本に好餌をちらつかせること。

6月14日、日本が出兵しないことを宣言してくれればロシアが日本に譲渡を約束した満蒙の利権を譲ることはもちろん、サハリン州や沿海州でも利権を提供するなどと表明。しかし、後藤新平は取引には応じず。

【3.陸海軍の現地工作】

海軍とシベリア出兵

★こうした論争や外交交渉の背後ですでにロシアへの干渉は始まっていた。

※日本海軍は要請があれば在ウラジオストク邦人の保護のために出動する義務がある。しかし、単に保護だけが目的ではない。この時、すでにアメリカ、イギリスは動いていた。イギリスの派遣はなかなか腰をあげない日本を揺さぶるためのものとも言われているが、日本は他国に沿海州を制圧されると脅威になると感じており、大慌てでウラジオストク入港準備に入る。

ウラジオストクへの軍艦派兵

★中ロ国境のブラゴヴェシチェンスクにも革命が波及しており、密命を受けた石光真清がコサックと日本人義勇兵による蜂起を計画。

※コサックはロシア帝国への忠誠心に篤かったのでその多くは当初、反革命的色彩が強かった。3月7日、蜂起はいったん成功。革命政権のムーヒンは捕らえられた際に「シベリアはロシアの植民地です。反革命に一時は屈することがあっても本国が安泰である限り必ずいつかロシアの手に戻るでしょう」と言う。

★1918年1月12日、戦艦「石見」がウラジオストク入港。

※イギリスより2日早い。一度マニラに引き上げていたアメリカ船も3月1日に再入港。これらはシベリア出兵を継げるものではないが、軍艦が他国の港に無通告で入港すること自体が主権の侵害にほかならない。ブレストリトフスクで交渉中のトロツキーも警戒。

海軍陸戦隊の上陸

★4月5日、陸戦隊は上陸。この暴走に寺内首相は激怒。

※3月、加藤司令官は現地で「武力威圧のもとに温和派を幇助」することを東京に進言するが政府や軍部はアメリカの出方を懸念して慎重。そんな折、4月4日、日本人が経営する貿易会社が何者かに襲われ日本人3名が死傷される事件が発生。これに乗じて加藤司令官は独断上陸を決定。翌日、陸戦隊(533人)が上陸し市内を警備。午後にはイギリス(50人)も上陸。レーニン「日本軍はきっと攻撃してくるだろう。これは避けられない。おそらく例外なくすべての同盟国が彼らを支援するだろう。」

参謀本部の出兵論

★出兵に際してどの組織よりも積極的だったのは陸軍参謀本部。

※陸軍の中枢は陸軍省と参謀本部からなる。陸軍省は軍政部門でトップは陸相、参謀本部は軍令部門で、天皇直属。参謀総長がトップ。

★参謀総長は上原勇作、参謀次長は田中義一陸軍中将。

※上原は薩摩閥、田中は長州閥であったが、二人三脚で進める。ほかにもロシア担当の宇垣一成陸軍少将も派兵主張。10月革命が起こったのちに出兵計画が具体化するも、年が明けると反革命派政権樹立、必要なら「シベリア独立」達成という方向に舵を切る。 ♨最終的には仲たがい。

出兵の黒幕としての田中義一

田中はシベリア東部を掌握、占領後は各地で親日政府樹立を目指す計画をまとめる(3月)。

※田中は出兵の利点として、①ロシア人の敵対感情でドイツやオーストリアの東進を阻止できる、②中国を日本の味方にして大戦後の中国をリード、③連合国への信義を果たす、④豊かなシベリアの天然資源を手にいれる、と一石四鳥に考えていた。

日本と中国の軍事協定

★田中は欧米が注視するウラジオストクではなく中国と軍事協定を結び北満州から出兵することを提案。

日中接近の背景には中国政府が1917年8月14日にドイツに宣戦布告して日中が同じ陣営だったことがある。さらに寺内首相の私設秘書・西原亀三による多額の資金供与(西原借款)も有利に働く。

★1918年5月16日、日華陸軍共同防敵軍事協定が結ばれる。

※3日後に海軍も。これにより中国軍もウラジオストクに派兵。日本と中国政府は作戦領域を分担。ザバイカル州とアムール州では日本軍が指揮し、中部モンゴルからシベリア東部は中国側が指揮することを1918年9月6日に決定。こうして中国と手を結んだことでたとえアメリカが派兵地域や兵力を限定しても日本側はザバイカル州への出兵には別の大義名分ができた。

特務機関の誕生

★現地でも大規模な出兵のために「特務機関」が設置された。

※すでに1914年には鉱山技師に化けた陸軍の軍人がザバイカル州に送られ、情報を参謀本部に送っていた(早っ!)。1917年2月からはハルビンで黒沢準陸軍中佐が各地の諜報員をまとめていた。彼が初代機関長とみなされる。ちなみに海軍では米内光政がその役を担っていた(ただし陸軍に比して小規模)。

参謀本部による現地工作

★参謀本部は将来の親日政権で擁立するめぼしい人材を発掘しようとする。

※中島正武参謀本部第二部長はまずハルビンへ。ハルビンは満州中心部、中東鉄道沿いにあり、中国領内にあるもののロシア人によって築かれた街である。中東鉄道の現地責任者はドミートリー・ホルヴァート陸軍少将(1859~1937)。ロシア帝国各地で鉄道敷設を指揮し、1903年~ハルビンに赴任し、彼の統治下のもとでハルビンは繁栄。

【ドミートリー・ホルヴァート】(1859~1937)

貴族出身。工兵の将校として鉄道の敷設に長じていた。1903年からハルビンで中東鉄道の経営に携わり、2018年に反革命政権の首班となる。

中国軍によるハルビン占領

★レーニンは1917年12月1日にハルビンのソヴィエトに権力奪取を命じる。

※ハルビンのポリシェヴィキを束ねていたのは27歳のマルテミヤン・リューチン。ソヴィエトの食糧不足は解決されておらず、穀倉地帯の満州が目をつけられた。リューチンはホルヴァートと会見し譲歩を引き出すも各国の駐ハルビン領事団が反対。

★中国が領事団の要請に応じる形で派兵。

※12月26日、リューチンらを拘束、シベリア追放。中島少将は「極東真に人物なし。忍耐してホルヴァートを支持するしかない」と報告。 ♨この言葉が全てを物語ってる?もっとも遅れて英雄(?)現れるが。

ブラゴヴェシチェンスクで内戦を誘因

★事実、3月12日にはアムール河のロシア艦隊を味方に付けた革命派の反撃で反革命軍は撤退。

アタマン・セミョーノフと日本

★他にもザバイカル州のコサック・アタマン・セミョーノフも支援も頓挫。

※10月革命後、彼は反革命政権樹立を目指す。しかし、敗退。

★1918年7月、結局ホルヴァートが日本の参謀本部(特に田中義一)、ロシアの反革命派に担がれて「全ロシア臨時政府」を沿海州で発足。

※もっとも沿海州の中心部ウラジオストクはチェコ軍に占領されている状況。

【グリゴリー・セミョーノフ】(1890~1946)

ザバイカルのコサック出身。ロシア革命後に私軍を組織してザバイカル州を日本軍と共に占領。1920年秋に極東共和国軍に敗れ、亡命した。

<1917年>

  • 3・15 ニコライ2世退位。臨時政府発足 
  • 3・27 寺内内閣、臨時政府承認を閣議決定 
  • 4・6 アメリカ、ドイツに宣戦布告 
  • 6・6 臨時外交調査委員会が発足 
  • 11・7 10月革命。ソヴィエト政府が発足 
  • 12・3 フランス、日米連合軍のシベリア鉄道占領を提案するも日本拒否

<1918年4月まで>

  • 1・8 ウィルソン米大統領、14カ条を発表 
  • 1・12 戦艦「石見」、ウラジオストクに入港 
  • 3・3 ブレストリトフスクでドイツとソヴィエト政府が講和条約に調印 
  • 3・21 ドイツ軍、西部戦線で大攻勢を開始 
  • 4・5 ウラジオストクに日英の陸戦隊が上陸 
  • 4・23 本野一郎に代わり後藤新平が外相に

<第1章:日米共同出兵へー1918年>

【1.チェコ軍団の救出へーアメリカへの呼びかけ】

チェコ軍団とは

★アメリカが出兵に踏み切ったのはチェコ軍団が原因である。

※オーストリアのハプスブルク家の支配を逃れようとロシアに移住していたチェコ人・スロバキア人が独立を目指してオーストリアと戦うロシア帝国に協力したもの。チェコ軍は臨時政府にも承認されていたが、ソヴィエト政府が講和してしまったためロシアに居場所をなくした。彼らは西部戦線に行こうとソヴィエト政府の許可を得てウラジオストクから太平洋を渡り、アメリカ経由でフランスに行こうとしていた。

蜂起するチェコ軍団

★1918年5月14日、西部戦線へ向かうはずのチェコ軍に事件が起きる。

※捕虜として西へ帰国するハンガリー人と東に向かうチェコ人がすれ違う際、ハンガリー人がチェコ人に鉄片を投げた。これに怒ったチェコ人は犯人を殺害。現地のソヴィエト当局は手を下したチェコ人たちを逮捕したが、3日後にチェコ軍が街を制圧して仲間を奪還。

★この頃、トロツキーに武装解除を命じられるも拒否し、各地で反旗を翻す。

※赤軍はなすすべなく、わずか3ヶ月でヴォルガ河から極東までチェコ軍団が占領。

チェコ軍団を救出せよ

★チェコ軍はシベリアを席巻したが、東西の連絡が途絶えたため捕われたとの憶測が流れる。

※連合国にチェコ軍の危機の噂が流れ、英仏伊は救援軍を日米に強く求めた。(♨というよりも、チェコ軍がもしシベリアに居続けてそのまま独立でもされたら厄介になるからではないか?)

アメリカからの出兵の誘い

★ウィルソン「日米とも7000人の兵力を限定した地域に派遣する」ことを提案。

※あくまでもチェコ軍の救出のため。

伊東巳代治の陰謀

★アメリカからの共同出兵提案は慎重論を吹き飛ばす。

※伊東巳代治は憲法起草者の1人。アメリカが満蒙まで手を伸ばすことを恐れ、ウラジオストク派兵後、シベリア全土に展開する案。

外交調査会の抵抗

★出兵反対の原敬と牧野伸顕は外交調査会委員として反対。

※しかし政府は修正案を出すことで決裂回避。結論からすると日本軍派兵は1万~1万2000人と伝えた。

原敬の黙認で出兵へ

★8月1日、ついに1万2000人で派兵決定。

※原が絶対反対を言いきれないのを伊東は見越していた。半年以上の議論を経てようやく決定。

日米の出兵宣言

8月2日シベリア出兵を宣言。宣戦布告ではなく出兵宣言であったことがシベリア出兵の特徴。

※遅れてアメリカ、イギリス、フランス。ソヴィエト政府とはこれにて国交断絶。

米騒動とシベリア出兵

シベリア出兵が米騒動拡大のきっかけに。

※7月22日の夜、富山県の漁民の妻たちの井戸端会議からの抗議が「越中女一揆」として報道されると瞬く間に全国へ。米騒動はロシア革命との対比で語られたことは興味深い。1ヶ月半にわたり暴動。

軍部の新聞操縦

読売新聞の社説が途中か出兵賛成に変わったのは軍部(田中義一)から資金流入があったから。

※一致したのは米騒動における寺内内閣の失政。(♨もともとシベリア出兵に反対していたのに気の毒だ…)読売新聞の創業者は本野一郎外相の父。本野と親しかった秋月左都夫が社長をしていたが、秋月は牧野伸顕の義兄でもある。しかし、読売新聞は経営難だったため資金を受け取り、田中の子飼いの記者が雇われた。陸軍のメディアコントロールはシベリア出兵からはじまる

マスメディアの弾圧と検閲強化

★出兵目前の7月30日は、各紙は出兵関連の記事を差し止められた。

※大阪朝日新聞は発行禁止になりかける。出兵反対派の退陣で廃刊を逃れる。中央公論も検閲を受け、一部掲載禁止。(♨こういったことはよくない前触れ…)

【2.ウラジオストク上陸、北満州からの進攻】

兵力制限に反発する陸軍

★寺内首相以下、日本の軍人たちは出兵数や出兵地域についてのアメリカの定義を軽んじていた。

※このことが出兵をめぐる日米摩擦のきっかけとなる。なんでも陸軍が最初に提案した数字は15万人程度。

ウラジオ派遣軍総司令部の創立

★司令官には上原勇作参謀総長が名乗り。

※アメリカに配慮して兵力を限定した寺内内閣には統帥権を犯したと怒り、7月に辞職を願い出ていた。上原の転任には山縣も協力したが、後任の参謀総長がいないとのことで参謀総長にとどまる。

★大谷喜久蔵陸軍大将が任命。

※青島守備軍司令官としての外交手腕が見込まれた。上原は出兵の真意を大谷に訓示。

ウラジオストクへの出兵開始

★8月3日、長州出身の大井成元率いる第12師団が動員。大井はのち二代目のウラジオ派遣軍司令官となる。

出兵兵力の合意を破る

★結局日本軍は8月中に約7万2400人が動員。

※チェコは4万。ほかアメリカ9000、イギリス7000、中国2000、イタリア1400、フランス1300であり、日本の規模は群を抜いている。

北満州からザバイカル州への出兵

★日本軍は二方面から展開。

※まずウラジオストク。ここでは足並みをそろえた。もう1つは満鉄で北上してザバイカル州へ進軍する部隊。これは日本が単独で計画しており、中国は自国で騒乱を起こすセミョーノフとそれを支援する日本軍を苦々しい思いで見ていた。

中国政府を借款で動かす

★日本は中国政府の了解を待たずに動員の準備を始める。

※のち段祺瑞国務総理が内諾するが、その際、中国軍も出兵し、軍費と武器の援助を申し受けた。単独供与は国際借款団を出し抜く形になるので難色を示し、植民地である朝鮮銀行、台湾銀行からの供与という形にする。

アメリカとの出兵地域の合意を破る

★日本軍は各地を制圧するが、原が懸念していたようにアメリカは日本軍の展開に反発する。

※後藤外相は石井菊次郎を通じて増員を通告するが、ランシング国務長官はあきれたのか怒ったのか沈黙。

快進撃の日本軍と占領体制の構築

アメリカとの合意をないがしろにした作戦は参謀本部の既定路線であった。

※寺内首相も楽観的。

朝鮮軍の出動

★ロシアに住んでいる朝鮮人たちも日本軍の標的となった。

※沿海州は1910年日韓併合前後から抗日の拠点となっており日露は朝鮮人の民族運動を双方が取り締まる条約を結んでいたほど。この沿海州南部の制圧が参謀本部の本当の狙いだったとも。朝鮮人の中にはポリシェヴィキに身を投じ日本軍と戦うものも。

【3.原敬内閣による兵力・派兵範囲の抑制】

寺内内閣の総辞職

★山縣は寺内に愛想をつかす。米騒動、病気もあり、シベリア派兵40日後に寺内正毅内閣総辞職。

※原にはしたくなかった山縣は西園寺を推すが拒否。西園寺が原を推す形で原内閣成立。

「平民宰相」原敬の限られた権力

★当時の首相の権力は現代とは比較にならないほど小さい。

※あくまで国務大臣の1人と言った程度で各国務大臣への命令権はない。原は山縣とも良い関係を築くように心がけ、山縣派の陸軍、官僚も原に逆らいにくくなった。

内田康哉の外相任命

★外相は牧野伸顕が固辞したため外相やロシア大使を歴任した内田康哉に。

※内田はソヴィエト政府をべた褒めして外務省でそしられロシア大使を辞任していた。陸奥の下で働いていた時から20年来の親友でもある。ともに出兵反対派。

原敬と田中義一の連携

★陸相は意外にも多くの予想に反して田中義一。

※原は黒幕が田中義一ということも知っていた。また、第2次西園寺内閣での上原勇作の問題の背後にいたことも知っていた。山縣の推薦を原は飲んだ。田中は田中で原に接近して政党政治家になる野心があったとも言われる。

軍備のためなら出兵では妥協

★田中は来たるべき総力戦に向けて軍備拡充すべきという点で原と意見が一致。

※バイカル湖より西には出兵しないという点も一致。異なるのがアメリカと協調するか否かということ。

原内閣による兵力削減

★アメリカの抗議を受けてシベリア駐留の日本軍削減が決定。

※田中も賛成。田中の変わり身の早さには驚かされる。しかし、これは政府と参謀本部の長い闘いの始まりでもあった。兵力削減もアメリカの不信感を払拭するには至らず。

鉄道を制するものがシベリアを制す

★指揮権、鉄道管理で日米は争う。

※結局、連合国管理委員会のもとに置かれることになるも、日米間の諍いは続く。

第1次世界大戦の終結

★日本がシベリアで展開し終えたころに第1次世界大戦が終わる。

ソヴィエト政府はブレストリトフスク条約破棄を宣言し、ウクライナを支配下に。連合国は干渉を本格化させようとするが兵士の拒否などもあり進撃できず。チェコ軍は早々に連絡がとれただけに各国はなぜシベリアに出兵し続けるのか、迷走がはじまる。

<1918年5月から>

  • 5・14 チェコ軍団によるチェリャビンスク事件、ロシア各地で蜂起 
  • 6・29 チェコ軍がウラジオストク占領 
  • 7・8 アメリカ、日本にチェコ軍救出の出兵提議 
  • 7・16 エカテリンブルグにてニコライ2世と家族が処刑される 
  • 8・2 日本政府、シベリア出兵を宣言 
  • 8・3 イギリス軍のウラジオストク上陸 
  • 8・7 日本とソヴィエト政府の外交関係が事実上断絶 
  • 8・12 日本の第12師団がウラジオストクに上陸 
  • 9・29 原敬内閣が成立、陸相は田中義一 
  • 11・4 ドイツのキール港で水兵が暴動(ドイツ革命) 
  • 11・11 連合国、ドイツとの休戦協定に調印。第1次世界大戦終結 
  • 11・16 ランシング国務長官、日本の駐米大使に出兵数などを文書で抗議 
  • 11・18 オムスク政府でクーデター。コルチャークが独裁者に 
  • 12・24 原内閣、シベリアからの大量撤兵を決定

<第2章:広大なシベリアでの攻防ー1919年>

【1.前線の日本兵たちの戦いー過酷な環境と性病】 .

日本人の膨らむ野心

★シベリア出兵が順調に見えた1918年夏から翌年まで多くの日本人がシベリアに野心を抱いた。

※たとえば226事件で青年将校に影響を与えたとして刑死した北一輝(代表作「日本改造法案大綱」)。北によれば日本がシベリア東部まで手に入れて内外モンゴルは中国によって守られれば中国と日本は連携してロシアから身を守ることができるという考え。

凍える兵士たち

★前線の兵士たちは過酷な環境にさらされていた。

※顎も凍って話などできない。野外の睡眠はもちろん、長時間の静止も不可能。井戸水も凍るので水の確保も難しく、パン以外はすべて凍る。

パルチザンとの闘争

★日本の指導者たちは、シベリア出兵はロシア人を助ける人道的な試みと公言するが、多くのロシア人にとって日本軍の到来は災厄に過ぎなかった

※革命家たちは正面から戦うことを避け、各地に潜伏しながら戦う道を選んだ。彼らをまとめてパルチザンと呼ぶ。シベリアの日占領地域ではひそかにパルチザンの根拠地の建設が進められた。

田中大隊の全滅

★日本軍がパルチザンを追い詰めようとして逆に罠にかかり、全滅させられたことも。

※応援にかけつけた部隊も包囲殲滅させられるなど。

苦戦の背景

★責任は兵士にない。そもそも第12師団は担当する地域が広すぎて兵力が分散していた。

※一個隊全滅はなかなかないことと、事件は日本側に衝撃を与えた。しかし、原内閣はパルチザン討伐の方針を変えず。

イワノフカ村の「討伐」

★田中大隊全滅後、第12師団は名誉回復のため大討伐に。

※しかし、パルチザンと住民を見分けることはできず、住民たちにとっても過酷なものに。ブラゴヴェシチェンスク近郊のイワノフカ村は見せしめに徹底して討伐された。ロシア人の犠牲者数は291名とも。

ゲリラ戦に翻弄される日本軍

★その後も前線ではいたちごっこが続く。

※第12師団長大井成元は所属部隊に行き過ぎを注意するが、どこまで効果があっただろうか。パルチザンは日本軍がシベリア全土に散ったところを狙って兵力をひそかに集中させ施設を破壊。目的を果たすとただちに撤退するので捕捉するのが難しい。

軍規の緩みと売春

★先の見えない戦いの中で兵士たちのモラルは低下。

※シベリア出兵前から「北のからゆきさん」は多かった。そこで東南アジアで規制の入った日本人女性も参入。1時間で40日分の給与だが明日死ぬかもしれないので遊んだ。

広がる性病

★兵士たちの性病罹患率の高さも知られる。

※性病は不名誉だったため申告しなかったものもいたであろう。

【2.反革命コルチャーク政権の樹立】

コルチャークとは何者か

★それまで日本が重視していなかった軍人が突如シベリアを掌握する。

※彼の名はアレクサンドル・コルチャーク海軍中将。2008年には「アドミラル(提督の戦艦)」という映画にもなった。北極海探検で名を馳せ日露戦争にも従軍。二月革命の際に辞任に追い込まれ、臨時政府によりアメリカに派遣。のちイギリス軍に従軍するつもりであったが、中東鉄道軍事担当理事として招かれホルヴァートに力を貸すことに。この職務の間、中島正武やセミョーノフとは対立。ホルヴァートではポリシェヴィキは倒せないとみ限り1918年10月に東京に。彼にイギリスが手を差し伸べ、その後ろ盾を得てシベリアの「全ロシア政府」の陸海軍大臣に就任。

【アレクサンドル・コルチャーク】(1873~1920)

ロシア帝国の海軍軍人。1918年11月にシベリアで政権を掌握。一時はモスクワ攻略を夢見たが、赤軍に敗北し、1920年2月に銃殺される。

コルチャーク政権の樹立

★コルチャークはクーデターにより「全ロシア軍最高執政官」に就任。

※この「全ロシア政府」はもともと寄り合い所帯。11月18日、将校たちの決起に推されて就任すると、12月にはウラル山脈を越えてペルミを陥落させソヴィエト政府を慌てさせた。翌年春には13万人以上に膨れ上がり、兵員も装備も赤軍を上回った。コサックの支持を得て特に騎兵が優れていた。

コルチャーク支持へ傾く日本

★コルチャークを支持するのか傍観するのか日本は決断を迫られる。

※閣議決定案としては、日本にとっては自国に有利な政権ができれば統一政府がコルチャークだろうが誰であろうが良かった。また、第1次世界大戦で余剰資本を得た財界も、新たな投資先としてコルチャーク政権の承認を原敬に望んだ。

孤立したセミョーノフ

★勢いにのるコルチャークにシベリア各地の反革命派もなびいていく。

※ホルヴァートは早々に恭順。ホルヴァートは沿海州、アムール、サハリン、カムチャッカの4州と中東鉄道鉛線を管轄する「極東最高代官」に任命。他方、セミョーノフは対抗。ブリヤート・モンゴルの血をひく彼はモンゴル独立を目指す別組織を打ち立てようとするが、中国との軋轢を避けたい日本はもてあまし、支援打ち切りを明言。ついに1919年6月にコルチャーク政権の第6東シベリア軍団長におさまった。

日本のコルチャーク政権承認

★イギリスなどの連合国武官の協力のもと、3月4日に大攻勢を開始。

※日本もコルチャークの快進撃を目の当たりにしてシベリアに独立政権を樹立する方針へ舵を切る。5月17日、正式承認が閣議決定。

列強のコルチャーク支援

★コルチャークがシベリアを席巻していた頃、パリでは第1次世界大戦の講和会議が開かれていた。

※ウィルソンはソヴィエト、コルチャーク両方が会議に参加できるよう働きかけるが、フランスのピジョン外相はポリシェヴィキのような「犯罪的政権」とはいかなる協定も結ばないとする。「被統治者の同意」を重視するウィルソンはアメリカ国務省からコルチャーク政権承認を求められるが、クーデターで政権を樹立したことに否定的で、承認を先延ばしにしてきた。フランスのクレマンソー首相、日本などの説得でウィルソンもついに承認に。もっとも、彼の足元では軍が急速に崩壊しつつあった。

【3.赤軍の反撃ーレーニンによる処刑指示】

失政

★コルチャークのつまずきは、まず内政の不手際にあった。

※生産活動低下による財政混乱。物価は数倍に上昇。(♨コルチャークの責任と言うより内戦下という悪条件だから?)戒厳令が敷かれ、裁判なしの銃殺は日常茶飯事に。パルチザンに協力的とみられた村を焼くなどの行為もあり、徴兵と合わせて住民の反感を買う。

大井司令官の内政改革案

★大井司令官は反革命軍に軍需品含めた物資を与えることを提案。

※これにより民衆の支持を得て、民衆をパルチザンから日本軍へひきつけようとした。

★しかし、肝心のコルチャークが内政には無関心であった

※「私は赤軍を殲滅させると言う目標を掲げてきた。改革には関心がない。」

★統治の要に民心があり、民心の安定こそが軍事的な成功の下地となるのをついにコルチャークは理解しなかった。

反撃に転じた赤軍

★さらに赤軍の必死の反撃がコルチャークを追い込む。

わずか2万4000人のウファ戦線に徴兵により1か月後には34万の兵士が集められることに。残された家族へは食糧を与えることが条件。6月9日、奇襲攻撃でウファを奪回。

止まった生命線

★ウファ失陥を境にコルチャーク軍は東へ後退。

※赤軍はコルチャーク軍を追って拠点を奪取するたびに寝返った兵士や多くの戦利品で強化され、コルチャーク軍は反対に弱体。またコルチャーク軍に物資を供給するシベリア鉄道は赤軍に追われて西から逃れてくる難民とポリシェヴィキが指導した鉄道員のストライキでほとんど動かなくなってしまう。

満蒙を守りたい参謀本部と陸相

★コルチャーク軍は日本に援軍要請をした。

※しかし、閣議決定でバイカル湖より東に行動範囲を限るとの理由で拒否。その後も戦況は悪化。参謀本部は焦り、なんとか派兵したい意思を出すが、高橋是清財相は真っ向から反対し、田中義一と激論。その後も田中は帝国の任務、日本の自衛のための派兵を主張するが伊藤巳代治にはかえってそれは別問題と論破される。

田中陸相をなだめる原首相

★満州には必要であれば兵を送ることを挙げて田中陸相を説得。

※シベリア派兵で犠牲が出れば国民の支持も得られない。しかし、これにより翌年、各国が撤退しても日本軍が増派するというちぐはぐな対応の伏線となる。

イルクーツクへの派兵

★12月24日、イルクーツクで守備隊の反乱が起き、居留民保護のため出兵。

※1月1日、到着。バイカル湖より西には出兵しないと言う原内閣の方針は破られた。

コルチャークの処刑

★日本軍がイルクーツクに着く頃にはコルチャークの命運は尽きようとしていた。

※しかし本庄支隊は中立を命じられているので動けない。1月15日にはコルチャーク護衛のチェコ軍団が裏切り、コルチャークは革命政権に引き渡された。のち銃殺。

<つづく:後編>

書籍はコチラ

シベリア出兵 – 近代日本の忘れられた七年戦争 (中公新書)新品価格
¥929から
(2019/8/17 18:04時点)

麻田雅文先生が解説をするコチラもすごい

ノモンハン 1939――第二次世界大戦の知られざる始点新品価格
¥4,104から
(2019/8/17 18:07時点)

【追記】知らなかったけど、ガンダムの安彦良和先生が、最後の連載に「シベリア出兵」を選んだそうだ。 ↓↓

http://news.kodansha.co.jp/7714

さすが、目の付け所が違う。石ノ森章太郎先生にしてもそうだが、歴史に挑む姿勢に気骨を感じる。(2019/8/19記)